04‐1 始まりの誓い
「『宵の誘い』ともあろう者が、随分な手傷を負ったようだな」
わらわらと群れを成し飛んできたコウモリに向けて、先客である男はくつくつと喉の奥で笑う。
それが気にくわなかったのか、群れから外れた一羽のコウモリが男に向かって牙を剥いた。
男は驚いた様子も見せず微動だにしないかのように見える。
けれど、コウモリの牙が男の首筋に食い込む寸前、忽然とコウモリの姿は消えた。
否。
消えたのではない。目にも留まらぬ速さで翻された男の手によって捕らえられたのだ。
「随分、戯れが過ぎるじゃないか『誘い』」
血の色にも似た真紅の眼に睨みつけられ底知れぬ恐怖を覚えたコウモリは、男の手から逃れようと懸命に羽ばたいた。しかし、男はそれを許さずコウモリを捕らえる手に力を込められる。
グッ、ギギギギギギ―――
室内に響く鈍い音。
男は唇に弧を描き、手から滴り落ちる血の温かさに目を細めた。
手の内には、あらぬ方向に翼が曲がったコウモリが一羽。
「あーあ、『暁』ったら、また『誘い』の隷属殺っちゃったの?」
「…………」
血の香りに酔い、手を滴る感触に上機嫌だった『まだ見ぬ暁』という異名を持つ男は、室内に降ってきた声に、興が削がれたとコウモリから手を離した。コウモリの体は床の達する前に砂と化し風に舞う。
「まったく、もう少し愛想良くしてくれたっていいじゃない」
そう言いつつ『暁』に向かい合うように腰掛けたのは、見たところ十四、五歳の少女。肩につくくらいのくせっ毛の強い銀色の髪を、顔の横の方で片方だけ三つ編みにしている。少女が動く度、その三つ編みが揺れ、まるでこの少女の活発さを表しているようだ。
「『湖面の月影』か。何しに来た」
『暁』は目の前で揺れる三つ編みをうっとおしそうに見詰め呟く。『月影』は三つ編みにしていない方の髪を指に絡めながら『暁』を見て意地悪く笑った。
「あんたの愛しい義妹のように優しく呼んでくれたっていいでしょ、お義兄ちゃん」
「冗談も大概にしておけ。いくら義妹と同じように振舞っても、お前は義妹とは似ても似つかない。そう―――魂の根源から言ってな」
静かな言葉だった。
だが、込められていた殺気に『月影』は浮かべていた笑みを消し、苦汁を舐めた表情を浮かべる。『月影』の首筋に嫌な汗が伝った。
「どうした。図星を指され言い返す言葉もないか?」
真正面から鋭い眼光を宿す眼で睨みつけられ、『月影』は先ほどのコウモリの気持ちがわかった気がした。
今すぐこの場から逃げ出したい。だが、『月影』にはそれが出来ない理由があった。
「随分、義妹君を可愛がっていらっしゃるようで……。まあ、あんたの義妹と私が似ても似つかないのは認めるよ。だから、その殺気どうにかしてくれない?これじゃおちおち話も出来ない」
ふんっ、と尊大に鼻を鳴らして『暁』は殺気を収めた。それで『月影』から興味が失せてしまったのか、『月影』を視界から外す。
だが、『月影』は『暁』の興味を繋ぎとめようと言葉を続けた。
「義妹の件は、まあ、置いとくとして、あんたがもう一つ気にしてることについて『誘い』が情報を持ち帰ってきたよ」
その言葉に、『月影』の予測通り、失せかけた『暁』の興味が僅かに戻ってくる。『暁』は気だるげに顔をあげ、再び『月影』を視界に納めた。
「『誘い』の持ち帰った情報をなぜお前が報告に来るんだ」
「帰ってきて早々の『誘い』を変に煽って怒らせたのは、どこのどいつだよ!」
「知らん、あいつが勝手に腹を立てただけだろう」
まるで子供の言い分だ。
『暁』の返答に、『月影』は溜め息を吐く。『暁』は冷酷な指揮官のような存在だが、時々、ごく稀に仲間内で一番年若い自分より幼く見えることがあるから不思議だ。
けれど、『暁』のこの性格は決して変わることはないだろう、とも思う。『誘い』もいい加減慣れれば良いのに。と、『月影』は自分に伝言を頼むとさっさと自室へ消えた『誘い』の姿を思い浮かべ、微かな同情の念を覚えた。
「で、あいつが持ち帰った情報とは何だ?あいつは確か、太陽の瞳の捜索に当たっていたはずだが……」
「ちゃんと仕事はしてたみたいだよ。村人に悪夢を見せ、夢と現実との境界を曖昧にさせ、顕現した負の感情を操り、自らの支配下に置く。《始まりの誓い》の村の連中は、ほぼあいつの配下となって、太陽の瞳の捜索に当たっている―――ただ一人を除いてね」
「奴の詰めの甘さを報告に来たのか?」
「いんや、違うよ。たった一人を悪夢に捕らえ損ねたことは大した問題じゃない。問題は、その一人がどうして助かったか―――だ」
「どういうことだ……」
含みのある『月影』の言い方に『暁』は先を促した。
険しくなった『暁』の表情に『月影』も姿勢を正し、息を吸った。
「裏切り者―――クロウが手を貸したのさ」
クロウ―――
その名を聞いた途端、ぼわっと『暁』の殺気が膨れ上がり、『月影』は息苦しさに顔を歪める。
「クロウ、あいつが……」
自らもその名を口にすると、感情の高ぶりが抑え切れそうになくて『暁』は握った拳を目の前のテーブルに叩きつけた。
ダンッ!
