ダメなものはダメですから
「カノン!?」
エリナは咄嗟に、倒れる体を抱き支える。
「なにっ!? どうしたの!?」
切迫して尋ねるエリナに、カノンも必死でしがみ付く。
「無理……あれだけは、絶対ダメぇ……うう」
彼女は涙ながらに訴えて、ガクリとエリナの腕は重くなる。
「ちょっと、うそでしょ、カノン! カノンったら!」
エリナは青くなる。カノンの返事は返らない。はっ、と背後で悲鳴に似た、短い呼吸。
「あれ見て……っ!」
定子が、カノンの照らしていた壁にライトを向けて捕捉する。視線を張り付かせたまま示す定子の表情も、みるみる弱く張りつめていく。
不安と恐怖に押しつぶされそうになる。だけれど、顔を上げなくては自分の身は守れない。勇気を振り絞り、エリナは一息に視線を向ける。
オレンジの円の中、壁に不自然な物体、丸く、滑らか……目を凝らす、違う、あれは、
「――虫!」
まず訪れるのは多少の安堵。昆虫ならば、一瞬でこの身が危ういということはない。エリナは冷静さを取り戻す。
学園は自然の近くにあるのだもの、虫ぐらい出るのは当然だわ。本物の虫っていうのは、図鑑でしか見る機会がなかったけれど、とエリナは目標を見定める。
ぼんやりとした光の円の中で、甲の濃褐色が暗くぎらついている。照らした範囲内だけで、同じ虫が四匹確認できる。重なるように壁にくっついている。それぞれ長い触覚を持ち、どれも櫛歯状、ぴんと立ったその部分だけが胴体とは別物のように絶えず向きを変えている。触覚が発しているのか、擦り合う様なカサリカサリと細い音が、間断なく耳につく。
見ているうちに、エリナは背が冷たくなっていくのを感じる。背筋が、心臓が、何かを考える前に震えだす。得体の知れない恐怖が沸き上がる。直視する眼を耐えられずに逸らす。
「きっ、気持ち悪――!」
エリナは思わず口に手を添える。彼女自身信じられないほど、自分が危うくなるほど、気持ちが悪い。昆虫ってこんなに、こんなに気持ち悪いの?
「あれって、夏とかに、台所に現れるのとは違うよね……?」
壁を照らす円が震えている。
「だって、あんなに大きくないもんね……」
呟く定子ももう殆ど涙目に近い。虫はこれだけ離れていてもしっかり見える、一匹が広げた大人の手ぐらいあるのではないか。
ほわわん、と鳴り続けるアラームと、合間にカサカサとどこからともなく上がる音が、彼女たちを追い詰める。
じりじりと後退してく中、定子がはっと手元を見やる。
「まさか、武器って……これで潰せってこと!?」
持っているのは、ハイヒールの片足。しかし、エリナはブンブンと首を左右に振る。
「いやよ! そんなのムリよ、出来るわけないじゃないっ!」
必死の叫びに、定子も強く頷く。
「絶対嫌!」
「逃げなきゃ!」
敵の捕捉を定子に任せ、エリナは退路を素早く照らす。
「こっちにはいないわ、早く」
「あっ――!」
小鞠の声に振り返ると、虫の触覚が一際大きく揺れた。そして、一斉に壁を伝って移動し始める。
「きゃあああああああ」
その気持ち悪さに彼女たちはパニックになる。すぐさま退避しようとするが、腕の中のカノンは完全に伸びたまま。その倒れっぷりは騎士には程遠く、というかむしろ守られる方、殆ど姫。
「起きてカノン、カノンっ!」
肩を揺さぶり、頬を軽く叩いてみても瞼は全く動かない。
「なんてこと!」
エリナは絶句する。カノンを抱えたままでは走れない。カサカサと音は近づいてきている気すらする。
――ダメだわ、虫では警察は呼べない、カノンを置いて逃げるなんてもちろん出来ない。
ではじっと息を殺してやり過ごす? 耐えられる気がしない。そういえば、虫だって毒を持っているものなら人を殺せって本で読んだことあるわ。あんな虫見たことがない、その上大きい……まさか人殺し虫じゃ。
思考を必死に回転させるが、エリナは考えた先で新たな可能性にまで気付いてしまう。
「なんとしても、逃げなくては」
彼女の額には汗が伝う。判断を下す。
エリナは急いでカノンの片腕を持ち上げ自分の肩に回す。すぐに定子も手を貸そうと駆け寄るが、足がもつれる。
「もうやだよぅ」
半べそで定子が弱音を叫ぶ。
虫は動きを追うのが危うくなるほどに速度を上げて侵攻してくる。やはりこちらに、壁を伝ってカサカサと向かってきている。近づいて鮮明になる虫の姿、蠢く幾本もの脚、その脚にも甲にも触覚にも、びっしりと繊毛が生えているのが、照らす光と影の凹凸で仔細にわかってしまう。
怖気を震う。エリナは頭で必死に動けと命じるも、震える体は言うことを利かない。
エリナはカノンを持ち上げて立ち上がろうとするけれど、力が上手に入らずに膝を突いてしまう。
もう一度、と顔を上げた視界で、先頭の一匹がまさに今羽ばたいた。
伸びた触覚はこちらに、そして虫は姿勢を変え、浮き上がる筋でびっしりと埋め尽くされた虫の腹が目前に飛び込む、
頭の中が真っ白になった。
意識の遠のくのを感じたが、エリナはむしろ真っ白になる方を望む。こんな現実耐えられない。何もわからなくなるなら、もういっそそれでいい――
瞼を閉じかけたその時、一筋、閃光が走った。
少なくともエリナの失われかけた視界には、そう映った。
「こまちゃんっ!」
定子の声で我に返る。
エリナの前には、小鞠が立っている。すらりと伸びた右腕はハイヒールを振り払い終えて、しかしまた、彼女は一直線に、鋭くヒールを振る。
ゴッ、と体積を感じる鈍く太い音がして、虫はひっくりかえって床に落ちる。
「今のうちにっ……!」
弱く眉間を絞った不安と焦燥の表情で、小鞠はエリナを振り返る。
「小鞠……!」
エリナは咄嗟の出来事に眼を見開くが、わかったわ、と頷き急いで立ち上がる。
腕を取ってもうカノンは床を引きずって、なんとか後退る。定子はそれを手伝いつつ、虫を照らし続ける。
虫は示し合わせたように、次々とこちらに飛び込んで来る。虫が羽ばたく光速の軌道を一瞬で見極め、小鞠は正確にヒールを払い撃ち落としていく。残り3匹をあっという間に捌ききる。
廊下に、夜の静寂が戻る。虫はピクリともしない。警告めいた音を鳴らしていた懐中電灯も、今はただ壁を照らしている。
「音が止んだ……! 今のうちに、早く逃げましょう」
三人は頷き合って、エリナと定子ふたりがかりでカノンを支え立ち上がる。
しかし、その直後。
「ほわわん」
エリナは目を見開く。
「まさか、また!」
再び鳴りだした警告音に、一気に緊張感は満ちる。
「いっ―――」
悲鳴が悲鳴になりきらず、声が詰まる。
探すまでもない。エリナの見たのは、虫。廊下の先にいたのはこれまで見たことないような、巨大な虫。
楕円の形態は、これまで倒したものと似て見えたが、大きさが違いすぎる。櫛状の鱗粉を散らす触覚が、彼女らの背と変わらない高さであるのを、見てしまった。意識が遠のく――