カルバトの塔 23
メルメルの悲壮な叫び声が夜の闇に響く。トンフィーは呆然と下を向き、奈落のような暗闇を見つめた。やがて辺りには吹きすさぶ風の音と、悲痛なすすり泣きだけが聞こえるようになった。
トンフィーは肩を震わすメルメルの腕をぐっと掴み、上へと引っ張った。
「メルメル……。さぁ、上がって……」
しかしメルメルの腕に力が込められる事はなく、逆に徐々に体の力が抜けつつあるようだ。
「メルメル……」
「うっうっ……ミミ……シバ……」
「メルメル」
「ひっく……うっく……」
「――メルメル! ミミとシバが必死で守ってくれた命を無駄にする気かい!」
ハッとしてメルメルが上を向くと、そこには顔を真っ赤にしたトンフィーの、怒ってるような泣いているような顔があった。
メルメルはそこから視線を逸らし、再び俯いた。
「メルメル……」
トンフィーが悲しそうに呟いたその時、握りしめたメルメルの腕が力強く動いた。
「うむむむ……」
ようやく登ろうとし始めたメルメルの体を、トンフィーは全身全霊を込めて引き上げた。
「よ、い――しょっと! …………はぁ、はぁ、はぁ、……や、やった……」
やっとこさメルメルをひっぱり終えると、トンフィーはその場にコロンと寝転んだ。体中にびっしょりと汗をかいているし、息も上がっていて、しばらくは動けそうもない。
「は~、は~……」「うっ……うっく……ぐすっ」
メルメルもトンフィーと同じように仰向けに寝転んでいた。動く事が出来ない訳ではないが、両手の甲を目に押し当ててじっとしている。
「……ミミ~。……シバ~! ――わ~んわんわん! わ~んわんわん!」
遂に堪えられなくなって、メルメルは声をあげて泣き始めた。隣からは鼻をすする音が聞こえる。
――メルメルは今までこんなに悲しい思いをした事がなかった。魔法の授業で失敗して髪を燃やした時も、調子に乗って橋の手すりの上を歩いていて、大切にしていたイチゴ模様の財布を川に落とした時も、運動会でリレーのアンカーだったのに、前日の夜興奮し過ぎて熱を出し、結局運動会すら参加出来なかった時も、今程は悲しくなかった。
――そう、おじいちゃんがさらわれた時でさえ。
それを知った時は、それはそれは悲しかった。それでもあの時は、――おじいちゃんは生きている、ワタシが助け出さねばという気持ちがあったから良かった。しかし、今回は……。
二匹はメルメルの目の前でこの高さから落ちたのだ。助かる事はまずあるまい。
「ふえ~ん! ……ひっぐ、えっぐ。……わあ~ん!」
「ちょっと待ってメルメル!」
隣でトンフィーががばりと起き上がった。メルメルはびっくりしてトンフィーを見た。
「――ひっぐ!」
「……やっぱり聞こえる。――ほら」トンフィーは険しい顔で唇に人差し指を当てている。
「うっく……ふっぐ……」メルメルは胸をひきつらせ、何とか涙を堪えた。すると、
バサッ……バサッ……バサッ……
「は、――ひっく! 羽音だわ!」
トンフィーは慌ててドアの外に体を乗り出し視線を下に向けた。メルメルも隣から覗き込む。
「いる……! 少しずつ上がってくる……」トンフィーは険しい顔のまま弓を構えた。
ミミとシバの筈はない。彼らには翼が一枚しか生えていなかったのだから、飛べる筈が無いのだ。それではあれは、きっとハゲタカもどきなのだ。
トンフィーには良く見えているようだが、メルメルの目には、まだ薄っすらとしかその影が映っていない。ただ、不規則な羽音だけが夜空に響く。
バサッ……バサバサッ……バサッ……バサバサバサッ
薄っすら見えている影も右へ左へとふらふらしているようだ。――そんなにまでしてメルメル達を倒したいのか……。
「トンフィー……」
「………………」
あれが上がってきたら、トンフィーはまたしても撃ち落としてしまうのだろうか。一生懸命に飛んでくる姿を見て、メルメルは何だか可哀想になってきてしまった。すると――トンフィーが隣でゆっくりと構えをといたのが分かって、メルメルはホッとしてそちらに目を向けた。
「トンフィー……」
「違う」
「――え?」
トンフィーは目を細め、ふらふらと上がってくる影をじっと見つめた。
「……ハゲタカもどきじゃない」
「えっ?」メルメルは慌てて下を覗き込む。
確かに、言われて見ればハゲタカもどきじゃないようにも見えてくる。
(そうね……。ハゲタカもどきにしては少し小さいような――)
バサッ バサッ……バサッバサッ……バサバサバサ……
それはゆっくりと、しかし確実にメルメル達のところへ上がって来ようとしている。メルメルもトンフィーと同じように目を細めてその様子を見守った。
(――そうよ。ハゲタカもどきにしては……形が少し妙な……あれは――あれはもしかして……!)
