最終決戦 8
ラインは、呆然とその姿を眺めていた。
いや、実際には一瞬で相手はいなくなってしまっていたから、眺めていたというのは正確では無いかも知れない。ただ、彼女の残存が目の裏に焼き付いていて、それを見ていたに過ぎないのだ。
彼女は生前と変わらない姿で、生前と変わらない素晴らしく正確な矢を放ってきていた。しかし、ラインの心臓目掛けて飛んできた矢は、直前でマト自体がほんの少し左に動いたせいで狙い通りの場所を射抜く事は出来なかった。消え去る直前に見せた、彼女の口惜しそうな顔。自分を一撃で殺せなかった事でそんな顔をする彼女を見る日が、まさか来るなんて……。
「ラインさん!」
自分を呼ぶ声が聞こえて、ラインはハッと我に返った。後ろから走り寄って来る少女を振り返る。
「ラインさん! ――ラインさん! 矢が……」
ラインの右胸に深々と刺さった矢を見て、少女は涙を浮かべる。ラインはゆっくりとした動作で自らに刺さった矢に触れた。――急所は外した。だが……。
「……大丈夫だ。……行こう」
頭に優しく触れて歩き出すと、少女はラインの右手を掴んで泣きながらついて来た。ラインは階段の前に呆然と立ち尽くす少年の頭にも優しく触れた。
「――母さん……」
「強くなれ……。トンフィー……」
少年は両目一杯に涙を浮かべ頷き、ラインの左手を掴んだ。子供を両脇に従え、ラインは階段を降りて行く。
ゴゴゴゴゴ……
再び地面が大きく揺れた。
フラリ――と、手を掴んだラインの体が揺れて、メルメルは一瞬ドキリとした。しかし直ぐに、ラインは何事もなかったかのように足早に歩き出す。地面は揺れ、壁のあちこちが剥がれ落ち、天井からはパラパラとホコリが降って来る。
ズズズーン……ズズズーンと低い振動を繰り返すカルバトの塔。しかしメルメルにとっては、そんな今にも崩れそうな塔の中にいる事よりも、握り締めたラインの手が、徐々に冷たくなってきている事の方がもっとずっと恐ろしかった。チラリチラリと胸に刺さったままの矢に目をやる。
――それ程血が出ているようには見えない。
今度はもう少し視線を上げて、ラインの顔を覗き見る。そして、メルメルは思わずハッとした。手がこんなに冷たいのにもかかわらず、こめかみから流れ落ちる程に大量の汗をかいているのだ。
「――大丈夫だ。メルメル……」
メルメルの視線を感じたのか、前を向いたままでラインが呟く。しかし、メルメルがそれでも不安げに見つめ続けていると、ラインは再び、ゆっくりと口を開いた。
「……あの男は、かつて私が赤の大臣だった頃、赤軍に入りたいと言ってハルバルートにやって来た事があるのだ」
あの男とは、恐らくガスバルドの事だろう。メルメルは大きく頷いた。
「うん。聞いたわ。だって自分でたくさん喋っていたもの。でも、ラインさんは追い返したのでしょう?」
メルメルは、ラインが喋っていられる程に元気なのが嬉しくてウキウキと問いかけた。
「そうだ……。あの男は、赤軍に入る代わりに自分を隊長にしろと言ってきた。……私は、あの男を足腰が立たなくなるまで叩きのめし、ハルバルートから追い払った」
「正解だわ! あんなのが隊長じゃ、部下が可哀想よ!」
「フッ……あんなの、か。……しかし、あの男はロロ族の王の血を引く者なのだそうだぞ?」
「王? ガスバルドが?」メルメルは目を丸くした。
そんな驚いた顔をした少女のラインを挟んで反対側では、少年が元気を無くしてしょんぼりとしていた。それはそうだ。親友にあんな酷い事をする母親を目の前で見てしまえば、誰でも落ち込むというものだ。だからこそ余計に、メルメルは元気に喋べり続けた。
「王様の血なんて信じられない! それって本当なの?」
「さあな。確かめた訳では無いから分からないが……。だが、何故メルメルは、ガスバルドが王族だという事が信じられないのだ?」
「え? ……だって、そんな風には見えないし……」
「そんな風とは、どんな風だ?」
「え、えーと……」
まさかそんな事を追求されるとは思わなかったので、メルメルはすっかり弱ってしまった。目の玉を上にして真剣に考えてみる。
(王族……王……。マンガで見た王様は口髭を蓄えて、変な冠を頭にのせて……それで……それで何だかすごく偉そうで…………そうか!)
