再始動ですから
「今日はここまで」
「ありがとうございましたー」
終業の鐘が響くと、教室の空気は一気に開放感に包まれる。
今日も一日つつがなく終わって、エリナも和やかに息をつく。部活動の案内冊子を優雅にしまって、高級に艶めくブラウンのスクールバック、その金具をカチリと閉じる。
(天気も良いし、今日はテニス部の見学がいいかしら。でも漫画研究会も気になるし)
4月も半ばを過ぎて、部活選びが本格化すればするほど目移りしてしまう。どれも新鮮で楽しそう。口元には自然と微笑が浮かぶ。
「いたいたー、お嬢!」
ん?
「お嬢ー、委員会行こー」
聞き覚えのある無駄に明るくはばからない声量に、エリナはぴたりと手を止める。そして優美に、閉じたばかりの鞄を開く。
(この声……何となく厄介な予感がするわ。無視はしたくないけど、うん、無視しましょう)
今し方、しまったばかりの冊子を取り出し、さて午後の予定を、とエリナはやり過ごす気満々でいたが、
「お嬢ってば!」
「きゃ」と思わず肩が跳ねる。
「もうびっくりさせないで、カノン」
鼻の先、同じ目線の高さに、カノンがちょこんと顔を出している。二重の大きな瞳が、悪びれることなくイタズラっぽく細められる。
まったく気配に気が付かなかったエリナは、負け惜しみっぽく唇を尖らす。
例の委員活動の夜、まるで役に立たなかったから忘れていたが、そういえばカノンは武道が得意と言っていたような。あれって本当なのかもしれない。
吟味する視線を向けると、カノンは居心地悪げにたじろいで、
「な、なに?」
「いいえ、こっちの話」
「気になるってば……、じゃなくて!」
早速主導権を奪われかけて、慌てたようにカノンはキリリと立ち上がる。
「お嬢、今日は委員会だよ! ちゃんと聞こえてたでしょ!」
「聞こえてたけど」
もー、とカノンは頬を膨らましているが、エリナは既に他のことが気に掛かる。
「高藤さんのこと、お嬢、って」
「やっぱり高藤さんって、お嬢さまなんだよ」
「どおりでねえ」
妙に納得したざわめきが、クラスメイトの間に起こっている。
(まずい。せっかくクラスに馴染んできたのに変な注目を浴びている)
「ほら、準備して」
エリナの胸中など知るよしもなく、なぜか前のめりでカノンは急かす。
「何を言ってるのカノン、」
さっさとこの場を切り上げたいのは山々だが、エリナはぐっと往生際悪く冊子を握る。
「役目を果たして、委員会は晴れて解散したでしょう。もういいじゃない」
あんな目に遭ってどうしてそんなに前向きなの、という心の声をオブラートに包み込んでエリナは果敢に説得を試みる。が。
「お嬢、それは現実逃避っていうんだよ」
遠い目になったカノンに諭される。
「うっ」
エリナは言葉に詰まる。
一度受けた役割を一方的に辞するのは、確かに無責任極まりない。それは正論だけど、それにしても、カノンに諭されるとやけに悔しい。
複雑に積み重なる苦悩に、エリナの眉間が絞られていく。
「だって……、だとしても、行きたくない……!」
エリナは一人、唇を噛む。
(もうあんな、む、虫なんて絶対イヤ! それにその後だって色々大変だったじゃない。シャワー室は寒いしリンスもないし、髪を乾かすのも一苦労だし、おまけに着替えはないしエトセトラエトセトラ。ただし二段ベッドは、初めてだったし旅行みたいでちょっと楽しかったけど……、でも! 話が弾んで結局寝不足になったわ!)
「お嬢、わかるよ」
エリナの心の声が聞こえているかのように、カノンはやけに深く頷く。二時間ドラマの終盤でベテラン刑事がみせるような顔である。
「今日まで、上手くいってたのよ……」
あの夜の、小鞠や定子、それとカノンとのかけがえのない友情の思い出だけを胸しまって、あとはすっかり忘れてしまった。そしてようやく、憧れのキラキラ学園生活にきっちり軌道修正出来ていた!
「お日様があったかくて幸せー」
ほら、隣の席でいつもの二人が、今日も会話に華を咲かせている。
「はぁーあ、眠くなってきちゃったよ。あ、なっちゃん、今日はなに味?」
「紅ショウガ」
「へー春だねえ。おいし?」
「うん」
「ちょっとちょーだい」
「ヤダ」
端的に答えて、はむはむと桃色の笹かまぼこを食べる学友と、後ろ向きに椅子に座って、彼女の机で上半身をゴロゴロさせているもう一人の学友。
「上手く、軌道修正が……」
出来ていた気がしない。エリナは諦観の念で天を仰ぐ。
「さ、お嬢。一緒に行こう」
(華の学園生活が、また遠ざかっていく!)