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ダメなものはダメですから

 エリナはゆっくりと、ほわわんと響く音の方へと振り返る。

「あれは――虫?」

 懐中電灯の明かりで照らし、廊下の奥、目標を見定める。

(そうね、学園は自然の近くにあるのだもの、虫ぐらい出るのは当然だわ。本物の虫っていうのは、図鑑でしか見る機会がなかったけれど)

 灰色のつるりとした半円形、正面に長い触覚、無数にわらわら動めく足。

 観察しているうちに、エリナの背筋にぞわりと戦慄が走る。耐えきれずに思わず口に手を添える。

「きっ、気持ち悪い!」

 直視に堪えずに目を逸らす。

「昆虫ってこんなに気持ちが悪いの? というかそもそも、あんなに大きいものなの?」

 ほわわんと迫るその距離感を差し引いても、サイズがおかしい。天井の高さに届くほどだし、幅もいっぱいで、大きいを越えてもはや巨大。

 薄目で見上げるエリナの隣で、諦観の眼差しの定子と小鞠も頷く。

「あれは大きすぎるね。しかもアレって虫じゃなくて、たぶん甲殻類」

「甲殻類? カニとかエビとか?」

「そう、海にいる」

「海……」

「それも海底。あれは、ダイオオグソクムシ」

「ダイオオグソクムシ……」

「ほら見て、お嬢。つるっと丸いフォルムがかわいいでしょ。巷でも最近人気の生き物なんだよ……」

「か、かわいい? あれが……?」

 確かに丸くて、ほんわかな効果音も付いているし、口元と触角と沢山の足も、のそのそ一生懸命動いて健気……。改めて観察してみて、エリナはぐっと唇を噛み、じわりと瞳が濡れる。

「無理よ! 可愛くない!!」

「だよね、ごめん!!!」

 同じく涙目になりつつ定子が即謝罪の、そしてパニック。

「ねえこれ、どうしたらいいの!?」

「見回りだから、駆除してって、こと、かな?」

「できっこないわ!」

「だけど、こっち来るよお!」

「に、逃げるしか……はっ、カノン!」

 床に安置したその存在を思い出し、エリナは呼びかける。

 胸の前で手を組み、完全に現世を諦めた状態のカノンは、意識を手放し戻ってこない。 その倒れっぷりは騎士には程遠く、というかむしろ守られる方、ほとんど姫!

「起きて! 虫じゃなくて甲殻類だから! カノンってば!」

 叫びながらエリナはハッとする。その至高の頭脳をフル回転させ、結論は瞬時に叩き出される。

 カノンを抱えたままでは逃げられない。

 だがそもそも、

「甲殻類は人を殺さない」

 エリナの呟きに、ダイオオグソクムシの動きを見張っていた定子と小鞠が、ハッとしてエリナを振り見る。ザッツ・ライト、と二人の瞳は口ほどに物を言っている。

 ほわわん、と一際音が大きく鳴る。

 すると突然、それまでゆっくりだったオオグソクムシの動きが機敏に変わる。

 ワサワサワサと昆虫顔負けの早さであっという間に距離が詰まる。

「逃げ……」

 しかし引きかけた体をエリナは強い意思で押し戻す。

「いいえ、だめっ! 友達を置いては逃げられない!」

「お嬢!」「エリナちゃんっ」

 せっかく友達になれたのに、こんな失い方は嫌。決意するエリナに、定子と小鞠も想いを同じくするも、為す術なく影は目前。

 助走をつけた巨大なオオグソクムが大きく飛び跳ね、エリナ達に襲いかかる!

「きゃあああ!!!」

 例え死にはしないとしても、それに匹敵する恐怖! オオグソクムシの裏側は立ち向かうにはグロテスクすぎる。

 絶体絶命、エリナは咄嗟に身を挺し、カノンに覆い被さる。

 強く目を瞑ったそのとき、破裂音が耳をつんざく。ぐらりと床が揺れて、近くにミサイルでも落ちたのかという衝撃が走る。

 怯えつつも、エリナは慌てて顔を上げる。

 目前に立ち塞ぐのは、小鞠の後ろ姿。髪もスカートも緩やかに靡き、真横に伸ばされた右手には、エナメルのハイヒールが凜と握られている。

 鋭く尖ったピンヒールの先から、余韻のように白い煙が立ち上る。

「小鞠……?」

 状況が飲み込めないまま、エリナはヒールの先に視線を滑らす。

 ヒッ、と呼吸が引き攣る。すぐ横、壁際には、つい数秒前に直視して卒倒しそうになった無数に足の生えた裏側。のそのそと動いていたそれらが動きを止め、巨大ダイオオグソクムシが横倒れになっている。

