07‐2
カイが最後に目にしたのは、自分に駆け寄るクロウの姿―――
伸ばされた手を取ろうとして、手は虚しく空を切った。
それと共に背中に伝わったのは衝撃に、カイの意識は薄れていく。
そして。
目を覚ましたのは、
深い―――
深い―――
世界の深層。
自らの根源を知る場所。
そこは同時に、太陽と月、空と大地、過去と未来の交わるところ―――。
それは、過去―――。
人間を超越した力を持った人間のように感情豊かな神々が、亡きオシリスの跡継ぎの決定を喜ばんとしていた、まさにそのときのこと。
「私は認めない。この国を治めるのは私だ。お前ではない!」
欺かれ陥れられたと気づいた候補者・セトが、巨大な豚に姿を変え、彼の甥にも当たるもう一人の候補者・ホルスに襲い掛かった。
「ホルス!」
息子の危機にイシスは叫び、ラーを初めとするその他神々も息を飲んだ。
突然の襲撃に動作が遅れたホルスは、豚となったセトから逃げることが出来なかった。
「私が裂き殺してくれる!」
ホルスの両眼から、紅い紅い花が散った。
耳に痛いほどのセトの高笑い。イシスの悲鳴。神々の怒号。
そして、ホルスの絶叫が響き渡る――――――
「ふははははは!太陽と月は我が手に落ちたぞホルス!」
「くっ、セト、すぐに我が瞳、太陽と月を返すんだ!」
「馬鹿め!私がお前の言うことを聞くと思っているのか。お前は太陽と月を失い、地上を統べる者、神々の長、最高神としての権利を失うのだ」
セトが手にしたホルスの両眼をうっとりとした目で眺める。
「心配せずとも、この私が、おまえ以上にうまくこの地を治めてみせよう」
ツカツカと、ホルスの眼前まで進むセト。
先ほどホルスの目を抉るのに使った柄にルビーをあしらった短剣を手にしている。
「お前如きに勤まるかな?」
ホルスは痛みに耐えながら必死に言葉を紡ぐ。
「ふん、すぐにその減らず口をたたけなくしてやる」
セトは手にした短剣を振り上げた。
「死ね! ホルス!」
「ウィン!」
セトが短剣を振り下ろすのと、ホルスが叫んだのは同時だった。
ピィーキュゥルル
上空から急降下してきた隼が、セトの短剣を弾き飛ばす。その短剣を慌てて拾い上げようとするが、短剣を拾い上げたのはホルスだった。
「形勢逆転だな、セト」
「くっ」
今までホスルに向けていたはずの短剣を己に向けられ、セトは唇を噛み締めた。
「セト、もう一度だけ言う。大人しく、我が瞳、太陽と月を返せ」
「くくっ、嫌だといったらどうする?」
「お前は、嫌だと言えないさ。今の状況を分っているだろう?」
短剣の切っ先がセトの首筋に食い込み、一筋の血が流れた。そこまでの成り行きを、他の神々は押し黙って眺めている。それはセトの側についた神々も同じことだった。皆最高神であるホルスの迫力に口を開くこともその場を動くことも出来なかったのだ。
セトはホスルを睨み付けた後、力なく肩を落とした。
「観念したのか、セト」
ホルスが短剣に加えていた力を緩めた。そしてセトの手から己の瞳を取り、そのまま配下にセトを連行するよう指示を出す。
だが。
ホルスは自らで手を下さなかったその軽率さを次の瞬間―――悔いた。
「ぐはっ!」
配下の神々が一斉に血を流し倒れた。血溜まりの中に一匹の銀狼がいた。
銀狼はホルスの姿をその目に捉え、次の瞬間―――
ホルスに飛び掛った。
慌てて呪文を紡ぐホルス。
けれど。
銀狼の動きの方が一瞬、早かった。銀狼はホルスに飛び掛り手にしていた瞳のうちの一つ、月をくわえ、地上へ向けて走り去る。
その銀狼の正体はセトだったのである。
「セト……」
太陽の瞳を手に、空いたほうの手で出血の酷い目元を押さえながら、ホルスは力なく地に腰を下ろした。
「ホルス……」
母のイシスが、自らのショールを心配そうにホルスに差し出した。
「母上……」
