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換毛期のブラッシング

 秋も深まり、森の木々が色づいてきたある日のことだ。


 朝から浮かない顔をしたタオは、尻尾を苛立ち混じりに振りながら、木こりの仕事から帰ってくるなり食事机に顔を突っ伏した。


「あああ辛いよー」


 台所でかまどの火の後処理をしていた静樹は、タオの元に歩み寄る。


「どうしたの?」

「身体が痒くてさ、換毛期だからしょうがないんだけど」

「換毛期?」

「人間にはないんだっけ。ないよねえ、毛が頭にしかないんだから」


 タオは羨ましそうに静樹の頭髪を見つめた後、自身の手の甲の毛を引っ張った。


「季節の変わり目にたくさん毛が抜ける現象のことだよ。あああ痒いっ」


 タオが頭の毛を掻きむしると、ふわふわの綿毛のような毛が空気中に舞い散った。

 床に落ちた抜け毛の塊を見て、静樹は遠慮がちに提案する。


「……よかったらブラッシングしようか? 櫛をかけたら、痒さもマシになるかもしれない」

「ぜひ! お願いします!」


 タオは言うや否や、早速褶を破り捨てる勢いで脱いだ。

 服の内側にもふわふわの毛がたくさんついている。


 後で洗濯しようと頭の隅に留めながら、櫛を持ってきて彼の背中に当てた。


 黒い縞模様に沿うようにして櫛をかけると、ゴッソリ毛が抜けた。

 大きな塊が取れるのが楽しくて、何度も櫛を通す。タオは机に体を預けながら、ゴロゴロと喉を鳴らした。


「ああー、気持ちいい……もうちょっと上、掻いてもらえる?」

「ここ?」

「そう、できれば櫛じゃなくって指で掻いてもらえたら嬉しいんだけど……できる?」


 こくりと頷き、強めに掻いてあげるとタオは恍惚とした声を出した。


「はあーそこそこぉ、痒みが和らぐー」


 低いゴロゴロ音も以前は恐ろしかったが、彼が静樹の行いで心地よさを感じて出している音だと思うと、むしろ愉快な気持ちになった。

 たくさん気持ちよくしてあげたいと、熱心に櫛をかけて背中を手櫛で掻いてやる。


 楽しくなってきた静樹は、タオの尻尾にも手を伸ばした。


「ここも綺麗にしてあげる」

「あ、尻尾はいいよ」

「触ったら駄目?」

「駄目ってことはないけど……」


 言い辛そうにもじもじしているタオに首を傾げつつ、駄目じゃないならいいのかなと長い尾の中央を手で掴む。

 毛の流れに沿って櫛をかけると、タオは身慄いした。


「はあ……っ」


 漏れた吐息が色っぽいものに感じて、静樹は手を止める。

 彼は静樹の手をじっと見つめていた。期待するような目つきに誘われて、また櫛を入れる。

 タオは静樹を止めなかった。


(このまま続けていいのかな……でも、やめたくない)


 タオの尻尾は肌触りが他の部位より特別によくて、いつまでも触っていたくなる。

 気持ちよさそうにしているしいいじゃないかと、内なる自分が背中を押した。


 根本の方を持ってみる。タオはピクリと虎耳の先を尖らせたけれど、やはり何も言わない。


(もう少しだけ……抜け毛が全部とれるまで)


 丁寧に櫛を入れて、浮いてきた毛を指先で掬い取る。毛が出てこなくなるまで何度も繰り返した。


 出てきた毛の塊を持ったまま、静樹はタオの下半身に視線を移す。

 見たことはないけれど、きっと布の下も毛で覆われていることだろう。


(流石にそこは駄目だ)


 どんな風なのか確かめてみたいと思った自分の思考にドキリとしながら、テーブルの上に櫛を置いた。


「あの、僕……ごめん、部屋に戻るね」

「あ、待ってシズキ!」


 タオが引き止めるのにも構わず、静樹は彼の毛玉を抱えたまま与えられた自室にこもった。

 ドッドっとうるさくなる心臓を宥められないまま、靴を脱いで寝台の中に飛び込んだ。


(どうしよう、僕……)


