人喰いの人魚に命を救われた女の子の話(男女)
『人魚の王子様』
村の大人たちが、東の森の湖には人喰いの人魚が棲んでいる、と話していた。
だから湖に近づいてはいけないよ、という言い付けに、友人たちは素直に頷いていた。
でもあたしは、大人たちが嘘をついていることを知っている。
暑い夏の日、水際に生える薬草に手を伸ばしたあたしは、ぬかるみに足を滑らせた。
全身を冷たい湖面に打ち付け、一瞬で水に飲まれた。肺の中身をぶちまけ、水底に沈みながら美しい気泡がのぼっていくのをぼんやりとした意識で見つめていた。
――ああ、ここがあたしのお墓。
諦めて藻掻くことさえ放棄したあたしの体を、力強い腕が抱え、水上へと押し上げた。
「っは、ぁ」
水を吐き、咳き込むあたしの背中を、優しい腕がずっと撫でてくれた。
ようやく満足に息ができるようになって、あたしは命の恩人の姿を見た。
それは、美しい男の人だった。肩にかかるほどのブロンドの髪が、彫りの深い顔に、がっしりとした首に張り付いている。長い睫毛の下から、陽光に照らされた湖の中みたいな、明るい青緑の双眸がいたわしげにあたしを見る。
「無事か」
あたしは茫然と彼を見て、
「死ぬかと思った」
と呟いた。
彼はあたしを岸へと押し上げ、そっけない声で「帰れ」と言った。
「あなたは?」
あたしが問うと、彼は涼しい一瞥を寄越して、湖の中に潜った。水面を、ぱちゃん、と音を立て、彼の瞳と揃いの色の鱗とひれを纏った尾が打った。
それが、あたしと人魚の出会いだった。
あたしは毎日湖に通うようになり、珍しい木の実や、美しい石を彼に捧げ、街で流行っている歌を彼に聞かせた。
ある日、彼はあたしに言った。
「私と会っていることを、人に話してはいけない」
あたしは首をかしげ、「どうして」と尋ねた。彼はわずかに逡巡し、暗い声で、
「きっと、お前が酷い目に遭うからだ」
と答えた。
あたしは水際にしゃがみ込み、彼の美しい顔をもっと近くで見ようと首を伸ばした。
「村ではあなたが、人喰いの人魚だと言われているよ」
囁くように言えば、彼は沈痛な面持ちで瞼を閉じた。
「人魚の肉を喰えば、不死になれると信じる者たちがいた」
彼の声は固く冷たく、ひと欠片の後悔に濡れていた。
「身を守るには、そうするしなかなった」
湖からの帰り道、あたしは賊に襲われた。
屈強な男たちが、あたしの体を押さえつけ、痛めつけて、「人魚をおびき出せ」と脅した。あたしは固く口を閉じ、酷くつらい一晩を耐え、明け方に解放された。
あたしは痛む足を引き摺り、水際に辿り着く前に倒れ、そのまま動かなくなった足を諦め、腕で這うように湖へと進んだ。
人魚がぼろぼろになったあたしを見て、燃えるような憎悪と、深く暗い悲しみをその表情に渦巻かせた。
あたしは、彼を安心させるように笑った。
「あたし、話さなかったよ」
人魚は瞠目し、美しい双眸に寂しい色をたたえた。
彼は汚れたあたしの頬に手を伸ばした。触れた指先が、澄んだ湖の香りを纏って、私の心を優しく落ち着けた。
人魚は囁くように言葉を紡ぐ。
「お前はもう、人というより、人魚に近い」
感覚もなく、ただ引き摺られるだけになったあたしの両足のことを言っているのだと思った。
悲しみを煮詰めた声音が言う。
「私のすることを、許さなくてもいいから」
彼はぐっと口を噛み締め、岸へと上体を乗り出すと、あたしの頬を両手で包み、覆い被さるようにあたしの唇に口付けた。
冷ややかな舌が私の唇を割って、血の味が混じった唾液が、あたしの腔内に注ぎ込まれた。
あたしがそれを飲み干すと、全身がかっと熱くなり、そして清流が流れ込んだかのように澄み渡っていくのを感じた。
導かれるように、あたしは湖の中へと滑り込んだ。あちこちが痛んでいたはずの体は軽くすこやかに生まれ変わり、動かなかったはずの足は、美しい尾ひれを靡かせて湖を泳いだ。
水中で、あたしは彼を抱き寄せた。おでこをくっつけて、微笑む。
「あなたといられて、嬉しくないはずがない」
もうあたしに、息継ぎは必要なかった。
Twitter( https://twitter.com/sunahara_midori )でちまちま書いています。
ブックマーク・評価・感想等いただけますと、とても嬉しいです。