その衝撃に耐えられなかったテーブルは、いっそ清々しいほど綺麗に真っ二つに割れてしまった。
◇◇◇
ベッドの上で、うっすらと目を開けたアイザックは、近付いてきた気配に眉を顰めた。
「『戦慄』そこにいるんだろ。出て来いよ」
「おや、『誘い』殿の眠りを邪魔してしまったかな?」
名を呼ばれた『真夜中の戦慄』ことネル・カルマは、言葉とは裏腹に楽しそうな笑みを浮かべ姿を現
す。薄暗い部屋の中、フードは必要ないとばかりにネルは顔を晒しているので、自然とその笑みが目に入ってきて、アイザックの眉間の皺がさらに増えた。紫紺の瞳を細め、漆黒の髪に入った血のように赤いメッシュをいじりながら近付いてくるネルに関わって、今まで良いことがあった試しがないのである。
「邪魔したと思ったなら、少しは申し訳なさそうな顔しろよ……」
「ククッ、これでもそうしているつもり、なのだが―――」
嫌な顔を隠そうともせず、アイザックが言えば、ネルは口角をさらに上げ笑った。
どうにも反省の色は見えない。
「いや、どう見ても面白がってるようにしか見えねぇって!」
「おや、おや、『誘い』殿はご機嫌斜めと見える」
「誰のせいだよ!誰の!」
「…………」
無言。
暫しの沈黙。
「はて―――思い当たらんな」
思い出したようにネルが口を開く。
その一言に、アイザックは切れた。
「何だ!何なんだ、その間は!お前、絶対自分のせいだってわかってやってるだろ!」
ゼイ、ゼイ、ゼイ―――
ただでさえ、傷口に響くというのに、怒鳴り散らしたアイザックの息は上がる。だからなのか、アイザックは油断していた。
鋭い殺意を帯びた―――
妬み、
恨み、
嫉妬へと、
ネルの目付きが変わったことに、気付かない。
そして。
ばっ、がぐぅっ―――
ベットを襲う衝撃。
その衝撃を感じたが早いか、
「う、ぐぅううううう、ああああああ」
傷口を走った痛みに、声を抑えることもできずアイザックが呻いた。
アイザックを押し倒すようにして、傷口を踏みつけてネルがにぃっと笑う。
「この傷が―――神子につけられた傷か」
「う、ぐぬぅうううう」
傷口から血が滲む。
アイザックは呻くことしか出来ない。
それをいいことに、傷口を抉るようにして尚も力を加えるネル。
「神子殿は、私を捨て置いて、お前と遊んでいた―――と、いうのか」
「ぐっぬぅ、あ、うううううう―――は、な……せ……」
アイザックが途切れ、途切れに、辛うじて言の葉にすれば―――
ドスッ!
鈍い音と共に、頬に新たな痛みが加わった。
傷口に加える力を緩めることなく、ネルが頬を拳で殴りつけたのだ。
「…………」
その行為に、その痛みに、アイザックは言葉を失う。
対するネルは拳を見詰め、目を細め―――満足したのかベットから飛び降りた。
そして。
「行くぞ」
「………は?」
「行くぞ」
行くってどこへ?
―――というか、手負いの俺を連れ出す気……なのか?
アイザックは思った。
無茶だ。
無茶苦茶だ。
けれど、そういったところでこの状況をどうすることが出来ようか。悲しいことにアイザックに拒否権はなく、ネルに襟首を掴まれそのまま―――ずるりっ。ベットから引き摺り下ろされる。
と。
あげくの果てにはボロ雑巾の如くずるずるとネルに引き摺られていった。