ホルスはそのショールを受け取り、止血のために目の周りに目隠しをするように巻く。見る見るうちにショールは血に染まり、傷の深さを物語っているようで痛々しい。
「わたくしは、セトがあのように執念深いだなんて思ってもみませんでした」
血に染まったショールを見ていられなかったのか、イシスは目を伏せ呟いた。
「それは私も同じことです。でも、こうなった以上、セトを倒さない限りこの世界に平穏は訪れない」
「そうね。月の瞳を持ち去ったということは、セトは、夜の種族、闇の生き物達と手を組むつもりでしょう。月の瞳が地上で与える影響だけでも大きいというのに、このままでは、地上の―――世界の均衡が崩れ兼ねないわ」
「最高神になることを欲するあまり、自らで世界の均衡を崩そうとするとは―――」
「セトはもう世界すらどうなっても構わないのかもしれない」
「母上、それは―――」
「セトは孤独な人。そして、あなたの父オシリスを憎んでいた。これは、セトの復讐の始まりなのかもしれない。セトは、世界なんてどうでもよくて、あの人の―――オシリスの作り上げたものを全て壊してしまいたいだけかもしれない……」
悲痛なイシスの呟きに、ホルスは見えないながらも励ますようにその肩に手を置いた。
「母上、地上を―――世界を絶対私が守って見せますから。どうか、そのように悲しまないで……」
「でも、どうやって?月の瞳がセトの手にある以上、夜はセトに支配されたも同然」
イシスの言葉に、ホルスは決意する。
その決意を変えないためにホルスはそれを言の葉にした。
「太陽を、太陽の瞳を地上に降ろします」
「ホルス! まあ、なんてこと!あなたは太陽まで手放すというの!」
「母上、落ち着いてください。母上はご存知ないのですか?月は、太陽の光を受けて輝くもの。月が太陽の光を受けて輝くものである限り、セトは月の真の力までは支配出来ない」
「でも、それなら、太陽の瞳はあなたの手元に置いておいたほうが……」
「母上」
ホルスは首を横に振った。
「セトは月の瞳を地上に持ち去った。月が地上に与える影響を軽減し、世界の均衡を守るためには、太陽を月の近く―――地上に降ろすのが一番良いんですよ」
「…………」
「大丈夫、心配しないで、きっと時が来ます。世界が太陽と月の再会を望む時が。太陽と月は二つで一つ。世界にはなくてはならないものですから」
やんわりと微笑むホルス。
そして。
手にした太陽を掲げる。
「行っておいで、太陽―――」
世界が望むその時まで……。
「―――これは?」
「語られることのなかった真実。そして、君自身が見てきた記憶」
カイの呟きに答えたのはいつか聞いた優しい声。
「俺自身が? どうして……」
「まだ君は思い出し切れていないみたいだね、自分自身のことを」
「訳がわからないよ! 俺がなんだっていうの!」
「あの箱の中身は記憶だった。君を目指させるための鍵」
「全然わかんらない……そもそもあなたは誰なの?」
「私か?私は、そうだな……君の親であり、君自身であり、君の子である存在とでも言っておこうか」
「親? 子? 俺、自身?」
「―――おやおや、余計混乱させてしまったかな?まあ、いい」
声はそう自己完結する。
「よくないよ! 俺、親のことなんにも覚えてないんだ。だから、あなたが僕の親だというなら、教えて!」
自分はまだ何もわかっていないのに、勝手に話を終わらせる声の主に苛立ちを覚えて、カイは声を張り上げた。
「何をだい?」
やれやれ、とでも言いたげに答える声。
「どうして、あなたは俺を捨てたの? どうして、あなたは今頃俺の前に現れたの?」
「捨てた―――その表現は適切じゃない」
「でも、事実、俺は孤児としてファトに育てられた。それは、あなたが俺を捨てたからに他ならないでしょ?」
「…………ふう」
声の主は、カイの言い分に今度こそやれやれと息を吐いた。そして、
