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間一髪

 もうダメかと思ったその時、待ち望んでいた彼の声が聞こえた。


「シズキ! このおおぉ!」


 思わずしゃがみ込んで目を閉じた静樹の前で、肉を裂く音と共に異様な悲鳴が上がった。

 それから、何かが飛び散るような気配も。


 恐ろしくてとても目を開けることはできなかった。

 遠くの方からユウロンがタオを呼ぶ声がする。


「おいタオ、やりすぎだ! それ以上は……」

「だけど、シズキが!」

「シズキなら無事だ、目を覚ませ!」


 ガツンと痛そうな音がして、辺りは無音になった。

 恐る恐る目を開くと、背の高い虎獣人のシルエットがぼんやりと見える。


「シズキ! 大丈夫?」


 差し出された手も爪も、血で濡れそぼっていた。

 ハッと顔を上げると、心配そうに顔を歪めるタオの姿が目に入る。


 むせ返るほどの血の匂いが、静樹の脳髄までを恐怖一色に染めた。

 赤く染まった牙を凝視したまま、動けなくなってしまう。


 血塗れ、牙、爪、悲鳴、獣……もう忘れられたと思っていた幼い頃のトラウマが息を吹き返し、猛烈な勢いで静樹の全身に襲いかかってくる。


 タオは自分を守ってくれたと、頭ではわかっているのに。

 戦闘の余韻が色濃く残る、血に塗れた彼が恐ろしくてたまらない。


「シズキ……? どうしたの、どこか怪我でもした?」


 タオは爪を引っ込めて、静樹の頬に触れようとした。引きつったような悲鳴が喉からほとばしる。


「ひっ……」


 反射的に叩き落としてしまった手を、タオは呆然と見つめていた。


 静樹は我に返ったけれど、震える身体は強張ったままでろくに言うことをきかない。

 なんとかしたくて、喉の奥から声を絞り出した。


「ご、ごめ、なさ」

「ほらな、シズキも汚ねえテメェには触られたくねえってよ。自警団の井戸を特別に貸してやるから、とっとと汚れを落としてこい。後は俺が処理しておく」


 ユウロンが執りなしてくれて、タオは汚れを落としにいくことになった。

 静樹も狐獣人に案内されて、自警団の詰め所へと向かう。


「怖かったですよね、守ることができずすみませんでした……」

「いえ……」


 あんなに恐ろしい奇怪獣に、立ち向かえという方が酷だ。

 静樹だって何もできなかった。タオがいなければ今頃命はなかっただろう。


 それなのに、彼に対して怯えてしまい申し訳ないことをした。

 タオは優しい獣人だとわかっているはずなのに。


 今度こそちゃんと謝ろうと、決意も新たにしたところで詰め所に辿りついた。


「タオは、どこに……」


 キョロキョロと辺りを見回していると、自警団の制服を借りた白い虎の獣人が、静樹の方へと歩み寄ってきた。


「……帰ろうか」


 彼は気まずそうに視線を逸らしたまま、独り言のように呟いた。先程拒否したことが尾を引いているらしい。


 静樹の方も萎れた様子のタオを目の前にすると、今までどうやって彼と接していたのかがわからなくなってしまった。


 前を行く虎頭を後ろから眺める。

 やはりどう見ても二足歩行の虎にしか見えない。


 獰猛どうもうな牙と鋭い爪を持ち、静樹の命なんて簡単に奪ってしまえる虎だ。


(さっきの血塗れのタオは、とても恐ろしかった……けれどあの爪は、僕に向けられることはない。牙だって)


 右腕を猫に噛まれた時の痛みと恐怖が蘇り、一瞬パニックになってしまっただけだ。


 大丈夫、タオは自分を襲うことはないと、何度も胸中で呟いているうちに、幾分気分が落ち着いてきた。


 戻ってきた家の中の空気は冷え切っている。

 静樹は指先を擦りあわせながらかまどに火をつけ、お湯を沸かした。


 もう昼をとっくに過ぎているし、激しい戦闘の後だからお腹が空いているだろうと料理の準備をはじめるが、いつもなら自然と隣に立ち手伝ってくれるタオは自室にこもってしまった。


