Note:7 赤い湖と青い神官
翌朝、陽が少し昇り始めた頃。フェルムの村を出発した私たちは、とある場所へと向かっていた。それはどこかというと、昨日莫から聞いて少し興味を持っていた遠目でも分かるほどの、あの真っ赤な湖である。
昨晩の話……彼らの国の復興に助力するかどうかについては、まだ決めかねているところであった。しかし、気分転換と村の紹介を兼ねて足を運んでみてはどうか、というアスナの提案に従い、今に至っている。
その湖は村の北西部に位置しており、時間にしておよそ数分足らずで到着できるという。人の往来が多いためか道は粗方舗装され、昨日のように悪路を進む羽目にはならずに済んでいる。それもあってか、私のテンションは少しだけ上がっている。
まあ、本心とすれば……赤い湖、というものに対する興味が強いだけだが。
そんな私よりも意気揚々と、先陣を切ってリズミカルに歩くのはアスナだ。陽の元でこうして改めて確認しても、やはり美しいことには変わりない。とはいえ、着衣も貧相で装飾の類もないのだ。一般人からすれば、ただの田舎にいる美人、という評価に落ち着くだろう。
彼女と同じように、私も質素な衣服に身を包んでいるのだが、これがまたチクチクとしていて肌触りの悪いこと。如何に旧世界の技術が素晴らしいかということを、改めて実感するのであった。
その一方で、莫はこれから戦場にでも向かうかのような、物々しい装備で私たちの後を追っている。当然、用心するに越したことは無い……が、果たして村周辺の観光地に行くときにまで、大剣と甲冑が必要なのかどうか、甚だ疑問である。
重苦しい莫の息遣いが聞こえ、脱げよ、と思わず言いたくなり振り向こうとした瞬間、先頭を行くアスナの足が止まる。
どうやら、目的地に着いたようだ。振り返った彼女の笑顔が、何よりもそれを物語っている。
「さてと、ここがフェルム湖です。ご覧の通り、真っ赤でしょう?」
「お、おお……本当に赤い……が……」
赤いことは確かだが、こう言ってはなんだが、期待外れであった。異世界であるのだからてっきり、もっと赤くて鮮やかなトマトジュースばりのものを想定していたのだが……これはどう見ても、水が赤いのではない。
泥だ。沈殿した泥が赤い成分……恐らく、酸化鉄(Ⅲ)やその他の金属による発色だろう。その証拠に、湖岸の泥もまた赤褐色に染まっているのだ。
稀に、赤潮のようなプランクトンの大量発生により赤く染まる湖もあるようだが、それとは完全に異なっている。その場合、湖底など見えないほどに濁るものなのであるが、ここに関して言えば、水自体は完全に透明なのだ。……何とも、骨折り損とはこのことか。
「……あれ、えっと……?」
想定外のリアクションに、アスナも莫も困惑しているようだ。私としても、社交辞令的な反応を示せずに心苦しい。しかしこの湖があまりにも普通過ぎて、返答に窮してしまっている。
仕方がない、話題を変えるとするか。
「そ、そう言えば私、村長さんにお会いしていないと思うんですけど……それは、大丈夫なのですか? それが少し気になっておりまして」
昨晩、夜警に当たっていたスクロオの話によれば、朝にでも必ず顔を出しておいた方が良い、とのことであった。しかし今現在、太陽は随分と高いところにまで昇っている。この時間を朝と呼ぶ人間など、少数派だろう。
「莫さん、それ本当なの?」
「ああ、いやー……はっはっは、そうですとも! すっかり失念しておりました! ……よし、急いで戻りましょう!」
ジトリとした嫌な視線を浴びた莫は、我先にと村へ駆けだしてゆく。本来であればアスナの身辺を警護するはずの彼が真っ先に戻っていくその様を見て、私とアスナは顔を見合わせ、小さくため息を吐く。
「いつも、ああなのですか? 彼は」
「……えっと、そういうこともありますね。特に、最近になってその傾向が顕著になってきている気も致しますが」
……それは、世間一般で言うボケ、というやつなのではなかろうか。本当に、アスナは幸運に恵まれている。そんな人に護衛されて生き延びているのだから。