メルメルはくりくりの目玉をいっぱいに見開いた。「あれは……、あれは……!」
「ミミとシバだ!」
バサバサバサ……バサッ……バサッバサッ!
夜の空ををフ~ラフラと上がって来る不格好な影。実は、あれは二匹の猫が寄り添って懸命にお互いの動きに合わせ翼をはためかせる姿だったのだ。
「ミミー! シバー!」
「頑張れ……! 二匹とも頑張れー!」
声を枯らさんばかりの二人の熱い声援を受け、あっちへふらふら、こっちへふらふらしながら、二匹は懸命に飛び続けた。そうして遂には、メルメルとトンフィーのいる場所に大分近いところまでたどり着く事に成功したのだ。
「ほらっ……こっちよ……頑張って……!」
「もうちょっと……大丈夫だよ……おいでおいで!」
「ニャ~!」「キェ~!」
ミミの方は少し可愛らしくない声だったが、二匹はメルメル達の声援に応えるように大きな声で鳴いた。
バサッ……バサッ バサッ バサッ
「そ、そっちじゃないわ……! こっちよ! こっちだったら……」
もう高さは十分のところまで来ているのに、中々ドアの方へと近づく事が出来ずにいる二匹に、メルメルはやきもきした。猫二匹はぴったりと寄り添いお互いの手足を絡ませて、何とか一枚ずつしかない翼を合わせて飛んでいるのだ。その様な状態で自由自在に空を飛び回れる筈もなく、右へふらりと流れては、ミミが慌てふためいて羽を動かし、左にふらりと流れては、シバが慌てふためいて羽を動かし、ようやく少し前に進んだと思ったら、今度はくるりと後ろを向いたりしていた。
「早く、早くっ……」何故かトンフィーはとても焦っていた。
メルメルは気付いていないかも知れないが、トンフィーは、ミミとシバの変身がいつ解けてしまうか分からないと考えていたのだ。二匹が変身してからは十分くらいしか経っていない。ミラークルクルマンの変身時間は三十分。だが――ルーノルノーの時もウンピョウの時もそうだったように、まだまだ力の足りない二匹はおそらく時間一杯変身している事が出来ないだろう。もしも今すぐ変身がとけてしまったら、再び奈落の底へまっしぐらだ。
「頑張れ~! 頑張れ、頑張れ~!」
「そうよ! こっちこっち……良い子だから……よしよし……そうそう……」
バッサ……バサバサバサバサバサバサ!
「やった~!」
ピッカー!
