これがピンチなのですか
なぜだか分からないが、体育館にも校庭にも、もくもくと夜霧のように亡霊が次から次へと沸いてくる。
ミイラのように骨と皮だけの亡霊は、姿ばかりは辛うじて人間だが、しかし顔はぼやけているし、全身青白く発光している。地を這い、あるいは、ふらふらとおぼつかない足取りでさまよっている。
「――っ」
気が遠くなる思いで、エリナは天を仰ぐ。危うく卒倒しそうである。そんなエリナの左右にしがみつく定子とカノン。為す術なく三人揃って震えている。
「うぅ、もうやだ……」
「このままご臨終なのかも」
「……囲まれる」
唯一平静を保っている小鞠が、辺りを素早く見回し呟く。
右方、体育館の扉は今にも破れられそうだし、正面から左方にかけての校庭は、亡霊で埋め尽くされている。バンバンと荒々しく扉を叩く音に誘われてか、そもそも標的がエリナたちなのか、判断はつかないが校庭の亡霊たちは段々とこちらへ迫ってきている。
「とにかく離れないと」
背後を振り返り、退路に亡霊の姿がないのを確認するなり、小鞠は急いですっかり固まってしまった三人を押しやる。
「みんなあっちに」
小鞠に誘導されるままに逃れて、たどり着いたのは体育館裏の剣道場。亡霊たちの青白い霧はまだ及んでいない。
「ここってほんとに安全?」
「そうも言ってられないわ」
ともかく亡霊から身を隠したい一心で、剣道場に逃げ込む一行。
入口の重たい扉を力一杯閉じ、内鍵を掛けて、エリナはようやく詰めていた息を吐き出す。体育館の扉を叩く音も遠く、今は聞こえない。辺りはこれまでが嘘のように静か。
束の間訪れる安堵に懐かしさすら覚える。
「お嬢、あそこ」
まだ呼吸も整わないうちに、今度はカノンが、再びエリナの袖を引く。
もうすっかり暗闇に目も慣れて、懐中電灯がなくても良く見える。白い人差し指が示すのは剣道場の中央。
「誰か倒れてる」
またしても天を仰ぎかけたエリナの隣で、
「あれって生きてる人?」
「定子、滅多なこと言わないで」
「だって幽霊しか見てないし」
「足はあるよ」
「冷静ね、小鞠」
「うん、幽霊の後だから」
「ああ二人して幽霊幽霊って! もうすっかり忘れてしまいたいのに」
「あっ、ご、ごめんエリナちゃん」
「それはさすがに無理だねお嬢。少なくとも三回は夢に見るね!」
「やめて、そんな宣言」
「いいえ、絶対見ます。というかもう呪われてるかもしれません」
怯えるエリナとなぜか自信満々の定子、あたふたと慌てる小鞠の隣で、カノンがマイペースに首を捻る。
「足があるなら、まだ生きてる……?」
そして、自らはっと顔を上げる。
「それって、つまり、助けないと!」
自らの内に眠る使命感を思い出したらしい。カノンは張り切って半歩前へ出る。
「……ちょっと、見てくる」
うん、とカノンに頷く一同。
よし、と応じつつ、更に半歩、そして半歩、とじりじりと進んでいく。
「……カノン」
「なにお嬢」
横たわったまま、ぴくりともしない人影から視線を逸らすことなく、カノンは応じる。
「カノン」
「だからなに」
ようやく振り返ったカノンに、エリナは自分の袖を差し示す。袖口はカノンに掴まれたまま、二人の距離は幾分離れたけれど、掴むその手はぐっと握られている。
「だってえ! お嬢一緒に見に来てよ!」
半泣きで白状したカノンは袖どころか、エリナの腕をがっしり胸に抱えて引っ張る。
「だ、大丈夫よ、ほらよく見て、あの子うちの制服着てる」「嘘だあ」「ほんと」「うそ」「とにかく見なさい」「しょうがないなあ、ええっ、ほんとだ」「ほら、だから何も問題ない」「なんだ、そっかー」「そうよ、まったく」
腕を組んできゃっきゃあははとじゃれて一歩も進んでいない二人をよそに、
「大丈夫だから、行くよお二人さん」
じと目の定子が当たり前の足取りで進む。
「早くしないと、さっきの亡霊きちゃうから」
困った様な笑みを二人に送りつつ、さらりと不吉な台詞で小鞠も続く。
エリナとカノンは真顔を見合わせて、慌て気味に追いかける。
「そこの方、大丈夫ですか」
距離を詰めつつ、エリナが声を掛けてみるも反応は返らない。しかし、伏せている横顔も判別出来るようになってきて、その肩が緩く上下しているのも見て取れる。呼吸音、というよりこれは、
「もしかして、寝ているの?」
覗き込むと、冷たい床に横たわっているというのに、表情は至って穏やか。前髪は目に掛からない長さだし、カラーもパーマも当てていない。化粧や服飾品もなく、制服もキチンとしている。見たところ、校則に馴染むごく一般的な生徒の一人といった印象。
こんな場所ですやすやと眠る、大胆不良学生にはとても見えない。
「剣道部の人かなあ?」
「見学行ったけど、いなかった気がする」
「起きて、ほら。ここ剣道場ですよ」
エリナが、横たわる身体を揺らすと、身じろぎするものの、幸せそうな寝顔は変わらない。反対にエリナの顔は渋くなる。
「どう一日を過ごしたら、剣道場での熟睡に行き着くの?」
「でも気持ちよさそう。羨ましいかも」
「それは、確かに」
すっかり忘れていたけれど、今が午前三時というあり得ないド深夜であることを思い出して、急な眠気に襲われる。
「訳のわからない一日を過ごしているのは、私たちも同じかしら」
皮肉で欠伸をかみ殺して、生徒の身体を更に揺する。
のんびりとカーテンを開くみたいに、不意に闇が薄らいだ。見上げると、窓から柔らかな月明かりが差している。どうやら雲の切れ目らしい。
いくら闇に目が慣れたといっても、月明かりと比べてしまえば見え方が全く違う。濃淡で描かれていた黒の世界に、おぼろげながら色が加わる。
「っ――」
エリナの呼吸が引き攣る。