「威厳よ! 王様ってもっと威厳があると思う……あ! ――ら、ラインさん!」
ラインが足元の瓦礫に躓いてよろめいた。メルメルとトンフィーは慌ててラインを支える。
「おっと……大丈夫だ……。フッ……威厳か。ガスバルドには威厳が無かったか。……それでは私はどうだ? 威厳など、やはり無いかな?」
「ラインさん? ラインさんは威厳たっぷりだわ! ね、トンフィー!」
「えっ!」
突然、元気いっぱいに話しかけられて、トンフィーは目を丸くした。どんどん冷たくなってきているラインの左手が気になって、話を余り良く聞いていなかったのだ。メルメルの泣きそうな必死の目を見て慌てて頷いた。
「……あ、うん。たっぷりだ!」
「ね!」見上げるとラインは薄っすら微笑んだ。その笑顔の力無さに、メルメルはとても悲しくなる。
「だが……私は王族では無い。母は嫁ぐ前は農家の娘だったらしいし、父は大尉を勤めてはいたが、元々は田舎の道場で剣術師範をしていたような男だ。二人ともハルバルートの都からは遠く離れた田舎町の出身で、いくら遡って調べても、王族との関わりなどありはしないだろう……」
階段の崩れてしまった場所を迂回して避けながら、ラインは語り続ける。いつもならこんな距離ひらりと飛び越えてしまう筈なのに……。
「王の血を引いていればガスバルドのようにはならないのか? 田舎育ちの母親を持つ娘が大臣ではおかしいか? ――ロロ族とは誇り高く、強靭な肉体と精神を持ち、体は大きいが心優しい部族だと聞いた事がある。ガスバルドがその王族であるというのなら……血などというのは、実にくだらない物だという事だ……」
ラインは休みなく話し続ける。メルメルは、ラインが話している間は、その内容に集中しさえすれば泣きそうな自分を何とか抑える事が出来た。しかし、ラインの喋りには時折呂律の怪しいところなどがあり、メルメルの中で不安の風船はどんどん膨らんでいってしまうのだった。
「メルメル……トンフィー……。その人がその人であるのに、血や生まれた場所など関係無い。王族だろうが、貴族だろうが、平民だろうが、他の国の生まれだろうが……。そんなくだらない価値観で、人を判断してはならない……」
「はい……」メルメルもトンフィーもこっくりと頷いた。
「……ハーハー。……例え、お前達が、ガスバルドの子であったとしても……ハーハー。私は、お前達を、愛しく思うだろう……」
「ワタシだってそうよ! 例えば――ラインさんがガスバルドの妹だったとしても、関係なく大好きよ!」
「僕もだ!」
「……ハーハー……フフ……」
ラインは呼吸を荒く激しく繰り返す。メルメルは顎を上げ、ラインの顔ばかり見て歩いていた。だから突然トンフィーが、「ああ!」と大きな声を出した時、思わず肩がビクッとなってしまったのだ。
「な、なによトンフィー……。びっくりするじゃな――」
「は、梯子が……」
「え……? ――えぇ!」
前を向いたメルメルは、その光景に驚いて思わず声をひっくり返してしまった。壁に、以前通った時は無かった巨大な穴が空いている。
「な、何よ……これ……」「……ハーハー……」
メルメルの記憶が確かならば、ここには小さな部屋があった筈だ。床には丸い穴が空いていて、そこから下へ降りる縄梯子がぶら下がっていた。ところが……。
床には、今も確かに穴は空いている。しかし、何故かそれは、元の大きさの五倍くらいに広がってしまっていた。それに、縄梯子は穴の中の壁に打たれた二本の杭に繋がれていたのだが、一本は杭が完全に抜けてしまっていたし、もう片方の杭も抜けかけていた。縄梯子は、かろうじて落ちずにぶら下がっているような状態だ。
トンフィーは慌てて穴に駆け寄り、万が一にも落ちないようにと縄梯子をしっかり掴んだ。
「き、きっと、あの鉄球が落ちたんだ……」壁に開いた穴と、床に開いた穴とを見比べて呟く。
「鉄球……。あの、巨大鉄球が……?」
「……ほら、見てごらんよ」
トンフィーは言いながら床に開いた穴を示す。メルメルは穴を覗き込んで目を丸くした。
穴から見える下の階の景色は酷い有り様だった。恐らくトンフィーの言うように鉄球が落ちて転がったせいなのだろうが、床の一部が大きくへこんでいて、そこから床がバキバキに壊れた道が一直線に伸びていた。ここからでは見えないが、恐らくあの壊れた床の先に鉄球があるのだろうと予感させる。
「ど、どうしよう……」トンフィーは眉をハの字にして情けない顔をした。
「どうしようったって……」メルメルもとことん弱った顔になる。
この、トンフィーの掴んでいる外れかけた縄梯子で下に降りるのは危険過ぎるだろう。だが、まさか飛び降りられる高さではない。下の階までは優に十メートルくらいはありそうなのだ。二人が困った顔を突き合わせていると、後ろからラインがスッと手を伸ばしてきて、トンフィーの握り締めていた縄梯子を取り上げた。
「ラインさん?」
「ハーハー……一人づつ降りて行け……」
「で、でも……」トンフィーは、縄梯子とラインを見比べて呟く。
「大丈夫だ……私が掴んでいるから……」
「ラインさん!」メルメルは思わず悲鳴を上げる。
その時、再び激しく地面が揺れた。ガラガラと穴の周りの壁が崩れ落ちる。
「早くしろ……ハーハー……。この塔は、そうは保たないぞ……」
「駄目よ! だって……ラインさんはどうするのよ! それじゃあ、ラインさんが降りられないじゃない!」