 なんで触ってみたいと思っちゃったんだろう。

 今では彼の全身どこに触れても不快に思わないどころか、積極的に触ってみたいと感じている自分に困惑した。


(人間と同じ形なのかな……って、何を想像しているんだ僕は)


 持ってきてしまった毛玉に顔を埋めてみる。

 ふんわりと心地よい感触と共に、タオのちょっと獣くさい匂いが鼻腔の奥に広がった。


 それすら不快どころかもっと嗅いでいたくなるような、癖になる匂いだと思ってしまう。


 この気持ちは一体なんだろうと胸の奥を探ろうとした時、ドンドンと表戸を叩く音が耳に飛び込んできた。


「おーいタオ、いるか?」

「ユウロン! ちょっと待って、いやだいぶ待って」

「なんだ、いるなら中に入れろよ」

「取り込み中! かわやに行ってくるから。先入っててもいいけど、とにかく待ってて」


 タオが足音を荒くして、居間を出ていく気配がする。


「んだよ、鍵くらい開けてけっての。気が効かねえな……腹でも壊してんのか?」


 悪態をつく声が扉越しに聞こえる。静樹は寝台から降りて表扉の鍵を開けた。


「あの、こんにちは」

「おお、あの時の坊主。誰だっけ、シズキだったか? ありがとうよ開けてくれて」


 黒狼の獣人ユウロンは、ズカズカと家に上がり込んで勝手にお茶を沸かしはじめた。


「あ、僕が淹れましょうか」

「いいのか? じゃあ任せるぜ。ったくあの野郎、居候に任せてないで自分でもてなせよな」


 ユウロンはタオに文句を言いながら椅子に腰掛けた。

 腕組みをして、金色の瞳を光らせながら静樹を見上げる。


「で、アイツとは上手くやってんのか?」

「えっと……はい。まあ、それなりに」

「ふうん」


 駆け足の音が近づいてきて、トイレへと続く裏扉が勢いよく開かれた。


「シズキを虐めないでよね⁉︎」

「虐めてねえよ、話してただけだ」

「本当に? シズキ、何か酷いこと言われてない?」

「大丈夫だよ」

「信用ねえな、何もしねえっての」


 お茶を淹れて改めて席につくと、ユウロンは静樹とタオの顔を見回して唇の端を釣り上げる。


「仲良くやってるようだな、安心したぜ」

「当たり前でしょ。俺とシズキは友達、いやもう大親友並みに仲がいいんだから」

「へえ? てっきりお前のことだから、とっくに番になりたいとでも言い寄ったんじゃないかと思っていたが」

「ちょ、ちょっとやめてよ」


 図星を突かれたタオが狼狽えている。

 静樹もつられて赤くなっていると、ユウロンは意地悪く笑った。


「はは、やっぱりな。で、フラれたのか」

「フラれてない!」

「でも友達なんだろ? 前の彼女にも速攻でフラれて友達だって言い張ってたよな」


 タオに彼女がいたのかと、驚きに目を見張る。

 なんとなく面白くない気分になり、腕を摩って自身の気持ちを宥めた。


 ユウロンは静樹にも語りかけてくる。


「こいつ人間への憧れが強すぎて、彼女の前でもそればっかり話題にしてたんだよ。じいちゃんに聞いた昔話を頭から信じこんで、人間さんってか弱くて綺麗で助けてあげたくなる感じなんだってって、目をキラキラさせてさ」


「しょうがないじゃない、守ってあげたくなるような子が好きなんだ。俺は他の虎獣人と違って多情じゃないしさ、一途な人間さんに特別に想われたいんだよ。そういう子に頼ってもらえるのが理想の恋愛なの、悪い?」


「別に悪くねえと思うぜ? 上手くいくといいな。なあシズキ、夢見がちなタオに理想を押しつけられたら、バシッと言ってやっていいからな」

「ええっと……」


 自分はタオが思い描いていた理想の人間像そのものなのだろうかと、気になってしまう。

 同時に頼りにすることは彼にとって負担ではなく、むしろ喜んでくれているようだと安堵した。


(別にタオの好みに当てはまってなくたって、いいんだけれど……なんでこんなに心がそわそわするんだろう)


