最終決戦 5
メルメルは唇を噛んでそれを見つめた。
ハリネズミのようになったガスバルドの、巨大で不気味なその左手。手の平を前にして、自らの心臓を庇うように突き出されている。その手の平には、一本の矢が突き刺さっていた。
「くぅ……」トンフィーは眉根を寄せた。
狙いは外れていなかった。矢は、真っ直ぐに正確に、ガスバルドの左胸に埋められた命の石目掛けて飛んでいったのだ。しかし――。
寸での所で、それまで身じろぎもしなかった巨人は左手をかざし、矢は、その手の平に突き刺さってしまったのだ。
そしてそれが、トンフィーに残された――最後の矢だった。
(倒れろ……)
トンフィーは矢を放った体制のまま、念力でも送るように一心にそれを願った。
(お願い……倒れて……)
メルメルも祈るように巨人を見上げる。
ガスバルドは瞬き一つせず、ピタリと動きを止めていた。
(倒れろ、倒れろ、倒れろっ!)
(倒れて、倒れて、倒れてっ!)
たとえ、命の石を打ち砕く事は出来なかったにしても、その体は無数の矢で貫かれているのだ。普通の人間なら間違いなく倒れている。
(これなら……。そう……この、巨人だってきっと……)
トンフィーは、考えるというよりも、まるで願うようにそう思った。そして遂に、身じろぎ一つしなかった巨人の体が、ぐらりと揺れた。
ぐーっと前のめりに――傾いていく。
メルメルとトンフィーは拳を振り上げた。「やっ――」
「グワーッハッハッハッハッ!」
「――――!」
二人は思わずヒュッと息を吸い込んで固まってしまった。目を見開いて、突然大声で笑い出した巨人を、ゆっくり見上げる。
「グワッハハハ! グワーッハハハハ! グワッ、グワッ、グワッハハハハハハーーー!」
ガスバルドは空を仰ぎ、大口を開けて、目尻に涙まで浮かべて笑い続けている。その体には勿論、無数の矢が相変わらず突き刺さったままだ。しかし、心から愉快そうなその姿に、痛みや苦しみを感じた様子など微塵も感じられなかった。逆にトンフィーやメルメルの方が、まるで体に矢が刺さってでもいるかのように苦悶の表情を浮かべている。
「グワッハハハ! ひーひー……」
ガスバルドは顔を前向きに戻し、自らの左手を目の前にかざした。手の平に突き刺さっている矢を、右手であっさりと引き抜く。そして、その傷口からとろりと出てきてしまった血を、ベロリと舌で舐め上げた。ネバネバとよだれが糸を引く。トンフィーは絶望的な気持ちで目を閉じた。
「グッフフフフ……。こんな事で、俺様を倒す事が出来ると思ったか? 馬鹿め……俺様は、悪魔の兵隊だぞぉ?」
――命の石がもたらした、不死身の肉体……。
トンフィーはがくりと膝をついた。
――分かってはいた。分かってはいたが、倒れろと願わずにはいられなかった。
「さ~て……。先ずはこのバカ猫から始末するかな?」
ガスバルドはニヤリと笑い、足に噛み付いたままのシバへと手を伸ばした。トンフィーはなす術もなく、その様子を愕然と見つめていた。
ザクリ!
