間に合わなかった電車
錆びれたベンチに座って麻のポンチョを綻ばせ、顔面の呼吸孔に覆いをした男が無人駅に居た。
なぜ?顔を覆っているのか?それは此処が不毛に近いくらい広大な砂海の真ん中であるからだ。
遮る事のない乾燥した風が砂埃を舞い上がらせ男に吹き付けていた。
此処は駅であった・・・。
線路は砂に埋もれて気休めに水でも模したのだろうか?水色に剥げかけたペンキを塗らせ、ベンチは此処にある。線路も見当たらないし時刻表の立て看板も無い・・・。
此処が駅である事を示すものは、このベンチぐらいな物なのだが・・・ベンチがあるからと言って駅とは限らない。公園かもしれないし、もしくは他人の庭先かも?ホームセンターの売り場かもしれない。しかし、男は此処が駅であると疑わず静かに腰を据えて待つ。男の名は小林と言った。
喉の渇きに一つ唾を呑んで小林は空を見上げた・・・。
この海砂と同じくらい広大で新鮮な水をたたえるように青々と小林に一番近い空は、その重みに此方に水を滴り落ちそうな程であった。しかし、絶対届く事は無い・・・。
逃げ水の陽炎の親子が小林を一瞥し、風と共に過ぎ去っていく。きっと「あんなところに人間が居るよ」「こら、見ちゃダメ」そんな会話をしているのだろう・・・。小林は空想していた。
電車は、そう遅くはなかった。
いよいよ水分が足りなくなり脳の機能が低下し空の青さを飲めると錯覚した小林が掌をひらひら仰ぎ、空から水を飲もうとしてから3時間程して電車は汽笛を吹いた。電車なのに汽笛だった。
小林は傍らに置いてあったジュラルミンのアタッシュケースを持ち上げ、立ち上がった。
空をとらえたパンタグラフが小林の前で止まる時だけ小さな火花を見せた。乗客の影は見当たらない。運転手は乗り口ではなく運転席を小林の処で止めて首にかけた黄ばんだタオルで額の汗を拭いた。
「お客さん、これ、内回りだけどいい?」
小林は反応せず無言で運転手を見詰めた。
玉響、沈黙が耐えがたい太陽と共にあり、運転手は、その、小林の間に耐えられずにニコッと笑って見せた。運転手の気分を害すつもりはない・・・しかし、苦労の溜息をせざるを得なかった。
「次の外回りはいつだ?」
運転手はもう一度笑って答えた。
「次は、30年後になります」
小林は気が遠くなり、今の言葉に失いそうな意識を何とか歯を食いしばって留めた。
そうして、小林は乗車する事なく歩き始めた。
運転手は小林の行動が理解できず電車で小林の歩みを追いかけた。
「お客さんっ!この砂海から出るには、この電車でしか出られませんよ」
運転手は矢継ぎ早に乗車を勧める。
「良いじゃないですか?内回りだって!!」
小林は無視する様に歩く。
運転手は小林を見限って去り際に汽笛を鳴らした。妙な拘りで死に急ぐ小林への手向けの汽笛だ。そうして電車は過ぎ去った。小林はもう30年待とうと言うのか?
砂を踏みしめて歩いていく・・・。