それはそれとして、私たちも彼の後を追わねば。彼を責め立てるのは、それが済んだ後でいい。まずは、村長の元へ無事に到着すること、だ。
草原を駆ける。昨日よりも少し暖かい風、そして柔らかな陽の光に包まれつつ、元来た道を引き返していった。
▽
「……それはそれは、大変でしたな……こんな村で良ければ、どうぞゆっくりしていきなさい」
「ありがとうございます、村長さん」
見た目、七十にもなろうかという齢の老人は、深々とお辞儀をした後、杖を握ったままゆっくりと椅子へ腰かける。彼の雰囲気は、どこか私の祖父を想起させるような、とても穏やかなものであった。
結局あの後、村へと戻ることが出来たのはすでに太陽がてっぺんに昇ろうという頃であった。先に到着していた莫が取り次ぎ、村長は快く面会に応じてくれたのだという。
……まあ、取り次いだというよりは、彼の到着した時間が村長の起床時刻だった、というだけの話なのである。決して、莫のファインプレーなどということではない。しかしまさか、昼前まで眠りこける人間がいるとは。しかも、この電気もない異世界で。
そのおかげで、こうして無事に面会も叶ったのであるから、結果オーライ、とでも言おうか。
窓から差し込む柔らかな光を背に受けつつ、村長は卓上にあるカップを手に取り一口啜る。そこから漂う香りから察するに、何かしらのハーブティーだろう。レモンのような爽やかな香りに、張り詰めていた緊張の糸が弛緩する感覚を覚えた。
そして軽く息を吐いた後、じっと私の目を見つめる。
「しかし、よくぞあの森を抜けてこられたものですな。其方のような女性が、しかも記憶を失くしていたとなれば、生き抜くにはさぞ過酷であったでしょうに」
「ええ、本当にギリギリのところでしたが……この莫さんに助けていただきました。そうでなければ、今頃は骸となり果てていたでしょう。莫さんには、感謝してもし切れません」
「そうか……」
記憶を失くしたという設定は、実は今朝思いついたものであった。本来ならば偽名を用いる予定であったが、莫は論外として、アスナも貴族出身であるが故に高貴な名前しか思いつかない様子であり、散々と苦慮した挙句に行きついた苦肉の策である。
この世界の常識を知らない、という事実にも繋がるため合理的ではあるのだが、少々話としては突飛すぎることが難点である。
ただ、この村長はその設定を特に違和感なく受け入れてくれたようだ。
ふーむ、と軽く唸り声を上げる。そして、困ったような目つきで私たちを見渡す。
「しかし、名前が無いというのは不便ですな。その期間はさておき、この村で過ごすのですから、何か呼び名を決めなければならぬ。……どうですかな、莫殿」
おいやめろ、そいつに振るな。
「え、良いのですか村長――――痛えっ!」
そしてお前も応じるんじゃねぇ!
嬉々として答えようとした莫の背中を、村長から見えないように小突く。それはアスナも同じだったようで、二人により同時に小突かれた彼は、想像以上の痛みに襲われたようだ。彼にしては珍しく、痛みで顔を歪ませている。
莫のリアクションが大きかったため、不審がられるのではないかと慌てて村長へと目を配る。しかし彼は、何が起きたのか把握していない様子であった。
「……いえ、村長がお決めになられてはいかがでしょうか……その、我々では力不足に在りまして……」
「そ、その通りです。我々すらも快く受け入れてくれた村長こそ、名付けとして相応しいかと!」
「そういうものかの? ……うむ、そうとなれば……」
やや目を丸くしていた村長も、やがて静かに目を瞑り、思案を始める。これで莫のセンスをも越える悲惨なものであった場合でも、受け入れざるを得ない。とんでもない博打であるが、別に本名が変わるわけではないのだ。そこは多少、甘んじよう。
そしてしばらく悩んだ後、彼はまたゆっくりと瞼を開く。
「うむ、気に入ればよいのだが……リナ・クロードというのは如何だろうか。赤の大地では重宝される黒土、それに神の名であるリン。それぞれより少し拝借したのだが」
「リナ……」
