レジスタンス 10
メルメルは生まれてこの方、夜、一人で外を出歩いた事など一度も無かった。
花火をしに行く時も、ホタルを見に行く時も、アケが迷子になってトンフィーが泣きべそでやって来て、一緒になって探してあげた時も、いつもプラムじいさんが一緒だった。
メルメルは生まれて初めての、一人きりの夜の町を走りながら、街灯の灯りが浮かび上がらせる自らの影の不気味さや、ザワザワと、わずかの風に思いの他大きな音を立てる木々の囁きや、そこかしこの、家と家の間から出て来そうな見えない何かに怯えていた。
もしも遥か前方に、メルメルを導くように走る二匹の茶トラの猫がいなければ、窓からコッソリ抜け出してきた部屋に逆戻りしていたかも知れない。
そして遂に、ほとんど行った事すらない町外れまでたどり着いたところで、メルメルは一度足を止めた。――くるりと後ろを振り返る。
(駄目ねメルメル。何を期待しているのよ……)
しかし、遠くからこちらに向かって駆けて来る足音がしないか、つい耳をそばだててしまう。残念ながら自分の息づかいの他には何も聞こえてこなくて、メルメルは少し肩を落としながら再び歩き始めた。重い脚を引きずるようにしながら、ゆっくりと、小さな丘を登って行く。丘の頂きに一本の大きなモミの木が町を見下ろすように生えており、今はその根元で、ミミとシバが行儀良くお座りをして待っている。メルメルはモミの木までたどり着くと、もう一度だけ、と自分の町を振り返った。自らの家が見えて、大好きなプラムじいさんの顔が浮かぶ。
(必ず助け出すからね! おじいちゃん……)
おそらくまだメルメルが部屋からいなくなっている事に、ペッコリーナ先生とグッターハイムは気付いていないだろう。
今度は、少しメルメルの家から遠くの方に視線を伸ばすと、トンフィーの家の黄色い屋根が見えた。灯りが消えているところを見ると、トンフィーも母親のソフィーも、既に眠ってしまっているようだ。
(仕方ないわよ……)
メルメルは溜め息を吐き、町に背を向ける。そうすると今度は、終わりの見えない深い深い森が目の前に広がった。園で噂されているところによると、この西の森には、何だか恐ろしい生き物達が住んでいるとかいないとか。
(……迷信だわ)
そう思いながらも、メルメルは西の森に入ろうなどと考えた事は、一度もありはしないのだ。
夜で一層おどろおどろしい森を見つめているうちに、メルメルはある失敗に気付いた。上から見下ろしてみると、森の中をクネクネしながら一本の道が走っているのが分かる。しかし、木々に遮られて道は途切れ途切れに見えたり隠れたりしている。ここは遮るものが無いから、月明かりのおかげで足元も良く見えるけれど、
(しまった。灯りを持ってこなかったわ……)
しかし、今から部屋に戻ればさすがに見つかってしまう可能性が高いだろう。少しの間メルメルは逡巡していたが、諦めてトボトボと森に向かって丘を下り始めた。
チリリリン……
聞き慣れた鈴の音が聞こえた気がして、メルメルは慌てて後ろを振り返った。月がモミの木の真後ろにあるせいで、木のこちら側がまっ暗闇で見えない。
「…………………」
メルメルがじっと目を凝らしていると、徐々に小さな人影が現れて、次第にその輪郭がはっきりして来た。そして、
「メルメル!」
「トンフィー!」
木の下からトンフィーが現れて、こちらに向かって駆け寄って来た。
「ニャ~ン」鈴をチリチリさせながらアケも追いかけて来る。
「トンフィー、ど、どうして?」
トンフィーは少し興奮して、耳を赤くしている。「僕も行くよ」
トンフィーはメルメルよりも先に来ていて、ずっと待ってくれていたのだ。その事に気付いてメルメルは涙目になる。
「でも、でも……」
「おじいさんを助けに行くんでしょう? メルメルだけじゃ心配だもん」
メルメルはとても嬉しくなって、ついトンフィーに抱きついてしまった。しかし、すぐに重要な事を思い出して体を離した。
「でも駄目よ。ソフィー母さんを一人には出来ないもの……」
「大丈夫さ! 母さんにはちゃんと事情を説明したもの」
メルメルは唸った。
「でも、具合、良くないんでしょう? トンフィーはそばにいなくちゃ駄目よ……」
メルメルがそう言うと、トンフィーはいたずらっぽくニッと笑った。
「具合が悪いなんて嘘さ。逆に、最近はすごく調子が良いんだ。さっきはああでも言わないと、ペッコリーナ先生が付いてきそうだったからね。そんな事になったら、母さんとペッコリーナ先生は久々のお喋りに花が咲いて、僕はいつまでも家を抜け出せなくなると思ったんだ」
トンフィーはいつもメルメルの考えの及ばないような事ばかり考えている。改めてメルメルは感心してしまうのだった。
「じゃあ……、本当に一緒に来てくれるの?」
メルメルが上目使いに聞くと、トンフィーはニコッとして頷いた。
「もっちろんさ! ――大体、メルメル君。君は灯りさえもお持ちじゃ無いんじゃないかね?」
おどけた調子で、トンフィーは遠足用の大きなリュックからランプを取り出した。
「だからトンフィーって好きよ!」
トンフィーが頭を掻いてひとしきり照れている間に、メルメルは大きなリュックの中身を覗いてみた。雨具、ロープ、ナイフ、小さなお鍋、お米、キャットフード、暖かそうな上着がちゃんと二人分入っている。そして呆れた事に、
「トンフィーったら、教科書まで持って来たの?」
「そりゃそうだよ。毎日少しは勉強しないと。勿論メルメルも一緒にね」
「うへぇ」
メルメルが舌を出すとトンフィーはクスクス笑った。
そうして二人は手をしっかり繋いで、森に向かって歩いて行く。メルメルの足取りは先程とは打って変わって、とても軽快なものになっていたのだった。




