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ピンチはチャンスなのですよ

 床が赤い。一瞬、血痕かとぞっとする。しかしすぐに、出血とは事情が違うと判断がつく。

「なにこれ……」

 つらつらと床を埋め尽くしているのは何やら赤い文字で、横たわる女生徒を中心に、円を描くように書かれている。

 ミミズののたくったような赤文字は、おおよそ解読不能だが、ただならぬ執念を放っていて先程とはまた違った怖気にエリナは背筋を震わせる。

 同じく床の文字に眉間を顰める定子と顔を見合わせて、そして自分達も文字の上にいることに気が付いて慌てて退く。

「だ、大丈夫だよね、踏んじゃったけど!?」

「わからないけど、寒気がするわ」

「お嬢、呪われたなんて言わないで」

 そこまでは言っていない、と思いつつ、エリナは床を観察する。デタラメというには文字には繋がりがあるようだし、女生徒の横たわるのもきれいに円の中心、まるで何かの儀式のようだ。

「これはもしや……魔法陣?」

「魔法陣?」

 思い切り訝しんで繰り返す定子に頷きつつ、エリナはすらりと顎に右手を置き、真剣な面持ちで推論を巡らす。

「ええ。術者の魔力を増幅させるために用いる図や呪文よ。あるいは、魔法陣を媒体として魔界との交信を図る儀式の一種」

「じゅつしゃ? まかい?」

「そう、つまり魔界とこの世を繋ぐ召喚魔法よ。それがここで行われたんだわ!」

「おっとお、お嬢良くないスイッチ入ったね」

 自信満々に目を輝かせハリキリオタクモードに入ったエリナを華麗にかわし、定子は残りの二人を振り返る。しかしそちらはそちらで、また違った緊張感で張り詰めている。

「こまちゃん、あそこにあんな置物あった?」

 カノンに答えて小鞠は首を横に振る。

 剣道場の奥に、甲冑が一揃い飾られている。黒い兜に胴当て、小手にすね当てと、まるで合戦本陣に鎮座しているかのよう。

 あまりに人の姿をしていて不気味だが、顔にもしっかり面具が備えられているせいで、それが置物なのか、甲冑を纏った誰かなのか、彼女らの距離では見分けが付かない。

 ただ、いくら剣道場でもその真ん中に甲冑なんて飾るだろうか。さすがに不自然。それも、カノンと小鞠の記憶によれば、ついさっきまでこんなものは無かった。

「違うと思うけど、あれが魔法陣の効果のやつ……?」

「まさか! ただの飾り!」

「だよ、ね」

 カノンの疑問を定子も必死で打ち消すが、二人とも甲冑から視線を外せずにいる。なぜならその姿は青白くぼんやり光っている気がするし、なんならゆっくり動き出している。

 ひっ、と彼女たちは悲鳴を上げる。

「いや待って、ホントにあの女生徒()が召喚したのかも」

 冷たい恐怖を振り払いエリナは顔を上げる。

「きっと私たちと同じように外の亡霊たちに追われて、何とか対抗するために魔法陣でこの鎧武者を呼んだのよ。だったらあれは、こちらの味方!」

「そんな漫画みたいな展開、信じられる!?」

 半べそで反問する定子に、ゴクリと唾を飲み込むエリナも、

「信じるしかない……亡霊に追われていること自体、信じられないことなのだから」

 自分に言い聞かせるように答える。

「そうだけどさあ……」

 甲冑武者は人間そのままに二足の足で立ち上がり、甲冑かそれとも腰に差した日本刀か、カチャリと重たげな音が静かに響く。

 カチャリカチャリと規則的に続くのは、加勢の足取りなのか。ともかく鎧武者は彼女らに向かって歩を進める。

「味方、のはず」

 近付けば近付くほど、鎧武者が放つ雰囲気が生きた人間のそれでない確信が濃くなっていく。エリナの靴底はすっかり床とくっついているが、召喚されたらしきこの英霊と意思疎通を図り、自分達が女生徒の敵でないことを伝えなければならない。

「何事も基本は挨拶よね。こんにちは、ああいえ、こんばんは、かしら。この時間なら」

 エリナの呟きに答えるのはカノン、

「幽霊的には、おはようございます、かもしれない」

「そうね、確かに。では万能な挨拶を」

 エリナ、定子と、鎧武者との間に立ちはだかるカノンは、今回は意識を失うこともなくしっかりと警戒を保っている。

「本気なの? 逃げた方が良くない?」

「いいえ定子、やるしかないわ。……コホン、」とエリナが喉を整えて、

「ごきげん、よ――」

 う、と最後まで挨拶しきらないうちに、素早く場内に視線を走らせ小鞠が駆け出す。同じくして鎧武者が突如、臨戦態勢に変わり刀を抜きつつエリナたちに突進する。

「カノンちゃん!」

「うん!」

 小鞠が壁際の棚に手を伸ばし、木刀を掴んで投げ渡す。カノンは織り込み済みとばかりに見事なコンビネーションで踏みだし様に木刀を受け取り、まさに振りかぶった鎧武者の初太刀を頭上で防御する。

