古の大占い師 8
誰かに小さく体を揺すられて、メルメルはゆっくりと目を開いた。薄暗い中、ぼんやりと辺りを見回す。傍らで膝をついている人影に気付き、そちらに目を向ける。
「……誰?」
「すまないが、ちょっといいか?」
「……ラインさん?」
メルメルは体を起こして、隣りで眠っているペッコリーナ先生を見た。次いで、窓に目を向ける。カーテンの隙間から外の暗闇が見える。まだ、夜中なのだ。眠い目を擦りながら欠伸をしていると、ラインが促すように優しく背中を押してきた。
「メルメル……」
メルメルは仕方なく立ち上がる。
(……どうしたのかしら? 一人でおトイレに行けないのかしら?)
ぼんやり考えながら、ラインに続いて部屋を出て行く。リビングではルーノルノーが寝そべっていて、そのお腹の上でミミとシバが気持ち良さそうに眠っていた(すっかり仲良しになっちゃったんだ)。
何故かラインは、そんな二匹を持ち上げて両脇に抱えた。ルーノルノーは首を持ち上げて不思議そうにラインを見る。
「ちょっと借りるぞ」
そのまま玄関のドアを開けて、外に出て行ってしまった。メルメルが慌てて追い駆けると、ラインは湖のほとりに立って待っていた。メルメルが来たことを確認すると、ミミとシバを両脇に抱えたまま、あの、見えない橋を渡り始めた。
メルメルは小走りに追い駆ける。「どこへ行くの?」
「昨日の稽古の続きをしようと思ってな……。家の周りだとみんなを起こしてしまうから」
メルメルはパッと顔を輝かせた。眠気も吹っ飛んでしまった。「剣のお稽古?」
「そうだ。メルメルは筋がいいし、せっかくだから共にいる間に少しでもと思って……」
メルメルは、嬉しくなってスキップするようにラインの後ろをついて行く。足元にピラニークが集まって来ているが、そんな事もまったく気にならない。ラインが首だけ捻って振り返った。ニコニコ顔のメルメルを見て笑っている。両手に抱えたミミとシバが、ラインの笑いに合わせて揺れている。
メルメルはぶらぶら揺れている二匹を不思議そうに眺めた。「どうしてミミとシバを連れて行くの?」
「ちょっとな……。どうしてもやっておきたい事があって……」
「やっておきたい事?」
「ああ。まあ、行けば分かる」
行けばと言うが、一体どこに向かっているのかメルメルには分からない。空を見ると、薄っすらと明るくなり始めている。もうすぐ夜が明けるのだ。
ラインは橋を渡りきっても歩みを止めず、林の中に入って行った。どこまで行くのか少し不安になりながらも、メルメルが黙ってついて行くと、程なくして開けた場所に出て、そこでラインは立ち止まった。ミミとシバを地面に下ろす。二匹は寝ぼけているのか、ぼんやりと座り込んでいる。
「ここでお稽古するの?」
「そうだ。……少し下がって」ラインはメルメルの腕を引いて、後ろに下がらせる。
「……?」メルメルが首を傾げていると、
「ガオー!」
突然、木の上から赤毛の豹が飛び降りてきて、ミミとシバ目掛けて走って来た。
「あ! スリッフィーナ……あー!」
スリッフィーナは恐ろしげな顔で、ミミに向かって前足を振り上げた。まさかスリッフィーナに攻撃される筈無いと思っていたのか、ミミはまともに平手打ちを食らって、五メートル程吹っ飛んでしまった。
「あーー!」
メルメルは目を丸くして叫ぶ。それを無視して今度はシバをギロリと見た。先程のミミへの攻撃を見ていたシバは、慌てて背中を向けて逃げ出す。しかし、スリッフィーナは素早く跳躍してヒラリとシバの前に降り立った。
「ニャ!」シバは慌てて方向転換する。
「ど、どうしてなの!」
メルメルは悲鳴上げる。見上げると、ラインは腕組みをして無表情で三匹を見ていた。慌てた様子は全く無い。
「……?」ラインの様子に首を傾げながら、視線を前に戻した。
「ガオー!」幾度も行く手を遮られ、シバはヘロヘロになってきた。そして遂に、
「ウガー!」スリッフィーナはシバを左手でぶっ飛ばした!
