地獄の三丁目ですから
「ところで、小鞠がいないわ」
観念して教室を出るエリナは、さっきからきょろきょろと見回しているが、同じクラスなのに教室にも廊下にも、小鞠の姿が見当たらない。
「先に出てったよ。花江先生に呼ばれてるからって」
「なんだか、ますます嫌な予感」
ため息を漏らすエリナに、カノンも否定はしない苦笑を重ねる。
「定子は誘わなくていいの?」
「教室寄ってきたんだけど、もう居なかった」
「定子まで先生のとこかしら」
仕方なく二人は寄り道もせず、委員会室のある北館へ真っ直ぐ向かう。
「あれから、委員会室には行った?」
カノンはちょっと気まずげに首を横に振る。
「実は一度も。部活の見学ばっかり行ってた」
「私もよ。せっかくなら色々見たくって」
さっきの問答はまったく正反対だったのに、実際の行動は一致している。なんだかおかしくなって、二人して忍び笑いをくすくす漏らす。
「お嬢は、なに部にするかもう決めた?」
「まだ。つい目移りしちゃって」
「わかるー」
何度も頷くカノンに、あらとエリナは小首を傾げる。
「カノンは柔道とか剣道とか、やってたんじゃなかった?」
「そうなんだけど、どうせなら高校は違うのをやってみたくて。あと、そもそも勉強もついてけるのかっていう問題もあるし……うーん、悩みはツキナイ」
唇をへの字に曲げてカノンは唸る。エリナも困り顔で大きく頷き、
「私も似たようなものだわ。だいたい今日だって、部活の見学行きたかったのに」
「えへへ、実は私も委員会すっかり忘れた。今日は水泳部を見に行く予定でした」
「あ、いいな。私も水泳部行きたい」
「じゃあお嬢、あした一緒に行こうよ」
会話を弾ませているうちに、北館の階段を上り、薄暗い廊下の一番奥、特別室へとたどり着く。
「……相変わらずの不気味さね」
「地獄の三丁目」
廊下の窓は板で塞がれたままだし、朽ちかけのドアには一週間前と少しも変わらず、赤くBLOODY・DEATHの警告。反射的に身構えてしまう。
「行きましょうか」
「……うん」
一つ深呼吸をしてから、今度もカノンが、ドアを一息に開く。
「たのもー! ……って、あれ?」
ドアを開けると雰囲気は一転、
「よーこそ☆」
語尾に茶目っ気の乗った声が返る。いつも通りごく普通の表情で、人差し指と小指を立てたポーズを頬のそばに添え可愛らしさは忘れずに、定子が当然のように迎え入れる。
「定子、先に来てたのね」
室内に踏み入るなり、エリナはすぐに気が付く。久し振りに来たのに部屋がなんだかきれいである。
とくに定子の立っているキッチン周り。室内の間取りは、ドアを入って右側にホワイトボードと長机の会議スペースがあって、左側にソファとアイランドキッチンがある。
キッチン、といっても、先週来たときには段ボールがいくつも積まれていたし、薄汚れていて水回りを嫌々使ったくらいだ。
それが今は、段ボールはすっかり片付けられ、調理台も水周りも定子の顔を映すくらいピカピカである。
「ねえ、こんなにきれいだったっけ?」
「すっかり見違えてるわ」
二人して茫然として眺めている。
「ソファ座ってて。今紅茶入れるから」
定子がそう後ろの棚からコップを取り出し、勝手知った具合に準備を始める。
友達の家に初めてお呼ばれしたみたいにソワソワしつつ、とりあえず言われた通りに、二人並んでソファに座って、定子がやかんでお湯を注いでいくのを眺めている。
「カップがバラバラでかっこ悪いけど」
定子はそう機嫌の良い苦笑を挟みつつ、二人の前に給食の食器みたいなカップを並べる。
「ありがとう。……あらおいしい」
ふーふーと猫舌らしいカノンが密かに息を吹きかけている隣で、安価なカップでも様になる優雅な振る舞いでエリナは紅茶を一口いただく。アールグレイのすっきりとした柑橘の香りが、口の中に広がって自然と肩の力が抜ける。
すっかり落ち着いて、そして改めて室内を見回す。
「いつの間にこんなにきれいになったの……?」
ぽすんと定子は二人の向かいのソファに腰を下ろして、
「実は、あれからこまちゃんと、ちまちま掃除してたんだー」
「ええ、二人で? 任せちゃって申し訳ないわ」
「あ、いいのいいの。自分が使いたかっただけだから」
定子は屈託なく、ひらひらと横に右手を振ってみせる。初めて会ったと同じく制服の上からパーカーを着ており、今日のはカーキ色である。自分で入れた紅茶のカップを両手で包んで飲んでいる様子は、小柄なのがさらにちょこんと小さくなったようで可愛らしい。
しかし、そんな少女らしい見た目によらず、定子はしっかり者らしい、とエリナは感心する。
「はあ、おいしいー」
ようやく冷まし終えたらしい紅茶に口を付けて、カノンも幸せそうに表情を和ませる。顔そのものが似ているわけではないのに、すっかり緩んだその表情は、床で伸びきって気持ちよさそうに日向ぼっこするワンコを思い出す。
「ハチミツもあるけど、いる?」
「うん」「ええ」
二人の返事が重なる。うっかり前のめりになってしまった恥ずかしさを、エリナは小さな咳払いを付け足して誤魔化す。
「不思議ね。この間はあんなに憂鬱だったのに、今はとてもリラックス出来るわ」
「うん、紅茶のお陰かなあ」
しみじみと顔を見合わせるエリナとカノン。
気の合った二人の様子に、定子は飾り気なく笑みをこぼす。
「昨日作ったプリンが冷やしてあるから、こまちゃん来たら食べよ」
エリナとカノン、今度も二人一緒に、加工しなくても輝くエフェクトがちりばめられているかのような華やかさで、ぱあっと瞳を輝かす。
そしてすぐにまた、コホン、とエリナは頬を少し赤らめて慌てて取り繕う。