 木刀はしなり、切り結ぶ音は低く鈍い。

 体勢を立て直そうとカノンは体を入れ替えるも、鎧武者は先読みしたかのように次太刀を浴びせる。寸前でそれも防ぐが、大きく退き距離を取り直す。

「――できる!」

 カノンは敬意に似た呟きで、好戦的に背筋を伸ばして構えを正す。応じるように鎧武者も剣先をカノンに向けて構える。短い静寂が流れて、そして同時に踏み出し再び切り結ぶ。

「ちょ、ちょっと!」

 繰り広げられる一進一退の打ち合いを、呆然と半開きの口で眺めているエリナの肩をブンブンと定子が揺さぶる。

「違うじゃん! 全然違うじゃん!」

「ハッ、術者の意識がないから制御が効かないんだわ――……」

「言ったそばから、遠くを見ないで!」

 諦観の混ざる視線を明後日に泳がせるエリナを責めつつも捨て置き、定子は女生徒を再び起しにかかる。しかし目を覚ますどころかごろりと呑気に寝返りをうつ女生徒に、

「ええい、まどろっこしい!」

 業を煮やした定子が、切れ味鋭く目覚ましビンタをかますも効果は空振り。

 やけくそと泣きべそ混じりで、ボンゴを叩くが如くパシパシ両手で頬やら肩を叩き、あるいは運動会の大玉転がし並に全速力で転がしても、奮闘虚しく女生徒は瞼をぴくりともさせない。どころか、夢でも見ているのか気の抜けた寝顔は幸せそうですらある。

「ねえもうグーで行っていい? もういいよね!?」

 ゼエゼエと息を切らして、いよいよ黒い影を顔半分に這わせながら、定子はエリナに同意を迫る。だがエリナはエリナで、そんな定子も女生徒もそっちのけで魔法陣を凝視している。巡る血文字めいた赤の羅列を視線がぐるりとなぞって、眉間がきゅっと険しく、どんどん雲行き怪しく寄っていく。

「これ、魔法陣じゃないわ」

「……え?」

「日記? いえ、恋文? いやもはや、呪い?」

「え、ええ??」

 闇鍋めいた単語に組み合わせに、定子の顔からも影がひいて困惑が取って代わる。

「“ああ、今日はとても幸せ。だって今日は二度もあの方の姿を見られたの。すごい偶然! きっと運命! これが運命じゃないなんて、どう考えてもおかしいもの!”」

 エリナは文面の感嘆詞が伝わる程度の抑揚で、赤い文字を読み上げてく。

「“休み時間に少しだけですが、貴方の姿を拝見しました。あまりの麗しさに、思わず叫んでしまいそうになりました。本当に、やっとの思いで飲み込んだんです。貴方を見ると、私の心は止まってしまうのではないかというほどにキュンと鳴って、かと思えば信じられない早さでドキドキと高鳴るのです」

 読み上げるためにエリナは円の中心でグルグル回る。

「“私はこれまで、貴方より美しい存在を知らないどころか、思い描きもしませんでした。私の想像を軽く越えてしまっているのです。だけど貴方は、私の前に現われてくださった。貴方があまりにも尊くて、こうして同じ空気に触れられる幸せに、私は毎夜枕を涙で濡らし乾く間もありません。”」

「おう……」と過食気味で言葉にならない感想を漏らしつつも「確かにこれは、乙女の日記で恋文だ」定子がむずがゆい共感めいた深さで頷く。

 エリナは冷静に、

「ここから、線を書き潰しただけのぐちゃぐちゃっと解読不能な文字があって」と解説を挟みつつ先を続ける。

「“こんなん無理、絶対絶対無理! 渡せるわけ無い! あーーーもう!! いっそ、周りの空気になりたい。嘘嘘、それは幸せ過ぎて逆に脳バグる! それにしても、今日も廊下で見たの可愛かったなあ。歩く度に髪の毛とスカートがふわんとして。全部が可愛い。天使。ぎゅってしたい! 柔らかいんだろうなあ。ああ好き好き好き大好き好き好き“」

「ほう」と今度は明らかに過食かつ重たく飲み込む定子。エリナもそれに同意するように一度無言で頷いてから、

「しばらくこの羅列が続いて、それから、」

「えぇ、まだ続くの?」

「ええ。――“なんて愛らしい笑顔。私の。ねえ、それ人に向けちゃだめ。隣の子誰? 友達? まさか……。そんなの嫌。そこは私の場所のはず。”」

「まずい、想いが強すぎて良くない方向に」

「そのあとは“私がもっと美人だったら”とか“頭が良ければ”とかそういうネガティヴがひたすら続く感じね」

「情緒がめちゃくちゃだよ」

 もはや圧巻と言うべき魔法陣改め恋慕の到達点を二人並んで見下ろして、真顔で締め括る。

「ぐるっとまるっと全部?」

「全部」

「これは酷い」

「ええだいぶ」

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