episode.43 明かしたくないこと
ノワールに会いに来たソレアが帰宅する時間が来た。
ご機嫌なソレアは面に花を咲かせながら「じゃあまた来るわね!」と明るく挨拶して片方の手を大袈裟なほど振る。対するノワールは、少し寂しさを感じさせるような面持ちながら、落ち着いた様子で「ありがと」と感謝の気持ちを口にして花を見送った。
ソレアの姿が見えなくなれば、ノワールは一度息を吐き出す。それからくるりと向きを変え部屋へ戻るべく歩き出すのだが、その足取りは頼りない。身体が前後左右に乱れていて、やがて、倒れるようにカウンターにもたれかかる。伏せ気味になった細い目のすぐ横を一筋の汗が伝って落ちた。
「……イタ」
片腕をカウンターについたまま、もう一方の手で胸もとを押さえる。
そんな彼に、声をかける者が現れる。
「ノワ様!?」
声の主はルナだった。
後ろにコルトを連れている。
「ノワ様、体調が!?」
ルナはノワールに駆け寄り、顔を覗き込む。
「やっぱりゼツボーノを吸ったせい?」
「……多分、ね」
「部屋までお送りするわ。ノワ様、持ち上げるわね?」
「……ん、分かった」
ノワールを軽々と抱え上げたルナは「部屋まで送るわ」とコルトに伝えて歩き出す。それに対して、コルトは、戸惑いつつも「はい!」と元気そうに返していた。
――そして部屋まで運ぶ。
ちなみに、コルトもついてきている。
「ノワ様、やはり、体調がすぐれない感じで……?」
「仕方ないよ」
「でもぉ! アタシ、ノワ様が苦しまれるのなんて見てられないですぅ!」
「……そういうノリはいいって」
部屋に到着した頃にはノワールを襲う苦痛も少しは落ち着いていた。
ゼツボーノを抱えていることによる苦痛、それは、基本的には一時的なものである。ある種の発作みたいなもの。ずっと苦しみが続くわけではない、が、たびたび苦痛に襲われることは事実である。
「ノワ様、一度ソレアに相談してみたらどうかしら。あの娘の魔法で少しはどうにかなるかもしれないのだし」
ルナはそんな風に提案するが。
「やだ!」
ノワールは即座に払い除けた。
「どうして、そんな頑なに……軽くだけでも話してみれば、何か解決する方法があるかもしれないというのに……」
「ソレアに心配させたくない」
「……もうっ、ノワ様ったらわがまま」
ぷくと頬を膨らませるルナ。
「ルナ、ホント、絶対言わないでよ」
「ノワ様……」
「……ソレアに言ったら、怒るから」
「ええ、ええ、もちろん。ノワ様の意向に逆らうようなことはしないわ」
そう述べるルナは、悲しそうな目をしていた。
そして、その様子を後ろから見守っていたコルトもまた、空気に影響されて少々悲しげな面持ちになっている。
「ルナさん、そろそろ帰りましょうか」
「あら、もうそんな時間?」
「はい。といいましてもまだ少しありますが……」
「そうね。ま、ちょうどいいわ。そうしましょ」
別れ際ルナはノワールの手をそっと握った。
「ノワ様、本当に辛い時は……呼んでちょうだい」
それだけ告げて、ルナはコルトと共に去ってゆく。
室内に一人残されたノワール。
静寂の中、意味もなく天井を見上げる。
ソレアは何も知らない方がいい。他者のために悲しむ必要なんてない。たとえそれが本当のことを知らないことであるとしても、それでも、知って悲しむくらいなら知らないままでいてほしい。その笑みが消えないように。
――改めて、ノワールはそう思ったのだった。
◆
あれから、仕事の合間を縫ってノワールにこまめに会いに行くようになった。
人の姿に戻れる程度まで回復したわりには体調がすぐれない様子だったのが気になって、それで、定期的に会いに行ってみることにしたのだ。
日によっては短時間しか会えない時もある。
けれどもそれでも会えた時には彼はいつだって嬉しそうにしてくれた。
だが最近気になっていることがある。
ここのところのノワールを見ていて思うのだが、楽しそうにしていてもどこか暗さを感じるのだ。
まだ本調子でないのだろうか、そんな風に思ってしまう。
それともう一つ気になっていることがあって――私が別の方向を見ている時や目を離した時に一瞬表情が歪む時がある。
それもよく分からない。
何かしらの苦痛があるのだろうか?
でもだとしたら情報が入ってくるだろう。
多くの人に言いふらすようなことはしないとしても、近しい者に何も言わないということは考え難い。
……試しに、一度、直接聞いてみようか。
「ノワール、体調あまり良くない?」
その日、二人になるタイミングを狙っていきなり尋ねてみた。
「……何の話?」
目を大きく開ききょとんとするノワール。
今はそれぞれ椅子に座っている。向かい合うように置かれた椅子に。この椅子、簡易的なつくりのものなのだが座り心地はわりと悪くない。
「何だか辛そうに思えて」
「ボクが?」
「ええ。楽しそうにしていてもどこかしんどそうっていうか……そんな感じに見えるのだけれど」
伝える言葉はストレートに。
「もしかしてどこか悪いのかなとか思って……」
何も、悪いことを言っているわけではない。だから、そのままの言葉で問題はないはずだ。素直に、真っ直ぐに、考えていることをそのまま言葉としてしまおう。
「……気にしすぎじゃない」
そう返してきたノワールはいつもより少しそっけなくて、怒らせたかななんて少々不安になる。
「そう? なら良いのだけれど」
「気にしすぎだって」
「貴方がそう言うならきっとそうなのでしょうね。ごめんなさい、おかしなこと聞いて」
「べつに。気にしな――」
言いかけて、声が止まった。
次の瞬間、ノワールは顔をしかめて腹を折る。
「ノワール!?」
彼の唇から細く絞り出されるのは、苦痛に歪んだ小さな声。
「大丈夫!? やっぱり体調悪いんじゃ」
「……べ、つに、そんな……んじゃ……っ……」