「――!」
突然、ガスバルドのふくらはぎから、にょっきりと刃が飛び出してきて、トンフィーは目を見開く。「――め、メルメル……」
トンフィーの位置からは、ガスバルドの太い足に隠れて全くその姿は見えないが、おそらくメルメルが後ろからガスバルドのふくらはぎを突き刺したのだろう。それを裏付けるように、震えるか細い声がガスバルドの足元から聞こえてきた。
「シバ……逃げて……」
ガスバルドは再び不愉快そうな顔に戻って、自らの足元へと手を伸ばす。
突然、目の前に自分の顔よりも大きな手がぬっと現れて、メルメルは思わずギョッとなった。
「きゃ……!」
ガスバルドの巨大な手は、握り締めたメルメルの手ごと剣をズブリと引き抜いた。そのままメルメルは上へと持ち上げられる。カランと、剣だけが下に落ちた。
「あぁぁぁ……!」
メルメルは、手首が引きちぎられるような痛みに、悲鳴にならないような声を出した。
「メルメルー! やめてくれー! ガスバルドー!」
プラムじいさんが縄で縛られた体を暴れさせ、必死になって叫けんでいる。ガスバルドはギロリとそちらを睨みつける。
「頼む! 頼むからやめてくれ~! 離してやってくれ~!」
「な~にが頼むだ……。今更笑わせるなクソじじい! ……まぁ、安心しろ。貴様も直ぐ、同じようにあの世に送ってやる。そこでみんな仲良く花摘みでもするがいい……」
ガスバルドはひくひくと奇妙に口元をひくつかせ、メルメルをぐいっと目の高さへと引き上げた。
「い――ううぅ……離して……」
苦痛に顔を歪めるメルメルを、ガスバルドはニヤニヤと見つめた。
「グッフフ……さっきまでの威勢はどうした小娘。ん~?」
ガスバルドの顔をギロリと睨みつけ、煽られるがままに、メルメルは最後の威勢を出す事にした。
「はっ……なしてよ! こ……の、ひげもじゃ! 口が……口がとっても臭いのよ!」
「くっ……このクソガキめ!」
ガスバルドは右手でメルメルの首を掴み、手首を掴んでいた左手を離してしまった。
「うぐっ……ううぅ……」
「やめろー! ガスバルドー! メルメルー!」
プラムじいさんの悲痛な声が夜空に響き渡る。ガスバルドはそれに心を動かされる様子など欠片もなくて、何故かやけに嬉しそうな顔でメルメルの顔を覗き込んだ。
「苦しいか? ん~どうだ~?」
メルメルには、ガスバルドの口から発せられる生臭い匂いも、よだれを垂らした汚い顔が近づいてくる不快感も、幸か不幸か、余りの苦しさに感じられなくなってきていた。
「ううぅ……うぅ……」
――意識が遠のいていく……。
「離せー! この、この、この、このー!」
「ん~? なんだぁ~?」ガスバルドがギョロリと目玉をそちらに向ける。
「離せ、離せ! メルメルを離せ、この化け物!」
メルメルには、それはまるで、隣の教室から壁を通して聞こえてくる怒鳴り声のように感じられた。しかし、実際はメルメルの直ぐ真下、ガスバルドの丸太のような足に拳を叩きつけながら、トンフィーが涙を浮かべて発している声だったのだ。
「離せ、離せ、離せ、離せ、離せ、離せー!」
トンフィーはポコポコと拳をガスバルドの足にぶつけた。無論、相手には何のダメージにもなりはしないだろう。ガスバルドにとってはカ(・)にとまられたようなものだ。しかしトンフィーにはもう他に出来る事もなく(だって、矢も魔法も完全に尽きちゃったんだ)そうして素手で殴りかかるくらいしかすべがないのだ。
(――誰か! 誰かメルメルを助けて!)
トンフィーは心の中で叫ぶ。自分にはどうする事も出来ない絶望感。目の前で、大好きなメルメルが殺されてゆく。「この、この、この……」
ガスバルドの顔を睨みつけようと、トンフィーは視線をあげた。そうしてふと、自分が取り付いているよりも少し高い場所に、ずっと、ずーっと長い事そうしてガスバルドの足に噛み付いていたらしい一匹の獣の存在に気付いた。きっと、トンフィーと同じように大好きな人を助けたくて、必死でそうして噛み付き続けているのだろう。顎だって痛いだろう。良く見れば、歯茎から血が滲み出している。
トンフィーはギュッと拳を握り締め、目の前のガスバルドの野太い足を、この世で一番憎いのはこの足だと言わんばかりの顔で睨み付けた。
「……こ、の……ぐわわぅー!」
トンフィーはシバと同じように、そのにっくき足に思い切りかぶりついた。
「……うるさいハエ共め」ガスバルドは顔をメルメルの方へ向けたまま、目だけを足元の一人と一匹に向ける。「そんなにこの小娘が好きなら、貴様らは先に行って待っていてやればいい……」
ニヤリと笑い、トンフィーとシバが張り付いた右の足を後ろに目一杯引いた。それでもトンフィーとシバはガスバルドの足に噛み付いたまま離れない。
「地獄へ飛んで行けー!」「――!」
ガスバルドが力一杯右足を蹴り上げると、ビューっと一人と一匹は吹っ飛んだ。
「……と、トンフィー君!」プラムじいさんが大きな声で叫ぶ。
シバは着地するさい、コロコロと地面を転がりながらも何とか体制を立て直して立ち上がった。どうやら大した怪我もなさそうだ。――しかし、
「トンフィー君! 大丈夫か! 返事をするんじゃ、トンフィー君!」
トンフィーは受け身もとれず、地面叩きつけられるように一度小さく跳ねた。そしてそのまま動かなくなってしまった
(……トンフィー!)