「一体何が……」

 止まってもこのグロテスクさ。エリナが薄目で素早く検分するに、やや頭に近めの一点に、鋭く突いた様な穴が黒々と突き刺さっている。丁度ピンヒールと同じ大きさの。

 俄には結び着かない二つを無理くりに結びつけてみるとつまり、襲い来るオオグソクムシを小鞠がピンヒールで貫いて撃退したということになる。

「まさか、小鞠が?」

 正否の判断が付かずにエリナは、隣で立ち尽くしている定子を見上げるが、やはり彼女も理解が追い付かずに、混乱の眼差しを見合わすばかり。

 しかし、とにもかくにも、ダイオオグソクムシの動きは止まり、窮地は脱した。

「こま――」

「はっ、」

 エリナが呼びかけると同時に、小鞠は我に返ったように顔を上げた。

 伏し目がちに、小鞠が振り返りかけて、しかし途中でやめてしまう。

「小鞠? どうかしたの?」

 眉を寄せ、唇をキュッと結んだ、いつもとは違う苦しげな表情に、エリナは驚いて尋ねるが、小鞠は答えることなく一目散に走り出す。

「こまちゃん!」

 その背は廊下の奥へ消え、定子の呼び声が虚しく闇に吸い込まれていく。

「急にどうしたんだろう」

「泣きそうな顔をしていたわ」

 エリナは浮かんだ嫌な予感に、顔を青くする。

「まさか、どこか痛めたんじゃ」

「追いかけよっ」

 うん、と頷きあって二人は後を追う。暗闇の突き当たりを曲がり、廊下を駆ける。

「小鞠ーどこーっ」

 わずかに聞こえる足音を追いかけて、階段を上り廊下を行き止まりまで来たけれど、小鞠の姿も返事もなく、足音ももう聞こえない。

「一体どこに……」

 規則正しく並ぶ窓から月明かりが差し込んで、長い廊下を照らしていく。

「ねえ、お嬢、あの教室」

 並ぶ教室一つ、その引き戸の曇りガラスだけに影が落ちている。

 近付いて見れば、くもりガラスに写るのはおそらく、ドアの前に積まれたらしい机のシルエット。

 エリナはドアへ手を掛けてみるが、びくともしない。

「開かない。ここにいるんだわ」

 コツコツコツ、と急ぐ気持ちのままノックして、

「小鞠、怪我をしたのなら早く治療しないと」

「こまちゃん、ここ開けて!」

 定子も一緒に呼び掛けるが、声は返って来ない。顔を見合わせた二人の心配は一気に増す。

「中で倒れてるかも」

「何か扉を破るものを」

 そう隣の教室に探しに向かおうとして、

「違う……私は大丈夫だから」

 危うく聞き逃し逃してしまいそうなほど、小さな声が返る。

 二人はすぐに戻ってドアに張り付き矢継ぎ早に、

「無事なの?」

「怪我は?」

「ううん、平気。どこも怪我はしていないから……」

 その力ない声音は気になるが、ひとまずはエリナも定子もホッと胸をなで下ろす。

 しかし、再び小鞠は沈黙する。

「小鞠、どうかしたの?」

「いいの……、先に帰っていて」

「なぜ?」

「一緒に帰ろうよ」

 呼び掛けるも、それきり返答はない。

「どうしたのかしら」

 エリナは戸惑うばかりで、定子も首を横に振る。

 なにがどうして小鞠が引きこもっているのか、エリナには見当も付かない。

 だけれど思い出されるのは、去っていった小鞠の表情。苦しげに眉を寄せ、今にも泣きだしそうだった……。

 閉ざされたこの扉のように、小鞠の心も暗闇に飲まれて、遠く離れていってしまいそうで、途端に不安に襲われる。

「小鞠、何かあるなら私たちに話してみて。力になるから」

 エリナは自分の内の小さな勇気を握りしめ、再び沈黙に語りかける。

「私は、小鞠と友達になれて、一緒にここまで来れてとても嬉しかった。

 だから貴方が辛いのなら、私に少し預けて欲しい。喜びのように上手くいくかわからないけど、悲しみだってきっと分け合って、貴方の力になりたい」

 しんと夜の闇に沈む。

 エリナは自信なく瞳を泳がせたが、迎えるように定子がにこりと確信めいて笑った。

「……エリナちゃん、違うの」

 震える返答に、エリナと定子は顔を明るくする。

