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番なんて考えられない

 タオの去っていった方向を見つめていると、突如獣の咆哮が静寂に満ちた森の空気を切り裂く。

 びくりと身体が跳ね、後ずさった拍子に背中を木につけた。


 しばらくの間吠えあう声が聞こえていたが、やがて声が止むと白く大柄な虎のシルエットが森の中から戻ってくる。


 身動きがとれないまま、全速力で走った時のような心臓の鼓動を感じていると、彼は厳しく引き締めていた顔をにへらと緩めた。


「お待たせ。もう大丈夫だよ、ここは俺の縄張りだって主張しておいたから」

「な、な……なに、に」

「奇怪獣がいたんだ。この時期はやつらも冬に備えて獲物を求めているからね、人里の近くまで降りてくることが多いんだ。だから絶対に一人では外に出ないでよ、わかった?」


 静樹は何度も首を縦に振った。頼まれてもそんな危ないことはしない。


 タオはゆるりと尻尾を振りながら、また歩きだす。その背中は先程よりも頼もしく見えた。


 家に帰ると早速料理をしようとかまどに火を起こしている虎獣人に、手伝いを申し出る。


「あの……て、手伝います」

「え? ああ、いいよいいよー、皮膚が薄そうだし、火傷したら大変だから座ってて」


 毛皮の方が燃えそうで見ていてハラハラしたけれど、タオは手慣れた様子で次々に薪をかまどに放り込み、あっという間に火を起こしてしまった。


「魚とか捌くの久しぶりだなー」

「あ、よかったら、僕が……」


 魚料理なんてしたことないが、教えてくれればできるかもしれないと小声で声をかけてみたが、既にタオは鱗を剥ぎとり処理を始めていた。


「え、何か言った?」

「……いえ、なんでもないです」


 魚の血が流れている様子を見て、青ざめながら首を横に振る。


(情けない……せめて、手順を見ながら覚えておこう……)


 そう決意したものの、ビチビチ跳ねる様子とスプラッタな光景に、どんどん気分が悪くなってきた。

 気づいたタオに椅子に座って休むように指示される。


「どうしたの? 顔色がすごく青い! とにかく座ってよ、寝台で休んだ方がいいんじゃない?」

「い、いえ……そこまでは……」

「本当に?」


 彼は調理の手を止めて身綺麗にした手で、静樹の頬に触れてくる。

 身を竦めたものの、なんとかその場で逃げずに座っていられた。


「うわ、すべすべだ」

「……っ」


 肉球のついた柔らかい手で、ふにふにと遠慮なく頬を触られる。

 彼は夢中になって静樹の鼻や額、頬の輪郭にも指先を滑らせた。


「すごいねえ、人間はすごく触り心地がいいって聞いてたけど、想像していた以上だ」


 指先からいつ爪が出てくるかと気が気ではない静樹は、身を固くして解放されるのを待った。


 気が遠くなるほどの時間をかけて顔中を撫でられ、興味深そうに耳を触られる。


 折れそうに細い首だねと感想を言われたのを最後に、彼は調理へ戻っていった。


 彼の手にかかれば首なんて簡単に折られてしまうだろう。

 静樹はもう何もする気力が湧かなくて、彼が料理をする様子を見守った。


「できたよシズキ! どうぞ召し上がれ」


 皿の上に置かれた料理は、白身魚のムニエルのように見えた。バターの匂いが香ばしい。


 まだあまり食欲は湧かないものの、これなら食べられそうだ。

 端っこを箸で解して口に運ぶと、ふわりとした食感と共にあっさりとした魚の旨味が口中に広がる。


「……美味しい」

「よかったー! たくさん食べてね」


 満面の笑みでピンと外側に虎耳を立てるタオは、とても機嫌がよさそうだ。

 彼の前には何も食事が置かれていないことに気づき、意を決して尋ねた。


「あの……タオは、お腹……空かないんですか」

「シズキ!」

「え、えっ?」


 タオが思いきり顔を寄せてくるので、同じ距離だけ静樹は仰け反った。青い瞳が陽を浴びて輝く海のように、煌めいている。


「俺の名前を呼んでくれた!」

「……え、ええ、はい。呼びました」

「うわあ、もう一回呼んで!」

「……タオ?」

「うひゃあぁ……っ! いいっ!」


 タオは喉を鳴らしながら身悶えている。名前を呼ばれるのがそんなに嬉しいのだろうか。


 くすぐったい気持ちになりながら、白身魚を口に運ぶ。

 タオは自分が食べることなく、飽きもせずに静樹の食事風景を見つめ続けた。


(タオ、食べないつもりなのかな。本当に僕のためだけに、魚を獲ってくれたんだ)


 家で用意される食事はいつも冷えていたし、出来合いのお惣菜だったり、お金だけ置かれていることも多かった。


 おばあちゃんのご飯は美味しかったけれど、何かをリクエストして作ってもらったことはない。

 なんでも好き嫌いなく食べるいい子として振る舞っていたから、もしかしたら静樹の食の好みすら知らない可能性だってある。


 好きな食べ物を聞いてくれて、自分が食べないのにわざわざ川に出かけて獲ってくれるなんて。


 今までの人生で、誰にもここまで大切に扱われたことがない。


 薄味の魚がやたらと美味しく感じて、食べる度に胸の中がじわじわと温かくなってくる。


 静樹は半分食べ終えたところで、タオにお皿を差し出した。

 彼は鼻をピクリと動かして、まじまじと静樹を見つめる。


「どうしたの?」

「あ、その……一緒に、食べませんか」

「え?」

「……僕だけ食べて、悪いなって思ってて、ですね。一緒に食べた方が、美味しいから」

「悪いだなんて、そんなことないよ! つい見惚れちゃってただけなんだ、静樹が一緒に食べてほしいなら俺も食べようかなー」


 朝の残りをいそいそと持ってきて、向かいに座ったタオは食事をしはじめる。


(見惚れちゃったってなんだろう、からかわれてる?)


