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冬に鳴く蝉  作者: 橋本洋一


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くるくると戻る

 青葉蝶次郎が嘆願書を吉瀬鍬之介に提出したのは、その日のうちのことである。

 彼には珍しく整った字と言葉を尽くした文章で書かれたもので、流石の鍬之介も受け取らざるを得なかった。


 しかし嘆願書の内容は鍬之介を十二分に悩ませるものであった。いや、鍬之介でなくとも、天道藩に住む武士であるならば頭を抱えたくなる。何故ならコドク町の住人に対する恩赦を訴えた文書であったからだ。


「青葉。お前、正気なのか?」


 鍬之介に宛がわれた、姫虫城の一室。

 嘆願書を一通り読み終えた鍬之介は、背筋を伸ばして正座をしている蝶次郎に問う。

 それほど、怠惰な彼が書いたとは思えない内容だった。


「正気です。いや、というより……ようやく正気になれたと言うべきでしょう」

「意味が分からん。何を考えているのだ?」


 蝶次郎は「吉瀬様はコドク町をどうお考えになっておりますか?」と質問に答えず、逆に訊ねた。

 無礼であったが鍬之介は気にせず「天道藩の恥だ」と言い切った。


「あそこに住む者は罪を犯すことに抵抗が無い。盗み犯し殺すのが日常だと聞き及んでいる」

「そう思っているのであれば、何故対策を打たないのですか? 恥は無くすべきでしょう」

「馬鹿を言うな。あんな肥溜めのような土地など関わりたくもない」


 鍬之介は語るのもごめんだと言わんばかりだった。そして「お前は肥溜めに手を入れられるのか?」と言った。


「どうなんだ? うん?」

「コドク町は肥溜めではありません」

「ならなんだ?」

「肥溜め以下の――地獄です」


 鍬之介は訝しげに「おぬし、コドク町に行ってきたのか?」と鋭い指摘をした。

 蝶次郎は「親しい子供たちが仔犬を連れて、七伏川で遊んでおりました」と話し出す。


「するとコドク町の住人――蟻村が子供に暴力を振るって、仔犬を奪いました」

「ふん。どうせその仔犬は殺されて毛皮か食肉にされたのだろう」

「いえ。生きながら食われました」


 想像もしなかったらしく、鍬之介は言葉を止めてしまった。

 蝶次郎は「もっと恐ろしいことは」と続けた。


「蟻村という男は、仔犬を食べることに躊躇も無く、仔犬を殺めたことに罪悪感を覚えませんでした」

「……わしの言ったとおりの住人ではないか」

「そこなんです。俺は――それが悲しくて仕方がないのです」


 蝶次郎は真っすぐ鍬之介の目を見つめた。

 鍬之介は目を逸らさない。


「道徳や倫理、人として当たり前のこと。それらを一切教えられなかった者は、悲しいほど残酷になるのだと、思い知らされました」

「善悪を知らない者は獣となりうる。それは自明のことだ」

「それで片づけて良いのでしょうか? もしももっと早く対策を打てば、タダシ――仔犬は死なずに済んだ。たまやとん坊も心に大きな傷を負わなかったのです」

「言いたいことは分かる。しかし今更コドク町を改善しても利益はないだろう」


 鍬之介は幼子に躾するような厳しくも優しい声で言う。


「元々、不毛な土地だ。加えて他藩との交通の要所でもない。開墾も整備も難しいコドク町をよりよくするには多くの銭と人員が必要だ」

「銭ならともかく、人員ならコドク町の住人を使えば――」

「馬鹿者。善悪も分からぬ者など使えまい」


 鍬之介は「それに勘定方のわしに出しても意味はないだろう」と嘆願書を指さした。

 蝶次郎は「ではどなたに出せばよろしいのですか?」と身を乗り出した。


「少なくとも、家老の誰かに渡さねば、殿の耳には入らん」

「……なるほど」

「しかし一家臣のおぬしでは身分が軽すぎて、家老と対面できないだろうな」


 蝶次郎は期待を込めた目で「では吉瀬様なら家老とお目通りできますよね」と問う。


「勘定方の上役ですから。家老も邪険にしませんよね?」

「確かにそうだが……」

「お願いいたします。この嘆願書を家老に渡してください」