 もう少しで何かわかりそうな気がしたが、口ごもる静樹を庇うように、タオが話を逸らした。


「もう、俺たちのことはいいから本題に入りなよ」


 ニヤニヤしていたユウロンは、真面目な顔に戻って腕を組み直した。


「ちょいと厄介な噂を耳にしてな、お前にも伝えておこうと思ったんだ」

「なになに、どんな噂?」

「半月前あたりに、チェンシー町に雑技団がやってきただろう」

「ああ、マーロウ雑技団だっけ」


 雑技団の名前を聞いて、ユウロンは不快そうに狼耳を伏せた。


「奴らこんな辺境の町になんで一カ月も留まるんだと訝しがっていたんだが、なんと奇怪獣を見せ物にする予定なんだそうだ。それで特異な奇怪獣が多いこの地域に目をつけたんだと」

「え、なんて危険な真似を!」


 タオが勢い余って腰を浮かせると、ユウロンは真面目な顔で頷いた。


「俺達自警団も危ないからやめとけって忠告をしたんだが、奇怪獣を調教できるって信じ込んでるみたいで聞く耳を持たねえんだ。奴らは既に奇怪獣を捕えたようだぞ」

「奇怪獣を連れて旅をするつもり? ただでさえ旅は危険に満ちているのに、そんなのできっこないよ」

「だよなあ、でもそれがわかんねえ連中なんだ。今まで奇怪獣の被害に遭ったことがねえんだろ」


 二人は深刻そうな口ぶりだが、奇怪獣を見たことがない静樹にとってもピンとこない話だった。

 鳴き声が恐ろしいことしか知らないし、川に行った日以来一度も遭遇していなかった。


「そんなに恐ろしい生き物なんだ、奇怪獣って」

 静樹が尋ねると、タオは深刻そうな表情で何度も頷いた。

「虎とか狼みたいな戦える獣人にとっては、追い払える程度の強さなんだけど。奇怪獣は一度獣人の血の味を覚えると、しつこく追ってくるんだ。弱い獣人や子どもの獣人が襲われたらひとたまりもない」

「村の大人が狩りに出かけている間に、子どもと老人が全員食べられた村の話とかあったな」

「凶暴だし獣人に懐かないから、飼うなんてできないよ。もし逃げられたりしたら大変なことになる」


 静樹は話を聞いているうちに、ハオエンのことが心配になってきた。捕らえた奇怪獣が逃げ出したりしたら、弱そうな彼は食べられてしまうのではないか。


「僕……ハオエンに話をしにいきたい。彼に奇怪獣を見せ物にするのをやめてって、伝えるのはどうかな」

「シズキ⁉︎ 危ないよ、やめた方がいい」


 静樹の提案を聞いて、ユウロンは目を見張った。


「なんだ、雑技団に知り合いでもいるのか。だったら説得してやってくれ、俺達が忠告するよりもまだ話を聞いてもらえそうだ」

「嫌だね断る!」

「お前に話してねえよ、シズキに言ってんだ」

「だとしても駄目だ、危険すぎる」

「タオ……」


 虎獣人の服の袖を引っ張って顔をのぞきこむ。

 美しい海色の瞳が心配で揺れているのを、しっかりと見返した。


「話をするだけだし、危ないことなんて何もないよ。それに……いざとなったら、タオが守ってくれるでしょう?」


 タオは虚を突かれたように目を丸くした後、じわじわと唇の端を笑みの形に変えた。


「もちろん、俺がシズキに怪我をさせるわけないじゃないか! 任せて」

「わあ、ありがとう。やっぱりタオは頼りになるね」


 自分のお願いが聞き届けられて嬉しいと無邪気に喜ぶ静樹の視界の端で、ユウロンはタオを横目で見ながら単純なヤツだと呆れていた。


「それじゃ、雑技団の相手はお前らに任せた。俺はまだ仕事が残ってるし、そろそろ帰るぜ」

「うん、またね」


 ユウロンが帰った後、静樹とタオも町へ行くことになった。

 マーロウ雑技団はすでに奇怪獣を捕らえているらしいので、急がなければ被害が出てしまうかもしれない。

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