episode.23 乙女はいつも全力疾走
「そう……だとしても、危ないから帰って」
ノワールはそれだけ返してきた。
ルナへの攻撃的な言動は一旦収まった。
けれどもまだ何も解決していない。
とにかくノワールをタコの足のような触手から解放しなくては。
「来たか、小娘」
低い地鳴りのような声、そしてじりじりと距離を詰めてくるこの世のすべての闇を絵に描いたかのような黒い塊。
恐らくそれが――ゼツボーノなのだろう。
距離が僅かに縮まるだけで、異常な恐怖感が身を駆け抜けてゆく。今までに経験したことがないほどの恐ろしさ。この世のおぞましいありとあらゆるものが肌の上を這いまわっているのかというくらいの恐ろしさだ。
「いつだったか、あれは」
「……貴方がゼツボーノですね」
「ああそうだ。懐かしい顔、よく来たな。歓迎しよう……」
歓迎、なんて、ちっとも嬉しくない。
それに、ゼツボーノが言う歓迎とは世で一般的に言われるようなそれとはきっとまったく異なるものだろうし。
「あの時連れ去った父と母を返してください」
歓迎される気なんてない。
でもせっかく来たのだからやりたかったことはやる。
「そのために来たのです!」
「ああ、あいつらか。ふ、ふふ、はっはっは! 残念だが! あいつらはもうとうに死んだよ!」
「死んだ……?」
「ああいや、そうだな、表現が間違っていた……二人はとうの昔に魔の者となった!!」
一瞬にして血の気が引く。
魔の者となった?
両親が?
父も、母も、既に怪物になったというのか……?
「おお可哀想に、言葉も出ぬとは」
脳内が真っ白になっていた。
何も考えられない。
視界がすべて白となる何もない空間に一人だけ置かれたような感覚。
「……れ、あ!」
遠いところで誰かが呼んでいる、そんな声が聞こえる――けれども返事はできないし音をまともに聞きとることすらできない。
真実を知った衝撃が大き過ぎて、まるで、身体のありとあらゆる器官が破壊されてしまったかのよう。
「だが案ずるな、すぐに楽にしてやろう」
気づけば、ゼツボーノは巨大な黒い口を開けていた。
世界の終焉を描いたかのような口腔内が頭上に広がる。その口の中には数本の牙が不気味に光って存在していた。太く先の尖った歯で刺し貫き食らうつもりだろうか。そうなれば間違いなく死ぬ、それは生物の本能として分かる。
「我が血肉となれ――」
「ソレア!!」
声が重なって、その瞬間ようやく脳が再起動される。
右へ顔を少し向けようとした瞬間、ちょうどその方向から突っ込んできた深緑の物体がぶつかるようにして覆い被さってきた。そして、人越しに感じる、大きなものがぶつかるような衝撃。
「ノワール!?」
「……大丈夫」
どうやら彼はようやく触手から解放されていたようだ。ルナのおかげだろう、恐らくは。ただ、その代わりではないが、今度はゼツボーノに噛み付かれてしまった。これでは何の意味もない、むしろ悪化している。
が、刹那、ルナの真横からの蹴りが一発ゼツボーノの顎に入った。
強烈な顎への衝撃にはさすがの化け物も耐えられなかったようで歯がノワールの背から外れた。
その好機を逃さず、身を反転させて体勢を立て直すノワール。
私はよく分からないまま彼の上着のきれを掴んでいた。
「そのままつかまってて」
「……ええ」
ルナは蹴りを加えた流れのまま地上に下り立つ――その一瞬前に横向けにした両手を顔の前へ出して手のひらを敵へかざし「閃光!」と叫んだ。
すると放たれる、凄まじく眩しい光。
「ノワ様!」
光の中、ルナの声がした。
直後身体が宙へ浮いたことに気づいた――そして、光がやんだ頃には既にノワールごとルナの背に乗っていて、驚く。
まさかの三段重ねである。
ルナは怪力だった。そして凄まじい脚力でもある。二人を乗せてそれでもなおかなりの速度で走ることができているのだから、人を大幅に超えた圧倒的な身体能力だ。
私は猛スピードの中でノワールの服にしがみつくので精一杯。
凄まじい勢いで駆けているからか風すらも肌を削るようで痛くて。
目を開いていることも段々苦痛になってきて、途中からはほとんど瞼を開けていられなかった。
それでも濃い緑を掴む手だけには力を込めて、絶対に離さないんだ、という強い意思を持ち続けるよう意識した。
◆
「はー、はー、さすがに疲れたわー……」
やがて街まで降りてきた。
全力疾走し続けていたルナはかなり疲れているようだったが、それでもまだへたり込んだりはしていない。
「さすがにもう追ってきてはいないようね」
ルナはほっと一息。
彼女がいなかったら本当にまずかった……。
「ルナさん、よければ治癒魔法使いますよ?」
「ったく! アンタ何考えてんのよ! まずはノワ様でしょ!」
気遣いのつもりだったが怒られてしまった。
……悲しい。
しかしその通りだった。
今回のことで一番酷い目に遭っているのは彼だ。
「ノワール、治癒魔法するわ」
「……いいよこのくらいなら大丈夫だし」
ノワールは既にルナの背から下ろされている。子どもように地面に座っているが、その二本の腕は脱力気味に垂らされたままだ。
「駄目。腕借りるわね」
片腕を持ち上げる時、そこには感じたことのない重さがあった。
「動かない?」
「……あまり」
「そう……でも大丈夫、きっと治るわ。治してみせる」
私がすることは一つ。
目の前の傷を癒す、それだけ。
「いいのに……って、アダダダダダ!? ちょ、何した!? 何したっ!?」
魔法をかけて十数秒ほどが経った時、ノワールは急に騒ぎ出した。
けれどもその後すぐに。
「あ。動く」
右手を開け閉めできるくらいには回復したようだ。
ノワールは目を大きく開いたまま、何度も右手を開いたり閉じたりしてみていた。
「あいっかわらず、その芸だけは見事ねぇ」
さりげなく失礼な言葉を選んで口を挟んでくるのはルナ。
「あ、じゃあ、ルナさんも」
「要らない! ノワ様も早く治しなさい、他のところも」
「はいー……」
またしても振られてしまった。
「落ち着いてやっていればいいわ。追手が来てないかはアタシが見張ってるから」