「シバ! ねぇラインさん! 止めて!」
メルメルはラインに掴みかかる。しかし、ラインは相変わらず無表情で、何も言ってはくれない。
「グゥゥ……」スリッフィーナが、立ち上がったシバににじり寄る。
「お願い! ラインさん!」
ラインは返事をしない。シバはおびえて伏せてしまっている。
「ど、どうしてなの!」
スリッフィーナが、またも手を高く振り上げた。
「カー!」ミミが、スリッフィーナの背中に爪を立てて飛び乗った。バリバリと背中を引っ掻いている。しかし、スリッフィーナはまったく堪えた様子が無く、小バエでも振り払うように体を振って、ミミを振り落としてしまった。
「ミャオーン!」シバがスリッフィーナ目掛けて思い切り突進した。硬そうな体に当たってはね飛ばされている。
「ら、ラインさん!」
メルメルが泣きそうな顔で再び隣を見上げる。すると、驚いた事にラインは薄っすらと笑っていた。「……ラインさん?」
「そろそろいいか。――スリッフィーナ!」
ピクリと顔を上げて、こちらに駆けてきたので、思わずメルメルは二、三歩後退りしてしまった。スリッフィーナは、そんなメルメルには目もくれず、ラインにピタリと寄り添った。
「良くやったな。スリッフィーナ」
叱りつけるならともかく、良くやったとは何事か。メルメルは少しムッとした。ラインは素知らぬ顔で、スリッフィーナの赤い毛並みを撫でている。
「何なの! 一体……」
口をへの字に曲げているメルメルを見て、ラインはクスクスと笑った。
「驚かせてすまなかったな。だが、説明する訳にいかなかったのだ……。大丈夫。スリッフィーナは本気で戦ったわけではないから」
そう言われて、ミミとシバを見てみると、二匹はポカンとした顔でこちらを見ている。どうやら怪我などはなさそうだ。
「スリッフィーナとあの二匹を戦わせておきたくてな」
「ど、どうして?」
「……分かるだろう?」
青い瞳に見つめられて、メルメルはハッとした。「もしかして、変身の為?」
ラインは頷く。
「そうだ。今は力不足で変身出来なくとも、いずれは役に立つだろう。――自慢じゃないが、スリッフィーナはとても強い」
メルメルはスリッフィーナを見る。口元から恐ろしげな牙がはみ出していた。
(言われなくてもスリッフィーナが強い事は分かっているわ! ……でも)
「どうして教えてれなかったの?」
分かっていたら、こんなにドキドキしないで済んだのだ。少し恨めしげにラインを見る。
「くっくっく。まぁそんな顔をするな。何もメルメルを驚かせたくてやったわけではない。……ミミとシバは、一度戦った相手にしか変身出来ないのだろう?」
「……そうよ」
「その、戦うというレベルが分からなくてな。軽く手合わせしただけでいいのか、ある程度本気でなくてはならないのか……」
腕組みをして考える仕草をするラインを見て、メルメルも首を捻る。
「だから、突然襲われれば少しは本気になるかと思ったのだ。メルメルに教えてしまうと、危機感がないのがバレて、ミミとシバが戦おうとしないかも知れないと思って。――敵を欺くにはまず味方からと言うだろ?」
ニヤリと笑うラインを見て、ほんの少し楽しんでいたのではないかとも思ったが、メルメルは取り合えず納得する事にした。
「いつか……三匹のスリッフィーナを見られるのかしら? 楽しみね!」
「……そうだな」
「ミミ! シバ! おいで!」
二匹はスリッフィーナを警戒しながら、そろそろとメルメルの所までやって来た。
「はい。仲直りよ!」
メルメルは二匹を持ち上げてスリッフィーナの鼻面に近づける。すると突然、スリッフィーナが大きな口を開けた。
「――!」
「クワ~」わざとらしく大きな欠伸をしている。
「こらこら……」ラインは、軽くスリッフィーナの頭を小突いた。
ミミとシバはカチンコチンに固まっている。今度は、スリッフィーナがベロリと二匹を舐めた。二匹はいよいよ固まってしまった。
「――よし。それじゃあ、あまり時間も無い事だし、今度はメルメルの稽古を始めようか?」
「はい!」
「それじゃあ、まずは素振り百回」
「はい! ……え? ひゃ、百回……」
「冗談だ」
メルメルがホッと胸を撫で下ろすと、ラインは珍しくニコッと笑った。
「五十回だ」
「…………は~い」
今度は冗談ではなさそうだ。




