最終決戦 6
「――げほっ! うっ……ゲホッ、ゲホッ、ゲホッ、ゲホッゲホッ! ――ゼー……ゼー……げ、ゲホッゲホッ!」
メルメルの体に失いかけた様々な感覚が戻ってきた。
まず初めに感じたものは――痛み。
久しぶりに自分の中に飛び込んで来た空気に体が驚いて、激しくむせてしまった。そのせいで喉に焼き付くような痛みがある。その次に感じたのは暖かい肌のぬくもり。誰かが自分を抱き上げている様なのだ。メルメルは呼吸を整えながら、ぼんやりとした頭で今の状況を思い出していた。
(そうだ……ワタシ、ガスバルドに首を絞められて――)
「遅くなってすまなかった。……大丈夫か?」
「…………」
「……メルメル?」
首を捻り、メルメルの顔を覗き込んできた、その驚く程に澄んだ、綺麗な青い二つの目。
メルメルはその人の首に両手を巻きつけ、ギュッと力を込めた。
「う…………う……うわあ~~~ん! ラインさあ~~ん!」
大声を上げて泣き出したメルメルを、ラインは無言で強く抱き締めた。
「うわあ~~んあんあん! うわあ~~んあんあん!」
メルメルは中々泣き止みそうにない。恐らく、相当怖い思いをしたのだろう。そう思うから地面に下ろす事も出来ず、ラインはメルメルを抱き上げたままで、足元でうずくまっている大男に視線を移した。ブルブルと小さく体を震わせながら、右の手で自らの左腕の付け根を押さえている。――いや。正確には元々は左腕が生えていた場所を。そこからは血が溢れ出していて、地面に大きな血溜まりを作っている。ガスバルドの傍らに、ラインが先程切り落とした左腕が物も言わず落ちていた。それに一瞬目をやり、今度は、まだガスバルドにちゃんと生えたままの右の腕に目を移す。そうして思わず眉をひそめた。
そんなラインの様子をプラムじいさんは、ほうっと溜め息を吐きながら見つめていた。自分の中からいっぺんに不安がかき消えていくのを感じる。
――彼女が来れば大丈夫だ。もう、メルメルが命の危険にさらされる事は無いだろう。
「ライン……」
赤の大臣――ライン。かつて、赤軍を率いて数々の軍功を立てたその英明果敢さは、軍人のみならず多くの民からも愛されていた。
戦場で見せる真っ直ぐな心。また、戦場から離れた時に見せる純真な心。
プラムじいさんはずっと、ラインのような優しさと強さを持って欲しいと願いながらメルメルを育ててきた。もしも体を縛られていなければ思わず膝をついてしまう程に、それまで緊張しきっていた体から力が抜けて行く。
「良かった……メルメル……」
メルメルはようやく落ち着いてきてグシグシと鼻をならしながら、ある事を急に思い出してガバリと体を持ち上げた。
「そ、そうだ! トンフィー! ――ラインさん、トンフィーが!」
メルメルは慌てて周りを見回す。うずくまって動かない大男の姿が目に入り、一瞬ビクリとする。しかし直ぐ、その体の十数メートル先に倒れた少年と、その顔を覗き込むようにしている三毛猫の姿が見えて意識が全てそちらに向かった。
「トンフィー!」
メルメルは、ラインの体から飛び降りて倒れたトンフィーに駆け寄った。トンフィーの顔を一生懸命アケが舐めている。チリチリと鈴の音が聞こえる。「ニャ~ン……」
「トンフィー、トンフィー……」
メルメルは傍らにしゃがみこんで、その、いつもより細く華奢に感じる肩に手を置いた。体を揺さぶろうとしたその手を、後ろから伸びてきた手が優しく掴んだ。
「動かしてはいけない」
「ラインさん……」メルメルは後ろを振り仰いだ。
ラインはすぐさまメルメルと反対の傍らに回り、膝をついてトンフィーの顔に自らの手の甲を近づけた。
「ラインさん、トンフィーは……トンフィーは大丈夫?」
メルメルが不安げに問いかけてくるのにはまだ答えられず、今度はトンフィーの細い手首を握った。 ――うん。大丈夫だ。脈がある。
ラインはトンフィーの耳元に口を近づけた。「トンフィー……トンフィー!」
大きな声で呼びかけると……、
「ん……うぅーん……」少年は小さく身じろぎ、思い切り顔をしかめた。
「トンフィー!」メルメルの顔がパッと輝く。
「どうやら無事な様だな。良かった……」
「う……ん?」トンフィーはゆっくりと目を開く。「うん? あ……れれれ? ――あ、アケ?」
どアップになったアケの顔を見て、不思議そうに何度もパチクリとまばたきを繰り返している。メルメルは、再びこみ上げてきた涙を堪えながらその様子を見守っていた。すると突然、トンフィーがこちらを見てガバッと起き上がった。
