Ⅲ
チャドルは砂を防ぐための黒くて薄い布のことだった。全身に巻き付けると同時に女性は髪を隠すために使う。髪は女性の女性たる象徴で、異性に気安く見せてはいけない、とアーハナから言われた。
そして未知の生き物、駱駝であるが
「……首が、長いのですね。これは、こ、コブ…?」
とぼけた顔つきの生き物だった。馬よりも密に毛が生えており、背中に大きなコブを背負っている。足下は蹄でなく毛に覆われてひらべったいし、尾は短くて先に房があるだけ。
ルドは四肢を折って座った駱駝の首を撫でた。
「このコブにゃ栄養が入ってる。一ヶ月飲み食いしなくても生きられるが、まあ、管理してるからそんなことにゃならねえな。野生で生きてた頃の名残だ――おいおい、挨拶はお姫さんにすんだよ、おれじゃねえ」
撫でていた駱駝に頬を唇でむにむにとされ、ルドは顔を押しやった。必然アリーヤのほうを向いた駱駝は前肢を少し動かし、彼女の匂いを嗅いだ。
「今日はよろしくね」
そっと鼻先に触れると器用に鼻の穴を閉じる。眠たそうな目が可愛い。
「こいつらは立つときに尻から起きる。座るときは前足から折って座る。歩き方も馬とは全く違うから落とされねえようにな」
「はい」
手を借りて、設えた鞍に乗る――のは一苦労だった。跨がるのとも横乗りとも違い、最終的にはアーハナに足の位置を直された。
駱駝に揺られ、王都を出る。小オアシスを目指して。日差しこそ強いものの風もそれなりに吹いていて、どちらかというと覚悟したほど暑くはない。チャドルを被っているおかげで口元を覆えば呼吸も楽に出来る。
アリーヤが乗る駱駝の手綱はルドの部下の駱駝に結ばれ、ゆったりとした歩調で進む。
「見えたぞ、あそこだ」
ルドの言葉で前方に目を凝らした。が、緑はどこにも無い。あるのは砂、砂、岩、砂。ふと転がった丸太の残骸が朽ちた四阿に見えた瞬間、
「……なんてことなの」
呟くようにそれしか言えなかった。
涸れて、さほど時間が経っていないように思えた。四阿の残骸があった場所から多分水が湧き出していたのだろう。強い日差しで草木は枯れ果てて、風によってオアシスの名残は消えた。
駱駝を降りて呆然とさまよった。最もアリーヤを戸惑わせたのは水脈の気配が全く感じられないこと。まさか水源自体が枯れたのか、と体が冷たく震える。
「ここは……いつオアシスになって、いつ頃涸れたんですか……」
「前ハリージュ夫人が亡くなる直前に作ったから二十年前だ。完全に涸れたのは半年前。二十年前から急激に水量が減って、最後の五、六年は砂が湿る程度の状態が続いた」
夫人が亡くなってから水量が減った――ルドの説明にアリーヤは疑問を覚えた。
「……他のオアシスの状況は?」
「他もそんなんだ。小オアシスは急に水量が減って、五年から十年くらいは砂が湿る程度の状態が続いて最後には完全に乾く。大オアシスも涸れちゃいねえがめっきり水量が減ってる」
アリーヤは足下の砂に触れた。
「この場所は夫人が見出したものですか?」
片眉を上げたルドはアリーヤから見えない。
「どういうことだ?」
「夫人が、この場所を選んだのですか?」
「いいや、違う。亡くなった父の指示だったって聞く」
聞いた瞬間、長年の謎が解けた気がした。
アリーヤは立ち上がる。チャドルの裾が風に流れる。
「オアシスの復活は出来ません」
「な、んだと……!」
衝撃的な言葉にルドのみならず、追従してきた兵士もざわついた。
「おい、どういうことだ! オアシスの復活が出来ねえって! あんたはその為にっ」
「隊長、落ち着いてくださいっ」
激情のまま詰め寄るルドを部下が押し留める。
アリーヤは事実を言っただけだった。ここを復活させることは出来ない。他の多くも同様だろう。
「ずっと気になってたんです、何人もの王女が嫁いでいるのに依然としてオアシスが涸れるのは何故なのか……」
サラブ帝国とハリージュ国の関係が始まって、少なくとも百年以上は経っているはず。それでもことごとくオアシスは涸れてゆき、帝国はまた王女を望む。
なぜ繰り返されるのか。
先ほどのルドの発言で、恐らく歴代の王女たちは、皇帝や民が望む場所に水を喚んだと思われた。そのせいだ。
「ハリージュの王族の中には、水を喚び人為的にオアシスを作ることが出来るほど能力の高い方がいます。多分、嫁いだ王女様の多くはそうした方々だったのでしょう。この場合、水の喚び主が存命な限りオアシスは生き続けますが、亡くなれば水の流れは元へ戻る。これが私たちには涸れたように見える、ということです」
整然と語ったアリーヤを、ルドと部下たちは見つめるだけ。
「嫁いだ方々は皆、短命だったのでは?」
ルドは急に視線を迷わせた。
「……そこらへんは分からねえが、体が弱いっていう理由で正妃にも側室にもなってねえ。ほとんどが夫人止まりだった。だが、実際に前の夫人は四十の終わり頃に亡くなった。若かったとは、思う」
祖国において長命だった過去の王太后は八十二歳まで生きたという。食べ物や気候に左右されたとしてもやはり短命といっていいだろう。
「もしかしたら、水を喚んだことで体に負担がかかり続け、弱いという話に落ち着いたのかもしれませんね」
「そんな……そんなことが……」
ルドは呆然として額に手をやった。その仕草がこの世の終わりにも見えてアリーヤは慌てて付け足す。
「復活は出来ませんが、新しくオアシスを作ることは可能です」
「っ、どうすればいい?」
「私が太い水脈を探します。そこを皆さんで掘って欲しいんです。無事に水が湧けば、私が死んだ後もオアシスは生き続けますから心配いりません」
至極当たり前なことを言ったつもりだったが、ルドの瞳が一瞬悲しみに曇る。アリーヤは敢えて触れなかった。
貢ぎ物は異国の地で死ぬのだ。