 小ぶりな唇に小さな鼻、目も小さく全体的にパーツが目立たない上に、長い前髪のせいでろくに目もあわないだろうに……


(それとも人間全体が、タオにとって綺麗に見えるのかもしれない)


 静樹の頼りない風体より、彼の毛皮の方がよっぽど立派で見応えがあるのになあと思う。

 まだ正面から目を合わすのは怖いので、時々彼の様子をチラリとうかがいながら魚を完食した。


 食事を終えると、タオは洗い替え用にもう一着裾を詰めると言いだしたので、静樹は今度こそ手を挙げた。


「あのっ! 僕が、やります」

「そう? 針危ないよ?」

「大丈夫、です……!」


 何もかもしてもらってばかりで申し訳ないからと、重ねて意思を伝えると、タオは心配そうにしながらも裁縫箱を貸してくれた。


 木箱の中には針と糸と、ピンクッションがきっちりと納められている。

 針を一本手にとってみると、人差し指くらいの長さがあった。


(大きいし、長くて使いにくそう)


 刺したら痛そうだと用心しながら糸を通す。

 裁縫なんて家庭科の授業でやったことがある程度だけれど、できるだろうか。


 緊張で震える指先を、タオがハラハラしながら見つめているのが気配でわかる。


 試しに折った袖に針を刺してみると、突っかかることなく糸を通すことができた。


(よかった、意外とできそうだ)


 チクチクと袖口を縫い止めていく。だんだん上手くできるようになってきて安心した矢先、指先に鋭い痛みが走った。


「あいたっ!」

「シズキ! 大丈夫? ああ、血が出てる」


 じわりと滲む血を目撃したタオは、ためらいもなくシズキの手をとり口に含んだ。


「……っ⁉︎」

 ざらりとした舌の感触に指先をピクリと動かすと、固い牙に触れた。

 もはや声もなく固まることしかできない。


 タオは繊細な舌遣いで静樹の血を舐めとった。

 それ以上尖った歯に触れることなく、静樹の指は解放される。


 ドッドっと心臓の音がうるさい。

 タオは自分を食べる気なんてない、命の危険がないとわかっていても、突然指先を口に含まれて気が気ではなかった。


 味わうようにペロリと口元を舐めたタオは、静樹の顔を真っ直ぐに見つめる。

 青く澄んだ瞳が目の前に飛び込んできて、息を止めて見つめ返した。


「シズキの黒い目ってとても神秘的だね、吸い込まれそうだ……綺麗で可愛くって、食べちゃいたくなる」

「たっ、食べ……⁉︎」


 やはり食べる気なのだろうかと掴まれた手首を取り返そうとするが、びくともしない。

 それどころか引き寄せられて、腕の中に閉じ込められてしまった。


(た、助けて……!)


 力強く痛いほどに抱き込まれて、半泣きで身を縮こませていると、上擦った声で囁かれる。


「すごくいい匂いがする……」

「い、いや……」


 どうか食べないでほしい、痛いのは嫌だと顔を引きつらせていると、傷ついたような声が頭上から振ってきた。


「嫌なの? 俺はシズキを番にしたい」

「……つが、い?」


 なんの話だろう、食べるんじゃなかったのだろうか。ちゃんと考えたいのに痛いくらいに抱きしめられているせいで、息が苦しくなってきた。


「お、お願い……いったん離して……くださ……」

「あっ、ごめんね! 痛かった?」


 やっと解放されて肩で息をつく。タオは狼狽しながら手をわたわたさせた。


「痛いというか、息ができないです」

「うわあ、大変! そうか、人間さんって見た目通り弱いんだね。気をつけるよ」


 タオにとっては普通の力具合で抱きしめていたつもりらしい。

 うっかりで死にかけてはたまらないと距離をとった。


 虎獣人はそんなシズキの態度を気にすることなく距離を詰めてくる。


「ねえ、シズキには恋人がいないんだよね? だったら俺と番になることを考えてみてくれない?」

「番って……なんですか、それ」

「えっ、知らないの? ずっと一緒に暮らす、恋人同士より仲良しな間柄のことだよ! 伴侶とも言うね」

「伴侶……⁉︎」


 男同士で、そもそも種族も違うのに伴侶になるだなんて、静樹の常識ではあり得ないことだった。

 勢いよく首を横に振って拒否を示す。


「えー、どうしても駄目?」

「駄目です、無理です……っ」

「そっかー……まあ、知り合ってすぐだもんね。そんなにすぐには決められないか」


 すぐだろうが後だろうが無理なものは無理だと青くなる静樹の前で、彼はやる気をアピールするように拳を握りしめた。


「シズキに伴侶になってもいいって思ってもらえるように、頑張るね!」

「えっと、その……はい」


 そんな日は永遠に来ないと思ったけれど、あまり拒否しすぎて暴走されても嫌なので、一応返事をしておいた。


「後は俺が服を縫っておくから、シズキは休んでていいよ」

「……はい」


 やっとタオから解放されて、静樹は部屋へと逃げ込んだ。

 身体を投げ出すようにして寝台にダイブする。


(伴侶だなんて……本気なんだろうか)


 いったい静樹のどこをそんなにも気に入ったのだろう。

 それとも、誰にでも告白してまわる軽いタイプの人なのか。


(この世界の常識もタオのことも、全然わからない)


 はあと大きなため息をついて、頭からシーツを被った。初めてのことばかりで緊張しすぎて、頭が痛い。

 もう何も考えたくなくて、ギュッと目を瞑った。

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