「確かに、君は孤児として育った。けれど、そのファトは君に何と言った?」
と、逆に問い掛ける。
答えに詰まったのはカイの方である。
「それは……」
「神の導き―――そうファトは言わなかったかい?」
「でも、例えそうなら、俺は……」
「カイ。先ほど見たヴィジョンは語られることのなかった真実だ。それを、なぜ君が知りえたのか。それは、君自身が見てきたからに他ならない。その真実が示すのは何なのか―――まだ、認めたくはないのか」
「でも、それじゃあ、俺は……」
「ホルスは地上に瞳をおろすとき、一つの封印を成した。セトに太陽の存在を感づかれない為に、瞳に刻まれてきた記憶とそれが宿す力とを別けた。記憶を取り戻してこそ太陽が完全な存在となるように。そしてその封印は十分に功を奏した」
「俺は……」
「記憶はあの箱に。そして、力は―――」
「ホルス! わかった。わかったから、それ以上は言わないで!」
声の主・ホルスは必死に訴えるカイの姿に言葉を飲み込んだ。そして、辺りを包んでいたあたたかな空気――彼の神気――がカイを抱き寄せるように収縮した。
「カイ、悲しまないで。君が君であることにかわりはないのだから……」
優しい声が耳元で響く。
「…………」
「君の思い出はすべて君のもの。カイがカイとして生きてきた証。そして、今こうして抱いている気持ちも君のものだ」
「…………」
「カイ―――君は今どうしたい? このまま世界の深層で眠りに就くのもいい。だけど、君の放つ光を待っている者達がいる」
「だけど、それは……」
「君の輝きがどれだけ人を勇気付けてきたことか。クロウという名のあの男は、君が太陽の瞳だから、君を助けた訳じゃないだろう? 君自身、カイが放つ輝きが彼を癒し、勇気付けた」
「俺が、クロウを?」
自覚などない。寧ろ、勇気付けられてきたのはカイ自身の方だ。そう思ったカイだったが、その考えは思わぬ形で否定された。
「そうだよ。だから、クロウ義兄さんをこれ以上悲しませないで」
割って入ってきたのはまだ幼い少女の声。高く澄んだその声をカイは知っていた。カイは、思わず声のした方へと目を向ける。
「君は! 君は夢で会った、あの―――」
腰まであろうかという長さのふんわりと柔らかそうな銀の髪。
白い肌に、朝焼けのように鮮やかな唇。
そこにいたのカイが焦がれて止まなかったあの少女だった。
「私は、セレ」
カイが夢で聞きそびれた名を、今度ははっきりと名乗る少女。
「セレ?」
「うん」
少女の存在を確かめるようにその名を口にすれば、少女はそれに答えてくれた。
「セレ、こんな所まで来て大丈夫なのかい?」
ホルスの声が少女に問いかける。
「この姿はホルス様のように意識だけを飛ばしている幻影。だから、長くは居られない。それでも、一言だけでいい。カイに伝えておきたかったから」
「俺に?」
「そう、カイに―――あのね、私は待っているからカイの訪れを。だから、あなたの輝きを私に届けに来て……」
「―――!」
少女はカイの手を取り微笑んだ。待っているから―――と。
そして。
ぱああああああん。
霧散。
弾け飛ぶ。
少女の姿が光となって。
あとに残されたカイは、その光を掻き集めるように手を動かしたが、少女の姿はもうどこにもない。カイは少女に握られた手を見詰め、ゆっくりと手を胸へとやった。
何だか、不思議と気持ちが軽くなった気がする。
「カイ、君は今どうしたい?」
ホスルが先ほどと変わらぬ声音で再度問い掛ける。
「俺は―――」
俺は―――
俺は―――
「最初から答えは出ていたんだよね」
俺は―――
守りたい。
助けたい。
大切な家族を。
大切な仲間を。
「願ってしまうんだ」
会いたい。
会いに行こう。
待っていると言ってくれたあの子に。
しっかりとした決意を胸に、カイは、ゆっくり、ゆっくりと瞼を開ける。
さあ、目覚め太陽よ―――
明けない夜などないのだから―――