Ⅵ
玉廉宮には現在四人の女たちがいて、最も位が高い側室から挨拶を受けることとなった。
やってきた、藍色の髪をしたふくよかな乙女は男の幼子を連れている。
「お目通り感謝いたします、側室ティリアナでございます。水の姫にはご機嫌麗しく。どうぞお見知り置きくださいませ」
ティリアナがアリーヤを水の姫、と呼んだのは、アリーヤのほうが高位であり名を呼ぶ許可が必要だったから。少し面倒だが慣れねばならない。
「ハリージュ国より参りました、アリーヤです。どうぞ名前で呼んでくださると嬉しいですわ、ティリアナ様」
「お心遣い恐縮にございます。此度、宮の敷地内に湧き出た泉はアリーヤ様のお力によるものであると、既に玉廉宮の者たちは理解してございます。誠に感謝申し上げます」
賞賛に背中がむずがゆくなったが我慢である。
女帝陛下が言っていたのはこういうことね――二の腕や横顔に刺さるアーハナの視線を受けつつ、なるべく優雅さを心がけ口を開いた。
「私は所有権を翳すことを好みませんので、泉はお好きなときに使っていただいて構いません。許可はこの場で致しますので、水浴びでも沐浴でも、していただいて結構ですわ。異常がありましたらお知らせください」
「なんと無欲な……」
ティリアナは頬を染めて三度感謝を述べ、実家で作っているという生地を置き土産に、名残惜しく宮へ帰って行った。
足音が遠ざかり、盛大に一息つくアリーヤにアーハナは厳しい視線を緩めない。
「この後は夫人たちが参ります。どうぞ、お気を引き締めて臨んでくださりませ」
「ピュグリ様だったかしら」
水庭が復活した知らせはその日の夕刻には女帝イルの元へ届き、翌朝、アリーヤは褒美と称して朝餉の席に招かれた。麦粉を練った薄焼きパンや粥、果物などを並べ、イルは女たちの話をした。
――ピュグリは皇妃の器ではない。ジュンパナの通いがあるのを良いことに侍女が増長しておる。本人の性格にもよるところが大きいけれど、主が毅然としておらぬからあのように浮ついて、他の夫人やティリアナに突っかかるのじゃ……。アリーヤに何かあれば、アーハナよ、そなたがきっちりと締めてやっておくれ。
話だけを聞くに、気弱な主人と気の強い侍女という組み合わせに思える。忠義心に篤い侍女ならば少々主人に厳しく意見し、皇太子に見初められるように腐心するだろうが、どんな侍女なのか。
「初めてお目にかかります、第一夫人ピュグリにございます」
やってきた夫人は淡い栗色の髪をした可憐な姿。
皇太子の好みを意外に思った。それも一瞬で、女帝陛下が気の強そうな女性だから真逆に走ったんだな、とどこか残念に感じた。支配できそうな女を選んだのか。
なるべくティリアナと似たような受け答えをし、どこで誰が繋がっていても裏表が作られないよう気を配る。これも祖国で教えられたことだ。ピュグリに関しては驕った態度も無く、水浴びと沐浴の話を出したら思わず笑みがこぼれたほど。
「あっ、顔に出てしまって、お恥ずかしいです。申し訳ございません」
「喜んでいただけたようで嬉しいですわ」
ピュグリは同年代か、少し年下のように思える。何だか可愛い。少し親交を深めてみたい……そう思った矢先、侍女が「僭越ではございますが」と含みのある声。
「ピュグリ様は皇太子殿下のご寵愛を一身に受ける御方にございます。水の姫様が泉の所有に拘らないのでございましたらその所有権、是非、ピュグリ様に献上していただきたく」
おっと、そうきたか。名乗ったのに名前も呼ばないところから、アリーヤをあくまでも他国の姫として扱うつもりらしい。そっちがその気なら、とアリーヤは微笑む。
「あら、権力を翳すことを好まないだけですのに、献上しろだなんてピュグリ様は欲深い方でいらっしゃるのかしら?」
侍女が眉根を寄せる。忠誠心に似たものは、持っているようだが。
「わたしの主を貶めないでいただきたい。ピュグリ様は欲深などではございませぬ」
「なら、なぜ所有権の献上を求めるのです?」
「先ほど申し上げた通り、ピュグリ様は皇太子殿下の寵姫。いずれ皇妃となられる御方。あなたが敬うべき御方なのでございますよ」
呆れた話である。残念ながら寵姫に溺れて国を傾けた王や皇帝は掃いて捨てるほどいる。それ以前に。
「アーハナ。サラブ帝国では、皇妃になる女性を侍女が決めるの?」
「いいえ、そのような事実はござりませぬ」
「であるならば、この侍女が言っていることは陛下への侮辱じゃないかしら」
これにはアーハナも妙な顔つきになった。ピュグリや侍女も同様の顔つきになっていてちょっとだけ可笑しい。
「現在、玉座にお就きなのはイル=スーリヤ女帝陛下で、皇太子殿下は殿下でいらっしゃる。なのに、殿下の寵愛を受ける自分の主が皇妃になる、なんて言うのよ? まるで、今にも女帝陛下を廃して殿下が即位なさるような言い方ではなくて?」
曲解もいいところ。けれど、捉え方は千差万別。侍女は皇太子妃ではなく何度も皇妃と口にした。夢を見るのは勝手だが不敬罪と捉えられかねないのをこの侍女は忘れている。
青ざめたピュグリが咄嗟に侍女の頭を掴んで床に押し下げた。それはもうぶつける勢いで驚いてしまう。
「決して、万が一にもそのようなつもりはありませんっっ! わ、わたしの侍女は少々誇張が過ぎまして……!」
「では、その侍女が勝手に言い出したことなのですか?」
「そっそうです、そうです!! まことに、誇張が過ぎましてっ、わたしは陛下の御代が末永く繁栄を続けてゆくことを願っております!」
「そうですのね。安心しました」
あからさまに態度を緩めてみせた途端、ピュグリは「誤解が解けましたようで安心いたしましたわ」と南から取り寄せた茶葉を置き土産に早々と辞していった。
女帝陛下の話は事実。これを機に変化するだろうか。いや、しないだろうか。