驚くほどにセンスの良い名前である。日本人としても通用しそうなほど、私にとっては全く違和感がない。これを拒否することなど、有り得ない。
「リナ! 素晴らしいですわ! 良かったですね、リ……えっと、リナ!」
「そ、そうですね! 素晴らしくて驚きました。ありがとうございます!」
「おお、そこまで喜んでくれて嬉しいよ。……それではリナ、記憶が戻るまではゆっくりとしていくといい。何かあれば、ワシの息子であるフマルに申し付けておくれ」
にっこりと微笑み、そのまま村長は椅子に深く腰掛けたまま、ゆっくりと目を閉じた。どうやら、昼寝をするようだ。先ほどまで寝ていたというのに、何とも自由な人である。
「……村長さん、よく寝る人なんですね……」
軽く笑いつつ、二人にようやく聞こえるくらいの音量で囁く。
「ええ、もうあの年齢ですから……静かに、戻りましょうか」
「そうだね。……しかし、ドロリンの方が良かった――――ぐふっ!?」
その刹那、私とアスナによる蹴りを前後から食らい、その場に蹲る。騒ぎ立てられぬ以上、声を上げずに悶絶する以外にない彼を見捨て、私たちは村長宅を後にする。
「さて、一先ずはこれで問題ない、と。あとは……そうね、またあの湖に行くのも何ですし、お昼にでもしましょうか」
「ああ、それは良いですね。……お昼?」
お昼、すなわち食事と聞いて、ふとある疑問が脳裏に過る。アスナと莫は、言ってしまえば流れ者である。そんな二人が、どうして一軒家を借りることができ、普通に生活が出来ているのだろう、と。
「あの、二人はどうやってこの村で生計を? 収入源となりそうなものは見当たりませんが……貴金属を売りさばいていた、とかですか?」
「いえいえ、そんなことではありませんよ。基本的に、森の獣退治や街道沿いでの用心棒をしています。その対価として、お野菜や仕留めた獲物をいただいているのです。……もちろん、それらは全て莫さんが行なっていますが」
なるほど……しかしだとすれば、私たちはかなり彼に対して失礼なのではないか。彼があの痛みを克服して戻ってきたら、少し労ってあげよう。
「とはいえ、莫さんは料理も計算もロクに出来ませんから、二人で一つの仕事をしている、と言えるでしょうね」
「あー……確かに出来なさそうですね。では、まず家に戻って――――」
「あ、あの」
家に戻ろうとしたところで、私たちは一人の女性に声を掛けられた。この村の中では、比較的良い濃紺色の衣装を身に纏っており、その頭には同じく濃紺色で不思議な文様の描かれた帽子を乗せている。
「すみませんが、あなた方が最近この村に住まわれたという方、でしょうか?」
不意を突く質問であったが、彼女の表情に悪意などは無く、むしろ淑やかで人の好い印象を受けた。それ故に、何も考えずに言葉を口に出してしまう。
「ええ、そうですが……」
「それは良かった。私はアナと申します。ミリモスティーム教会より派遣されております神官です。以後、お見知りおきを」
「ミリモスティーム教会……?」
初めて耳にする単語に、思わず聞き返してしまう。それに対し、アナは怪訝な顔つきで私を凝視する。
「おや、ご存じありませんか? まさか、あなた……」
不穏な空気を感じ取り、遮るようにアスナが前に躍り出る。
「ああすみません、この方はどうも記憶喪失にあったようでして。名前も忘れていたほどでしたので、つい先ほど、村長に名前をいただいたばかりなのです。ですので、教会の名前も恐らくは……」
「なるほど……それは何とも、気の毒なことです。……ああ、そうだ! それでしたら、せっかくですので教会にいらしてみてはいかがでしょうか。何かの切っ掛けになるかも知れませんし……どうでしょう、お昼もご用意いたしますが」
悪い話ではないし、教会というか、その宗教について知るいい機会でもある。アスナは苦々しい表情を浮かべているものの、私の興味深げな様子を見て観念したのか、はぁ、と小さくため息を吐き、頷く。
「……良かったです。それでは、こちらへどうぞ」
そしてアナに案内されるがままに、私たちはゆっくりと歩を進める。大きな煉瓦造りの施設のある、妙な臭いの漂う方向へと。