「メルメル! ――いっててて……」
「急に動いてはいけない。頭を打っているんだ。恐らく軽い脳震とうだろうが……安静にしていろ」「え……ら、ラインさん?」
トンフィーは頭を抱え込みながら、首を少し捻ってラインを見上げた。驚いたように目を丸くする。
「トンフィー……」
「め、メルメル! い、――いてて……」
反対側から聞こえてきた声に、慌てて勢い良く首を捻ってしまい、トンフィーは再び頭を抱え込んだ。
「だ、大丈夫トンフィー?」
「う、う~ん……。よ、良かった……メルメル……」
どうやら大丈夫そうな様子に安心して、メルメルは満足そうに頷いた。そしてサッと立ち上がった。実は、他にも心配事があるのだ。
「メルメル?」ラインが不思議そうに見上げた。
メルメルは心配事を拾いに行こうと身を翻し、いまだにうずくまって動かない大男に向けて足を踏み出しかけて目を丸くした。
「――ミミ!」
なんと、心配事の方からこちらにやって来たのだ。隣に寄り添うシバに支えられるように、ふらふらと不安げな足取りでミミは歩いてくる。「ニャ~ン……」
「ミミ! ……ミミ!」
メルメルは駆け寄り、ミミを抱き上げた。何だかやたらと静電気みたいに張り付いてくる毛並みに何度も頬ずりする。
「良かった……ミミ……」
後ろからトンフィーのホッとした様な声が聞こえて、メルメルは二人の元へ駈け戻った。
二人がやたらと喜んでいる理由を知らず首を傾げているラインに、トンフィーが説明する。
「まともにガスバルドにサンダーボルトを食らって倒れていたんです。……無事で良かった」
「サンダーボルトを? それは――すごいな……」
ラインは驚いてミミの頭を撫でた。しばらくそうして不思議そうな顔でミミを見つめている。
「ライン! 後ろじゃ!」
ハッとしてラインは立ち上がった。
ヒュオオォォ……。
耳鳴りのように風の音が響く。風の冷たさに、肌が突き刺すように痛い。
――そうか。きっと、もうすぐ夜が明けるのだ。
日が昇り初める頃が一番冷える。
(確か、昔おじいちゃんがそう言っていた……)
メルメルはぼんやり考える。そのおじいちゃんは、のっそりと立ち上がった大男の陰に隠れて姿が見えなくなってしまっていた。
「久しぶりじゃないか……赤の大臣よ」
ラインが片手にぶら下げたままだったスリッフィーナの剣を構え直した。左手のカルバトの剣は鞘に収めたままだ。
メルメルはラインの肩越しに、今や完全に人間とは違う生き物に変わってしまった大男を仰視していた。ラインに左腕を切り落とされた傷口からは、もう血は溢れ出ていなかった。顔を火傷でただれさせ、体中に矢を突き刺し、全身切り傷や咬み傷だらけになりながらも、ガスバルドは――――――笑っていた。
「お前に……会いたかったぞぉ……赤の大臣」
「二人共、下がっていろ」
ラインに命じられ、メルメルはミミを胸に抱き締めたまま、トンフィーを支えて立ち上がった。ラインの背中を見つめながらゆっくりと後ろに下がる。
「お前は……お前はまさか、俺様を忘れたのではあるまいな?」
ガスバルドは、ひくひくと顔を痙攣させている。ラインは無言のまま、ガスバルドの左の胸に光る青い石を見つめていた。
「わ、忘れたのなら、なら、思い出させてやろう……お、俺様は――」
「覚えている」
静かな声でラインが言うと、ガスバルドは嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑った。
「そうか! そうだろう! ――が、ガハハハ! ハハハ……忘れているはずが、な、ないな!」
「…………」
メルメルは、少しずつ、少しずつ後ろに下がりながら、向かい合った二人の戦士見比べて唖然としていた。
ラインの方は女性としては大きな方なのだろうが、向こう側に見えるガスバルドは遠近感を無視した巨大さで、まるで狸と熊の様に見える。――いや。狸じゃさすがにラインも怒るし、熊じゃガスバルドには可愛過ぎるか。まぁ、とにかくそのくらいに二人の体格は違い過ぎるのだ。
「で、ではあの日の事を……後悔しているだろうぅ! お、俺様を軍に、いれ、入れなかった事を!」
「……後悔?」
ラインはピクリと眉を持ち上げた。
「そうだ! おま、お前は……何故俺様を軍に入れなかったのだぁーーーー!」