ようやく中へ飛び込んで来た――ちょうどその時。二匹の変身はすっかり解けてしまった。
「ニャ~……」
「良くやったわ! ……良くやったわね二匹とも……ぐすん」
疲れ果てて少しぐったりしている二匹を、メルメルは力一杯抱き締めた。
「うんうん……。良かった良かった!」
トンフィーもにじみ出てきた涙を拭いながら、嬉しそうに笑った。
ひとしきり二匹の生還を喜んで、少し気持ちが落ち着いてくると、メルメルはミミとシバの体を持ち上げ、その宝石のような青い瞳を覗き込んだ。
「ミミ……シバ……ありがとう。ワタシの為に――おじいちゃんの為に一生懸命戦ってくれて……。とっても感謝してるわ」
メルメルは二匹を下に下ろし、今度はトンフィーの方を見てぺこりと頭を下げた。
「メルメル?」
「トンフィーも――ありがとう。危険な思いをたくさんしたのに、ずっと傍にいて助けてくれて、本当に、本当に、ありがとうございます……」
改めて深々と頭を下げ、そのまま顔を上げないでいるメルメルに、トンフィーはすっかり焦ってしまった。
「ど、ど、どうしたのさメルメル? 急にそんな……顔を上げてよ! だ、だって、ぼ、僕が勝手に付いて来たんだし……。そ、それにもとはと言えば、全部僕のせい――」
トンフィーがみなまで言う前に、メルメルはパッと顔を上げトンフィーを真っ直ぐに見つめてきた。 その瞳は、見るもの全てを惹きつけるかのようにキラキラと輝いている。
トンフィーは、メルメルが時折見せるこの瞳の輝きがとても好きだった。このキラキラした瞳を見ていると、何か大変な事が起こっても、メルメルといれば何とかなるんではないかと、期待の様な、安心の様な物を得る事が出来るのだ。
思わず口をつぐんでその瞳を見つめていると、メルメルがニッコリと微笑んだ。
「本当に感謝してるのよトンフィー。トンフィーがいなかったら、こんな所まで絶対たどり着けなかったわ。だからちゃんとお礼を言いたかったの」
「そんなの……当然だろ? だって僕達――」トンフィーは、ペッコリーナ先生よりもちょっとだけ上手にウィンクをした。「友達なんだから」
メルメルは一瞬目をパチクリさせてから、ニッコリと満面の笑みを浮かべた。
「そうね……。そうよ! ワタシ達、友達だものね!」
「そうさ! だから、ありがとうもごめんねも言いっこなしだよ。メルメルが困った時は僕が助けるし、僕が困った時は……」
「ワタシが助けるわ!」
しばらく二人はニコニコと見つめあっていたが、突然、何故かメルメルが真面目な顔に戻ってしまって、トンフィーは少し驚いた。「メルメル?」
「……トンフィー。おじいちゃんはきっと、この階のどこかにいるわ」
「え? ど、どうしてそう思うの?」随分と確信を持ったような声音に、トンフィーは首を傾げた。
「さっき、外にぶら下がっている時に塔の上の方が見えたの。そうしたら、もうこの階より上は無いんだって事が分かったのよ。ここが――このカルバトの塔の最上階なんだわ。だから――おじいちゃんはきっと、この階のどこかにいる」
「………………」
あのキラキラ輝く瞳で一点を見つめているメルメルの顔を、トンフィーはじっと見つめた。
――遂に……遂にたどり着いたのだ。プラムじいさんを助け出すのは容易な事では無いだろう。最後の関門――おそらく、最強の敵の妨害が自分達を待っているに違いない。だが、ここにたどり着くまでだって容易じゃない事は山ほどあった。それでも何とかかんとか乗り越える事が出来たじゃないか。そう――だから、きっと、
「大丈夫! きっとおじいさんを助け出せるよ!」
力強いトンフィーの言葉に、メルメルはこっくりと頷いた。
「よし! 行こうメルメル!」「ええ!」
勢いに乗ってトンフィーはさっと手を差し出した。
「……………………」
「……………………」
「ど、どうしたのメルメル? 早くおじいさんを探しに行こうよ」
差し出された手をじぃーっと見つめて動かずにいるメルメルに、トンフィーは首を傾げた。せっかくの威勢が台無しだ。
「うーん……。早く行きたいのは山々なんだけれど、そういえばそもそも他の部屋へ行く方法も分からないのよね~。――どこかに隠された扉か何かあるのかしら? ――ほらっ、ミミ、シバ! あなた達の鼻で秘密の扉を探し出しなさい!」