「その、私、さっきのこと」

「さっき? あの甲殻類のこと?」

「お嬢、ダイオオグソクムシだよ」

「きっ、気持ち悪くない?」

 思い切ったように小鞠が尋ねる。

「気持ち悪い」

 エリナと定子が声を揃えて即答する。真顔である。

「あのうごうごする足! それに触覚とか口とかも相当」

「やめて定子、思い出したくもない」

 全身に悪寒が走って、エリナは思わず自分の身をかき抱く。

「ああ、本当に。小鞠がいなければ、どうなっていたか」

 首がとれそうなほど定子が頷くが、慌てたように小鞠の声が返る。

「そうじゃなくって、私が……、私のこと、気持ち悪くない?」

「ん?」

 言葉が結び付かなすぎて、ぽかんとする。

「なんの話? 気分が悪いの小鞠?」

 普段のエリナからはかけ離れた鈍くさい返答でまた心配を始めたので、小鞠はいよいよ核心を口にする。

「あんな巨大なもの、平気で倒す女子高生って、気持ち悪くない?」

 ぱちくり、とエリナは、定子も揃って、大きく目を瞬く。

 もちろん、そんな様子は小鞠からは見えないから、焦ったように早口になる。

「私、田舎暮らしで虫なんていくら大きくても平気だし、甲殻類もそんな変わらないし、むしろ甲殻類な分、刺したりしないから面倒が少ないなって。捌くのにどこが弱点だかも冷静に考え付くし、やるのだって全然迷わない。だけど、そんなのって、殺伐としてて気味が悪いって、自分で思うの。

 エリナちゃんみたいな素晴らしい人のそばに、私みたいな気持ち悪いのがいるの、嫌なの」

 扉の向こうにいても、しょんぼりと項垂れる小鞠の姿が見るみたいに語尾が途切れる。

 ようやく調子を取り戻したエリナは得心顔で冷静に、

「なるほど自己嫌悪ね」

「要約が早過ぎるよ、お嬢。もう少し情緒を」

「だって、そんな馬鹿なこと――」

 言いかけて、エリナは閃いたように、ちょっとイタズラめいて口角を上げる。そして扉に向かって話かける。

「どうかしら、強いて言うなら、そんな貴方のこと……きゃー」

 叫ぶエリナに、隣で定子が肩をびくりと揺らす。

 びしり、と廊下の奥を指差すエリナに定子の口がポカンと開く。

「定子見て、また出たわ! オオグソクムシ!

 だけど今度は私が倒すわ。さっきは初めてだったから、ちょっとびっくりしたけど、私だってどうってことないわ。定子、とっとと片付けてやりましょう」

 ドヤっと効果音が付きそうな、エリナの熱い眼差しに、定子はとうとう抑えきれずに盛大に吹き出す。

 慌てたのはエリナ、

「ちょっと定子、笑ってないで、ここは一緒に」

「ぶっ、だってお嬢、とんでもない棒読み」

「おっ、大目に見なさい、こんな時ぐらい」

「見た目は女優さんみたいになのに、演技が死ぬほどド下手だなんて……文化祭の劇、楽しみだね」

「もう! 黙りなさい、定子」

 咎めながら、エリナももう笑いを堪えきれなくなっている。

 クスクスと、ドアの向こうからも小さく笑う声が漏れてくる。

「ほら、小鞠、ここを開けなさい」

 強気に言いながらも、エリナは耳まで真っ赤になっている。

 すっと控えめに、教室のドアが開くなり、飛び込むエリナは小鞠に抱きつく。

 驚いた小鞠が、バランスを崩しかけながらも受け止める。

「馬鹿ね小鞠、そんな貴方が大好きよ!」

「うん。ありがとう、エリナちゃん」

 紅潮した頬を隠すように、小鞠も頷く。瞳が少しうるんで、きらりと光った。

「ミッションコンプリートね」

「さ、帰ろう!」

 そう定子が、エリナと小鞠の手をとって先導する。あれだけ恐ろしかった闇夜が今は少しも怖くない。

 三人は階段を降り、何事もなく渡り廊下まで戻ってきたが、ふと、エリナは足を止める。

「なにか忘れていない……?」

 沈黙ののち、三人は同時に声を上げる。

「カノン!!!!」

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