延長線上に、熱
「柊は、絶対に一回は好きになる」
「でも叶うわけないから、みんなすぐに諦めるんだって」
そんな会話を、何度も耳にした。
サークルの打ち上げ、飲み会、ゼミの女子会――
どの場でも、柊聖夜の名前が出ないことのほうが珍しかった。
私は、そういう恋はしないって決めていた。
一瞬だけ気持ちが浮かび上がって、すぐに諦めるような、
そんな非効率な恋。
だから私は、柊くんを好きにならない。
それが、私なりのルールだった。
⸻
「桜庭さん、今日の夜って空いてる?」
キャンパスの廊下で不意に呼ばれて、思わず立ち止まる。
「え、うん……」
「みんなで飲みあるんだけどさ、よかったら来ない?」
その場にたまたま私がいたから。
人数合わせ。それくらいの理由だと思った。
行かなきゃ行かなかったで、また何か言われる。
行けば行ったで、空気に溶け込めず、居場所がない。
人付き合いなんて、いつだって難しい。
⸻
夜。居酒屋。
ガヤガヤとした声と、グラスがぶつかる音が混ざる空間。
カウンターの隅にひとり。
同じグループなのに、まるで透明人間になったみたいだった。
みんなの中心には、やっぱり柊くんがいる。
楽しそうに、自然体で、誰の話にも笑って応じて。
誰にでも優しくて、でも決して誰のものにもならない。
――柊は一回は好きになる。けど、叶わない。
その言葉が、また頭の隅でリフレインする。
「すみません、ハイボールください」
この一杯を飲み終えたら、帰ろう。
そう決めた時だった。
⸻
「なんでひとりで飲んでんの?」
不意に隣に現れた声に、肩が跳ねた。
まるで瞬間移動でもしたかのような唐突さだった。
「……ひとりで、来たから」
「わざわざ大学の飲み会があるところに、ひとりで?」
柊くんの視線が、まっすぐ私を捉える。
まともに会話をしたことなんて、ほとんどないのに。
こんなふうに向き合われると、息が詰まる。
「二次会あるっぽいよ」
私がつまんでいたフライドポテトを、ひょいと取って口に入れる。
その仕草さえ、なんでこんなにサマになるんだろう。
「そっか。頑張って」
「頑張るって、何を」
「“頑張る”を、頑張るの」
――意味わかんない、と笑う声が胸に響く。
そんなことで好きになるわけない。そう、思っていたのに。
⸻
「お会計、お願いします」
その場から逃げ出すように、私は居酒屋を出た。
――誰のことも好きにならない。
そうやって、自分を守ってきたのに。
⸻
夜の風がひんやりと頬を撫でる。
コンビニの冷えた照明が、やけに眩しかった。
缶チューハイをカゴに詰め込む。どれだけ飲んだらこのモヤモヤは消えるんだろう。
カゴが重くなってきて、もう片手じゃ持ちきれない。
「……買いすぎじゃね?」
「……ひっ!」
まただ。また現れた。今度はホラーのようなタイミングで。
「そんな反応しなくてもいいでしょ」
何気ないように、私のカゴを奪うように持って、肩をすくめる。
なぜ、なぜここまでついてくるの?
「家飲み?俺んち近いけど、一緒に飲む?」
「い、いいいいいい無理無理!」
「この量ひとりで飲むの?彼氏でもいるの?」
「いる。すごくいる」
「いたらあの居酒屋でひとりで飲まないでしょ」
「……飲むでしょ」
無理がある言い訳。柊くんは容赦なく突っ込んでくる。
そしておつまみを選びながら、当然のようにレジへと向かう盗人。
盗人じゃないか。ちゃんと会計してる。
「重っ。ほら、これ持って。」
「これで足りる?お釣り要らないから」
「え、なに帰ろうとしてんの」
「帰るよ!彼氏いるし!」
「いないでしょ」
「……無理。ほんとに行かない。やめて!」
「うるさい女はモテないよ?」
そのまま腕を掴まれて、引きずられるようにして歩き出す。
私はモテなくてもいい。彼氏ができなくてもいい。
でも、柊くんと二人でいたなんてバレたら……
きっと、居場所なんてなくなる。
⸻
「……来ちゃったね」
「強制連行です。完全に拉致です」
柊くんの部屋は、予想以上にお洒落だった。
落ち着いたトーンの家具、やわらかい照明、
この部屋に呼ばれた女の子は、私で何人目だろう。
「俺ビール飲も。桜庭さんは?」
「……帰る」
「まだ言ってんの?もう諦めなよ」
無理やり押し付けられたハイボール。
そのまま、彼の手に誘導されるようにソファに座らされた。
「二次会、行かなくてよかったの?」
「別に。またあるでしょ」
「……確かに。でも私とはこれが最初で最後だもんね」
ちょっと変わったおつまみ食べたくなる時と同じ理論だ。
⸻
プシュッ、と缶を開けた音が部屋に響いた、その時。
柊くんが、立ち上がって目の前に現れた。
唇に缶を近づける私の手首を掴む。
そして――次の瞬間、ソファに押し倒された。
ハイボールがこぼれて床を濡らす。
「……な、何……零れちゃったじゃん」
「別にどうでもいい」
視界には、見たことのない不機嫌な柊くん。
展開が早すぎる。私は酔ってない。なのに、頭がついていかない。
「……慣れてるの?」
「なにが」
「押し倒されるの」
「……まあ」
嘘だ。ありったけの嘘。
「そっちも、慣れてるでしょ」
「は?」
「連れ込んで、押し倒すの」
「女でこの家入ったの、桜庭さんが初めてだよ」
「……それは嘘」
「マジで」
その目が、真っ直ぐで、嘘をついてるようには見えなかった。
次の瞬間、
柊くんの前髪が私の額に触れる距離まで近づいて――
「酔ってる?」
「酔ってない」
「ならどいて」
「無理」
「柊くんのこと、好きな子いっぱいいるんだから」
「だから、なに?」
「その子に手を出しなよ」
「俺は桜庭さんに、手を出す予定だし」
「私は柊くんのこと、好きにならない。なる予定もない」
「だから、手を出すんじゃん」
キス――じゃない。
額、瞼、頬に、唇が触れて。
でも、唇だけは避けられている。
まるで、
「まだキスはしないよ。好きになるまで、お預けだよ」
そう言われているみたいだった。
そして、唇は少しずつ下へ。
首筋、鎖骨へと降りていく。
裾から、そっと忍び込んできた指先が、お腹に触れた時――
「……んっ……」
擽ったい。息が詰まる。
好きにならないって決めたのに。
どんどん、心が揺れていく。
「やばいね。キスしたくなるね」
少し掠れた、いたずらな声。
でも、その唇は触れてこない。
「まだしないけど」
柊くんは、まだ私に“落ちるのを待ってる”。
本気で、好きになるその日まで。
私が、「叶わない」なんて言葉を自分から壊す日まで。