今のメルメルは、首を捻って後ろを振り向く事など出来ない。だから、何が起こったのか正確には分からない。万が一振り向けたとしても、首を掴まれ呼吸の出来ない苦しみに溢れ出てきた涙のせいで視界がぼやけ、倒れたトンフィーの姿はどうせ見えなかったかも知れない。だが、自分を掴み上げているガスバルドの体が大きく揺れた事や、耳の奥底の遠い所でプラムじいさんが、「トンフィー君! トンフィー君!」と繰り返し呼んでいるのが聞こえるから、トンフィーに良からぬ事が起こったのは分かっていた。
(トンフィー! トンフィー……トン……フィー……)
メルメルの意識は徐々に遠のき、プラムじいさんの声も、ガスバルドがいやらしい声で、「小僧は死んでしまったぞ~。ん~? お前も、もう駄目か小娘~?」と言う声も聞こえなくなってしまった。
そして遂にメルメルの中で、トンフィーを心配する気持ちさえも消え失せ、思考さえも完全に止まってしまったのだ……。
深い深い海の底にいた。何故こんな所にいるのか分からない。とりあえず両手で水をかき、上へ泳いで行こうとしたがちっとも前に進まない。
何だか、とてもだるいし疲れている。
それに、周りが真っ白で眩し過ぎるから目が焼けるように痛い。そう、丁度雪山で太陽の照り返しにあった時の様な……。
真っ白なのだから海の底というよりは雲の中にいるのかも知れないが、雲の中ではなく海の中だという確信があった。何故なら、全く息が出来なくてとても苦しいからだ。
――そう。たまらなく、苦しい。
だけど、実際は雲の中など一度も入った事がない。もしかしたら雲の中では息が出来ず、これほどに苦しいのかも知れない。それならここは、雲の中なのかも知れない。
――まぁ、いずれにしても今はそんな事はどうでもよくて、ただひたすら、苦しいのだ。
苦しくて、苦しくて、死んでしまいそうだ。だからさっきから疲れた体に鞭打って、頑張って泳いでいる。
遥か頭上に、ポツリとシミの様な黒い点がある。真っ白な空間に唯一ついた、黒いシミ。あそこに行けば呼吸が出来る。何故だかそう、知っている。だから頑張って泳いでいるのだけど、本当に全く前に進まない。とても苛立つし、苦しいし、眩しいし、もう何だか、嫌になってきた。それに、ちょっと分かってきてしまった。無理をしてあのシミにたどり着かなくても楽になれる方法が、実は、あるのだ。それは、
諦めてしまう事だ。
そうすれば、苛立ちも、苦しみも、眩しさも、何も感じない場所へ行ける。
――そうだ。楽になれる。
そう思うから、水をかく手にも力が入らない。
――そうだ。何も無理に泳がなくとも。
小さな黒いシミがどんどん離れて、いよいよ小さくなっていく。
――そうだ。何もかも諦めてしまえばいい。
息苦しささえも、なくなってきた。
――……………………。
「メルメル!」
ハッとして目を見開く。相変わらず真っ白な空間。一瞬目を見開いた気になったが、そもそも目を瞑っていたのかどうかも怪しい気持ちになってくる。再び呼び起こされる息苦しさ。
――苦しい。ほおっておいてくれればいいのに……。
「メルメル!」
――おじいちゃん……。
今度はメルメルの心に、どっと悲しみの波が押し寄せる。何故だか分からないが、とても悲しい。
――許して……おじいちゃん……もう、ワタシはもう諦めてしまった……。
「諦めるな……メルメル」
今度はまた、別の声。
――誰?
「さあ、おいで……」
抱き締められる。強く、暖かい腕に。そしてゆっくりと体が上昇していく。
メルメルは頭上を見上げた。黒いシミが大きくなってゆく――。
「メルメル……」
優しい声。聞いた事のある、暖かい声。
「……おかあ……さん」
ものすごい早さで、黒いシミが大きくなってゆく……。どんどん大きく。大きく、大きく、大きく。
――――――――――視界一面に黒いシミが広がった。
「汚い手を離せ――この大阿呆」
辺り一面、真っ暗な世界。