「……タオ?」


 静樹の小さな呼びかけが、虚しく居間に響く。

 常ならぬ状況に心臓は早鐘を打ち始めたが、疲れただろうし休みたいだけだろうと自分に言い聞かせ、黙々と料理に打ち込んだ。


 根菜をじっくり煮込んだスープを作り終えた静樹は、火の始末をしてからタオに声をかけにいくことにした。

 控えめなノックの音を彼の自室に響かせる。


「タオ、入ってもいい?」


 返事はない。寝ているのだろうか……静樹は扉の前で右往左往してから、何度もためらった後に扉に手をかけた。


 ギィ、と蝶番が軋む音がして、抵抗なく扉が開く。

 そっと中を覗きこむと、大きな寝台の上で膝を抱えたタオが、座り込んでいるのがわかった。


「……タオ?」


 部屋に入って、顔を伏せたまま動かない彼に近づく。

 尻尾の先がぴょこんと、彼の膝の間から見え隠れしていた。


「シズキ……」


 寝台の前まで歩み寄ると、ようやく彼は声を発した。情けなくて、頼りない響きの声だった。


「シズキは牙や爪が怖いって聞いてたのに、目の前で暴れてごめんね。もう俺のことなんて嫌いになっちゃった?」

「そ、そんなことはないよ! 僕こそごめんなさい、隠れてろって言われたのに勝手な真似をしてしまって」

「ううん、奇怪獣がいるってわかった時点でもっと強く止めていれば、シズキを危ない目にあわせることはなかった」

「僕がどうしてもハオエンと話しあいたいって言ったせいだから、どうか気に病まないで」

「……」


 タオはそれきり黙り込んでしまった。

 静樹に拒否されたことがよほど堪えているらしい。


 なんとか元気づけたくて、寝台の上に膝立ちで乗り上がった。


「本当に違うんだ、反射的に怯えてしまっただけで、タオのことが嫌いになったりしていないよ」

「……本当に?」


 拗ねたような声が、俯いたまま視線があわない彼から発せられる。


 どうしようもなく気持ちが揺さぶられて、彼を抱きしめてあげたくなった。


 ためらう指先と反射的に震える身体を、両手を握りしめて宥める。

 静樹は思いきってタオの背中を抱きしめた。彼が驚いてヒュッと喉を鳴らす音が聞こえる。


「……っ」

「タオ……」


 震えを誤魔化すようにして、更に強く抱きしめる。

 温かで柔らかな毛皮の感触と、その下にある逞しい筋肉を感じた。


(大丈夫だ、大丈夫……彼は恐ろしい獣じゃなくて、僕が心から信頼している獣人のタオだ。痛いことなんてなにもない、僕を守ってくれる人だ)


 タオの温かさが静樹の腕を通して、全身に広がっていく。いつしか震えはおさまっていた。


 彼を抱きしめてこれ以上ないほど密着していると、伝わる温かさがとても心地よいことに気づく。

 もっと触れ合いたくなって、ペタリと寝たままの耳の先を撫でてみた。


「……っ、シズキ?」

「ねえ、タオ……僕のことを抱きしめてみて」

「……いいの?」

「うん。そうしてほしいんだ」


 タオの大きくて、毛皮と肉球で構成された手が控えめに静樹の肩に触れる。

 膝を広げて胡座をかいた彼の膝に乗り上がると、真綿で包むように抱きしめられて、ホッと息を吐いた。


「温かい……」


 首筋に顔を寄せると、彼の体臭が仄かに香る。

 獣くさいのにいつまでも嗅いでいたくなるような、中毒になりそうな匂いだ。


 すんすんと鼻先を擦りつける。

 もうちっとも怖くなかった。


 タオはくすぐったそうに身じろぐ。


「あの、シズキ」

「なに?」

「そんな風にされると、元気になっちゃうから控えてもらえると嬉しいんだけどな、なんて……」


 目を逸らしながら告げられて、視線を股の間に向けた。こんもりと持ち上がっているのがわかる。


「友達でいてあげたいのに、そんな風に可愛く懐かれるとできなくなっちゃうから、そろそろ離れてほしいというか……いや、離れたくはないんだけれど!」


 静樹だってまだ彼とくっついていたかった。それどころか、もっと近づきたいと思っている自分に気づく。


「……友達じゃなくても、いいかもしれない」

「え?」

「タオ……」


 静樹は自分が彼にしたいことを脳内で思い浮かべて、思わず頬を染めた。


(恥ずかしい、けど、でも……)


 このまま離れて友達の距離感でいるよりも、一歩先に進みたい。

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