大声で空に向かってガスバルドは吠えた。その様子をラインはじっと見つめている。表情の変化は一切ない。
「……つまり、私がお前を軍に入れなかった理由を知りたいのだな?」
「そ、そうだ。その、バカな理由をだ」
ガスバルドの口から流れ出た唾液は、髭を伝わって胸に大きな染みを作っていた。様々な要素が合わさって、どこからどう見ても不気味としか言いようのないその姿。しかし、ラインの顔には嫌悪感も不愉快さも表れてはいなかった。その目も、澄んだ水のように静かだ。
「……そう。――あの時、赤軍にお前がやって来た時……」ラインは遠い記憶を探るために、僅かに目を細めた。「……あの時のお前は――お前は既に、私如きでは救いようの無い様な状態だった。私は……どうするべきか少し迷った。だが、結局はお前を追い返す事にしたのだ」
ガスバルドが目を剥く。
「な、何が救えないだ! 俺様がどれだけ強いか! お、お前は見抜けなかった! 見抜けなかっただけのくせに~!」
メルメルは、まるで駄々っ子のように足をバタバタ踏み鳴らして暴れているガスバルドを、呆れ顔で見つめていた。それ程の恐怖を感じないのは、もうかなり離れた所までやって来たからだ。あまりに離れ過ぎたから、大声のガスバルドはともかくラインの声はかなり聞こえ辛くなっている。メルメルとしては逆に少し近付いてしっかり会話を聞きたいのだが、トンフィーがどんどん後ろへと引っ張って行くのだ。
「ね、トンフィー……。もう良いんじゃない? この辺りで――」
「だ、駄目だよ! まだまだ危ないよ……」
ガスバルドは鼻息荒く言葉を続けた。
「お、俺様は、今では、将軍をやっている……将軍をやっているんだぞ! おまえぇは見抜けなかったのだ……。俺さまぁの……力をなぁ!」
「……確かに。私は大変な誤りをしてしまったようだ」
「な、なんだとぅ?」
「本当に――申し訳ない……」
ガスバルドは驚いたような顔をして固まってしまった。ラインはぼんやりとした目で遠い所を見ている。
「……そうだ。お前は私に後悔しているのだろうと言ったな。確かに……。確かに私は後悔している」
「ぐふっ……ぐふふふ……」
ガスバルドは大声で笑い出したいのを何とか堪えているといった様子だ。
「お前を追い返してはいけなかった。……あの時私は――」
ガスバルドは空を仰ぎ、いつもの爆発大笑いを炸裂させようと準備した。ラインの言葉の続きを待つ――。
「その場で、お前を殺しておくべきだったのだ」
抑揚のない声。ガスバルドの顔からサァッと笑顔が引いていった。
トンフィーからは空を仰いだガスバルドの顔は見えないが、先程まで嬉しそうにウキウキ揺れていた肩が急に動きを止めたので、何だか尋常じゃない心の動きがあった事は伝わってきた。息を飲むトンフィーの横で、メルメルは、ほとんど声も聞こえなくなってしまった事が不満で頬を膨らませていた。
(こんな所まで下がる必要無いのに!)すぐ後ろはもう塔の縁だ。
トンフィーとしては、今のところ言葉を交わしているだけだが、一度あの二人が戦いを始めれば、どれだけ離れても安心とは言えないと考えていた。それはそれは激しい戦いでになるだろう。戦いの火の粉はどこまで飛んでくるか分からない。ところが、そんな考えが間違っていた事をトンフィーはすぐに思い知らされる事となる。
ガスバルドはしばらくの間、日が昇り始めたせいで薄くなってしまった星の光を睨み付けていた。やがてゆっくりと顔を正面に向ける。歯をむき出し、黄色く濁った目でラインを睨み付けた。
「殺しておくべき……だった、だ、と?」
「そうするべきだった。その後お前に殺された者達には、本当に申し訳ない事をした」
ラインは辛そうに目を伏せる。その様子を見れば、先程の言葉が本当に心からそう思って発したものなのだと分かる。だからこそ余計に、ガスバルドの怒りの炎は燃え上がった。
「こ、の……バカ女めぇ……。貴様に俺様を殺す事など出来るものかぁ……!」怒りで、ガスバルドの体中から湯気が吹き出ている。「みぜてやろう……進化じた俺様をぅ……ぎざまには倒せない……だおせないのだぁ!」
――あの攻撃が来る。
メルメルもトンフィーも体を固くした。ところが斧を振り上げたガスバルドを前にして、ラインは身じろぎ一つしなかった。両者の間は結構開いている。きっと、ラインはガスバルドの攻撃が自分には届かないと考えたのだ。
「ら、ラインさん逃げてーーーー!」