 蝶次郎はそのまま頭を床にこすりつけるように下げた。

 鍬之介は、こいつ初めからそのつもりだったな、と遅らせながら気づいたが、後の祭りであった。


「なんでわしがそのようなことを……」

「吉瀬様がおっしゃったとおり、コドク町の住人に恩赦を出し、その土地を改善するのは、利益のないことでしょう。むしろ無益と思えます。しかし、無意味ではありません」


 蝶次郎の声が次第に熱を帯び始める。

 鍬之介は唾を飲み込んだ。


「コドク町という地獄を無くすことで治安も良くなります! 目に見えない犯罪も減るでしょう! そして先ほど述べた悲劇も起こりません!」

「…………」

「お願いいたします! この青葉蝶次郎、一生の願いです!」


 頭を下げ続ける蝶次郎。

 視線を外して天井を見上げる鍬之介。

 土下座する蝶次郎を見たくないと思う気持ちとコドク町を無視していたことが、鍬之介の中でつながってくる。


「……家老に渡すだけだぞ」


 鍬之介の苦渋のこもった声を聞いて、蝶次郎は顔を上げた。

 その嬉しそうな顔に鍬之介は顔をしかめる。


「ありがとうございます!」

「家老が聞き入れるとは思えぬがな。そこは保証せん」


 鍬之介が立ち上がり、部屋から出ようとする。懐には嘆願書があった。


「これから真面目に働け。この嘆願書を書けるのなら仕事など簡単だろう」

「はい! 心を入れ替えます!」

「まったく。これだから若者は……」


 愚痴を言いつつ障子を開けたところで「何がきっかけだ?」と鍬之介は問う。


「何がきっかけ、ですか……」

「その仔犬のためか? それとも子供たちのためか?」

「それもありますけど、強いて言えば……変な女のためですね」


 鍬之介は「変な女?」と眉をひそめて繰り返した。


「ええ。感情が無いはずのあいつが……泣いていたから」

「訳が分からん」

「そうですよね。俺だって分からないですもん」


 蝶次郎は困ったような顔で笑った。


「知り合って間もないあいつのために、何かしてやろうだなんて、昔の俺だったら考えもしなかったです」



◆◇◆◇



 吉瀬鍬之介が嘆願書を提出したのは、天道藩に六人いる家老の一人、光原蛍雪だった。

 光原家は代々、天道藩主の縁組の世話役として仕えていた。無論、それ以外にも重職を担っている。


 鍬之介が光原を選んだのは、彼が藩主の天道蛾虫に最も信頼されているからだった。口では保証しないと言っていたが、目の付け所は流石と言うべきだろう。


 だが、この場合においては、判断が誤っていたと言うべきだろう。

 他の家老に渡しておけば、蛾虫には届かなかったのに――


「殿。面白いものが上申されましたぞ」


 光原は頬のこけた、名前とは裏腹に陰気な雰囲気が漂う、三十ほどの男だった。目つきがいやらしいほど鋭く、口元に浮かべた笑みは作り物のようだった。


「蛍雪。その面白いものとはなんだ?」


 対する天道藩藩主の蛾虫は小太りである。奇しくも蝶次郎と同じ二十四の男だったが、顔色が悪く偏った食事と不健康な生活で、体格のわりに病人と見間違えるほどだった。


「コドク町の住人への恩赦です」

「それのどこが面白いのだ? そんなことより、早く鷹狩りに――」

「歎願者は、青葉蝶次郎です」


 青葉の苗字に言葉を止める蛾虫。

 そして醜い笑みを浮かべた。


「あの青葉か……」

「いかがなさいますか?」

「決まっているだろう。その青葉蝶次郎を呼び出せ」


 蛾虫は笑みが止まらないようだった。

 一家臣が藩主に会うことなど不可能だ。

 しかし蛾虫自ら蝶次郎に会いに行くのは、彼の矜持が許さなかった。


「ようやく、会えるな――蝶次郎」


 はっきり言ってしまえば、蛾虫はこの世全てを己の玩具だと思っている。

 死ぬ前の退屈しのぎ。そう認識している。

 だから蝶次郎に会おうが会えまいが、どうでも良かったのだが――


「さなぎのことを話せる、唯一の者よ」


 少しずつ、狂っていた歯車が、元に戻ろうとしていた。

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