そう言って二匹のお尻を押して、ミミとシバに迷惑そうな顔をされているメルメルを、トンフィーは呆れ顔で眺めた。
「まったく……。メルメルったら……。犬じゃないんだから鼻で探し出すなんてむちゃだよ。――ほらメルメル、こっちこっち!」
トンフィーは先ほど見つけた小さな丸いしるし目指して歩きながら、メルメルを手招きした。メルメルは嬉々としてそれを追いかける。
「もしかして、トンフィーったら扉を見つけたの?」
「たぶんね。本当はここへ来て直ぐに見つけたんだけれども、それを教える間も無く、メルメルったらあの外へのドアをとっとと開けちゃうんだもん。だから言ったろう? メルメルは少し慎重に――」
「あ~! こんな所に変なしるしがあるわ!」
危うくトンフィーのガミガミお小言がぶり返しそうになって、慌ててメルメルは丸いしるしに駆け寄った。後ろでぶつぶつ言っているトンフィーには構わず、しるしに顔を近づける。
「あら……何だか壁が引っ込んでる……」
「そうなんだ」トンフィーが隣に立って、少しだけ得意げな顔でニッコリ笑った。「――それにしても、本当にカルバト族は良くこれだけたくさんの仕掛けを作ったものだよね? 何だか関心しちゃうな~、僕。ほら……。押してごらんよメルメル」
「……これを?」
丸いしるしを指差すとトンフィーがこくりと頷くので、メルメルはそこに手を当てて強く押してみる事にした。
ゴゴゴゴゴ……
押した壁が引っ込んでいくのに合わせ、少し離れた壁の一部が動いて人が通れるくらいの隙間が生まれた。メルメルはあんぐり口を開け、トンフィーに視線を移した。
「……やっぱりトンフィーったら天才だわ」
そうして、照れて頭を掻いているトンフィーをほったらかしにして、メルメルはとっとと隙間に入っていってしまった。トンフィーは我に返ると慌てて後を追った。
「まったくもう。メルメルはいくら言っても僕の言うことを――!」
「………………」
「こ、これは一体……!」
そこは、先程までいた部屋よりもずっと広々とした空間になっていた。だが部屋の広さの割には明かりが少なく、薄暗く妙に不気味な雰囲気が漂っていた。心配していた敵の待ち伏せはなかったが、意外な物が二人を待ち受けていた。それは、
上へと向かう『階段』だった。
「どうして……。なぜ、階段が……」
トンフィーは呆然と呟き、薄暗い部屋に白く浮かび上がって見える大きな階段を見上げた。階段は天井にぽっかり四角く開いた穴に向かって長く伸びている。余りに部屋が暗すぎて穴の奥がどうなっているのかは見えない。メルメルは無言で階段の下へと足を進めた。
(確かに、ここより上の階はなかったはずなのに)
――その時、階段の上を見上げていたメルメルの頬を、フワリと冷たい風が撫でていった。不思議に思って首を傾げていると、今度は別の風がいやに生臭いような香りを運んできて、メルメルは思い切り顔をしかめた。
「――そうか。そういう事か……」
いつの間にか隣に並んで、同じように階段を見上げていたトンフィーが呟いた。メルメルはその横顔を見つめた。薄茶色の髪が風に揺れている。
「あのドアと同じだ。この階段は外へと続いてるんだ」トンフィーはメルメルへと視線を移す。「――つまり、屋上だ」
「屋上……」メルメルはもう一度大きな階段を見上げた。「……おじいちゃん」
――この先におじいちゃんがいる。絶対に、いる。
階段の上を睨み付けるようにしているメルメルの横顔を見て、トンフィーはつい口に出しそうになっていた言葉を飲み込んだ。
――ラインさんや、ペッコリーナ先生達を待った方が良いんじゃないだろうか?
吹き付ける風が、待ち受ける敵の存在を予感させている。ミミとシバがいるとはいえ子供二人で乗り込むのはいかにも不安だ。トンフィーの中に、今更ながらの迷いが生じても仕方のない事と言えるかも知れない。
「メルメル……」
いつもの情けない顔でトンフィーが呟いた。すると、メルメルはラインに貰った剣を両手にしっかりと構えて上を見据えた。
「行きましょう――トンフィー」
その、固い決意を感じさせる横顔。
「…………」
トンフィーは体に引っかけてある弓を外し、その手にしっかり握った。
「うん…………行こう!」




