Ⅴ
人夫と資材の手配が済むまで、手持ち無沙汰となったアリーヤは玉廉宮の庭を散策した。
庭といっても枯れて萎びた植物の残骸があるだけ。かつては水を湛えていたであろう場所も、単なる窪地と化している。緑が無いだけでずいぶんと寂しくなるものだ。
「だめだ、完全に涸れたなぁ。姫さんが来た日まではチョロチョロ出てたんだがな」
「……ねえ、ルド。あなた、騎兵隊長よね?」
「だな」
「後宮に入ったらいけないんじゃない?」
なぜかルドはアリーヤの護衛と称して玉廉宮まで付いてきた。
衛兵も門番も咎めなかったが、やはりマズいのでは。玉廉宮の主は女帝イルではなく皇太子ジュンパナ。祖国だと慣例で男子禁制。宦官以外の男が忍び込めば問答無用で死罪だ。
気が気じゃないアリーヤに対してルドは「別に」とどこ吹く風。
「帝国には帝国の掟がある。姫さんには理解できねえかもしれねえが、皇太子の兄弟は玉廉宮をうろついても罰せられねえよ」
ふむ、とアリーヤは考える。帝国の掟。
「殿下のご兄弟だからって許されるものなの?」
「そうだ」
「ええ?」
そういえば皇太子以外の兄弟は皆、役職を持っていて第何皇子とも紹介はされていない。何か関係があるのか?
「うーん……分かったわ。大丈夫ならいいの」
皇太子も女帝陛下も許しているのならアリーヤがそれ以上言うことはなかった。不思議ではあるけれど。
引き下がったアリーヤに対してルドは口笛を吹いてみせた。
「姫さんて頭良いんだな。他の女ならしばらく騒ぐぞ」
「あら、騒いだほうが良かった? 思えば衛兵も門番も止めなかったもの。私の常識と違っただけだわ」
「いいね、姫さんみてえな女は嫌いじゃないよ」
「ありがとう」
微笑み合ったとき、ふと馴染みのある感覚を肌が感じ取る。
見回せば建物の近く、大きな岩影の下が気配を発していた。そう、水の、水脈が近くに存在する気配を!
「ルド、あの岩を動かせないかしら!?」
「いきなりどうしたんだよ。誰か連れてくりゃ出来るぜ」
「あの岩を退かせて地面を掘ったら、水が湧き出てくると感じるの!」
えっ、と目を輝かせたルドはすぐに宦官を呼びつけ、部下を数名と縄にシャベル、鋤などを持ってこさせた。
「よーし、お前ら! いよいよ姫さんの奇跡を目の当たりにする時だぞ、しっかりやれぇっ!」
もう水が出る前提である。アリーヤは思わず小さく笑ったが、逆を言えば皆、水を待ち望んでいるだろう。ルドの号令で岩に縄をかける者、窪地へ向かって水路を掘る者、煉瓦と砂利を運んでくる者がそれぞれに動き出した。
兵士四人で岩を退け、シャベルと鋤で掘る作業が始まる。宦官も駆り出して土は裏山へと運ばれてゆく。あっという間に膝まで、瞬く間に腰の深さも通り越して、釣瓶を使うほどに。
「アリーヤ姫、お衣装が汚れます。どうぞ、こちらへ」
伝令が走ったかシルトが到着し、現場からアリーヤを遠ざけた。
日除けを張った厚い敷物の上に自分だけいるなんて少し申し訳ない気持ちがする。それでも「アーハナが来たら叱られますよ」と苦笑いでシルトが促すので渋々座った。
見守ること暫し。
「水だ、本当に水が湧いた!!」
「っ出たぞー!!」
「「やっったああああああ!!!」」
大きな歓声が上がり、ルドとシルトが互いの手を叩き合って喜ぶ様子に、アリーヤも安堵した。側に来ていたアーハナが温かい手でアリーヤの手を握って満面の笑みを向ける。
「姫様。おめでとうござります」
「良かったわ。ありがとう、アーハナ」
掘った穴の周囲を煉瓦で補強しながら、砂利を敷き詰め、即興の泉は完成。水路を流れてゆく様子を見る宦官も兵士も嬉しそうだ。
本当に、水が少なくて大変な思いをしただろう。目元を拭うアーハナの肩にそっと手を置き、目の前の光景を見つめる。いっそ、水脈など探さず祖国と戦争すればいいとまで思ったのに、今はもう出来そうにない。
「皆さん、私の言葉を信じて土を掘ってくださってありがとうございました。どうぞ体を洗ってから戻ってください」
アリーヤの声に歓声は静まり、男たちは仰天した目を向けてきた。何か、そんなに変なことを言っただろうか。
シルトは戸惑う表情になり、ルドは「いいのかよ」と弱々しく口にした。
「いいって、何が?」
「せっかく湧いた水で、体なんか洗っていいのかよ。土で汚れてるんだぞ……?」
汚れたら洗うものでは……? 水は貴重なものだから、例え湧き出ても自由に使っちゃいけないと思っているのか? この水脈は太くないけれど気配が強いから簡単には涸れない。
それに、男たちは誰もが交代で土を運んだり掘ったり、懸命に働いた。働いた者には報いてやらねばならない、と王宮で教えられた。
「もちろん、いいわ。みんな一生懸命に働く姿は見ていたわ。私はお金も地位もあげられないから、せめて体を綺麗にして戻って欲しいのよ。どうぞ洗って。この水脈は百年以上、保つはずだから大丈夫」
だったら、とルドが遠慮がちに、水が貯まり始めた窪地へ下りて水路から流れ落ちる水を両手で受け止めた。そのまま手を、腕を洗い、ついには顔へとかけて「おおい!」と他の男たちに声を上げた。
「姫さんが良いって言ってんだ! お前らも洗っちまえ、気持ちいいぞ!」
宦官や兵士たちはオロオロと周囲を見回し、誰もがアリーヤに視線を投げる。どうやら許可が無いと動けないらしい。
「さ、働いた人は全員よ。体を洗って戻ってちょうだい」
これを皮切りに、ある男は恐る恐る、別の男は感心しながら、また違う男は信じられないとばかりにまだ周辺を見回しながら、それぞれ池になりかけた窪地へ下りていった。
湧き出たきれいな水で体を洗うということが、サラブ帝国の人間にとってどれほど贅沢なことなのか、アリーヤは知らない。
なりゆきを見守っていたシルトは呆然とした。本来なら、女帝陛下か皇太子が一度水に入り、側室や皇妃が水浴びしたのちに宦官や兵士、下男下女などが使うことを許される流れだ。それを、アリーヤは全く無視した。
いや、しかし、湧き出た水はそれを掘るよう指示した者が所有する。つまり、この泉の所有はアリーヤなのだ。彼女が宦官や兵士に体を洗うよう言いつけても罰せられることはない。とんでもない姫だ――と、これがアリーヤに対するシルトの感想だった。
なのでシルトはアリーヤの前で深く礼を取った。
「宦官及び兵士たちに気遣いをありがとうございます。この泉はアリーヤ姫に所有権がありますので、明日以降、玉廉宮に住まう方々への使用許可を出してください」
シルトとしては当然のことを言ったまでなのにアリーヤは目を剥いた。
「えっ、使用許可って何ですかソレ。みんなで使ったらいいじゃありませんか! 所有権なんて要りませんよ」
要らないって何だそれは! 今度はシルトが目を剥く。
「所有権は大切なものです。帝国は水不足が深刻なのですよ、自分の泉を所有したい貴族もたくさんいるというのに要らないなんて話がありますか!!?」
あ、これも常識と違うんだ。シルトの剣幕にすぐ気付いたアリーヤは「ごめんなさい」と表情を曇らせた。
ハリージュ国において水は湧き出て流れてゆくもので誰の所有でも無かった。サラブ帝国では違う。それは悲しいけれど水不足のせい。長く苦しんできたからこそ。
とはいえ、言い方も悪かったとアリーヤは心の中で反省する。下町の言葉はどうしても軽く聞こえてしまう、と何度も王宮で注意を受けたのに。
「所有権を軽んじたわけじゃありません。私は何かを所有することを好まないのです。特に水は生命線ですから、誰にとっても大切なもの。だからこそ所有せず、みんなで不自由なく使っていきたいと思うんです。そのほうが多くの人々を幸せに出来ますもの」
王族という存在が、これほど不便で分かりにくい言い回しをしなければいけない、と知ったとき目を回した日が懐かしい。今まさに、その不便で分かりにくい言い回しをアリーヤ自身が使うようになったのだから。
さて、これで良かっただろうか――不安はシルトの表情が柔らかくなったことで霧散した。良かった、きっと大丈夫だ。
「アリーヤ姫は無欲なのですね。先ほどは誤解から声を荒らげてしまい、申し訳なかった」
「私も言葉選びが足らず誤解を招いてしまいましたわ。おあいこ、ということにいたしません?」
「助かります。姉上にはどうか内緒で」
まず一つ、皇宮に自由に使える泉が出来た。