Note:6 暗雲
同日、グレイスティーム王国、王宮――――
朧月による光と、手元のランタンに照らされたプラスグレル元帥は、大量の書類を前に頭を抱えていた。目下、彼を悩ませる一番の要因は、国王により命じられた件である。
『適当に、しかし着実に報告できる者をフェルムへと派遣せよ』
その字面だけに鑑みれば、誰でも良いから派遣して様子を見てくれ、という意味だと受け取るだろう。しかし、実のところそうではない。
星の『兆し』が出現したということは、つまり今は亡き王、ネイルト・グレイスティームを……いや、この国全体の栄華を支えた女神の再臨を予感させるものなのである。つまり、衰退の垣間見えている本邦の現状においては、まさに救世主となり得る存在だと言えよう。
それ故に、現王であるレノ・グレイスティームは気丈に振舞っているものの、どこか期待に胸を膨らませている気配を漂わせていた。そんなものに対し、本当に適当な人材を派遣する訳にもいかないのである。
そんなことをすれば、彼への信頼は地に堕ち、やがてこの地位を追いやられることだろう。
とはいえ、彼の右腕ないしそれに準ずる者を、フェルムという僻地へ派遣するほどの余力は、この国にはないのだ。
現在、グレイスティーム王国は北方にあるシベレスタット平原にて、少数民族であるニムス族たちとの小競り合いを続けている。
本来であれば苦戦するほどの手合ではないのだが、このところ降り続いた雪と氷のせいで作戦が進まず、膠着状態が続いてしまっていた。そのため、元帥の信頼のおける者など、ほとんどが出払っている状態なのである。
「はあ……ヴィール公国はほぼ手中に収めているとはいえ、統治しているのがあの阿呆だしな……南部のフルベストラント共和国の動きも怪しい……ああ、猫の手も借りたいとはこのことか」
ぶつぶつと、もはや独り言の域を超えている言葉を、ため息交じりに口にする。二人の傍仕えが見つめているというのにも関わらず、こうして口にしてしまうほどの疲労と重圧が、彼一人の背中に圧し掛かっているのだ。
その只ならぬ様子を、容姿の似た二人の女性の傍仕えは不安そうに見つめている。普段は決して見せない彼の狼狽……それは、あまりにも衝撃的であったのだ。
「ああ、もう!」
ダン、と軽く机を叩く。
自らを鼓舞するつもりで行なった行為であったが、その結果として積まれた書類が雪崩を起こし、床は大量の紙により埋め尽くされることとなった。
呆然とする元帥を尻目に、傍仕えたちはせっせと書類をかき集めていく。余計な仕事を増やしてしまうこととなり、彼はまた頭を抱えてしまう。
「元帥、書類はこちらへ置いておきますので……どうか、少しご自愛ください。このところ、お顔の色が優れませんよ?」
紙を一束にまとめ直した傍仕えの一人が、心配そうな目で元帥を見つめる。
「そう、かもな……いやしかし、こればかりは早く決めねばならないのだ。国王陛下の御意思なのだからな」
「し、しかし……いえ、出過ぎた発言でございました。どうぞお忘れください」
「……いや、確かに言う通りかも知れん。そうだな、少し散歩にでも出るとするよ。ありがとう、フェノ」
そう言うと重い腰をあげ、ゆっくりとした歩調で扉へと向かう。彼の急な行動に驚き、二人の傍仕えは慌てて駆け寄る。
「お、お待ちください! それならば、私もお供いたします!」
「そうです、夜は危険を伴いますし、そのようなお姿では……」
二人の憂いを帯びた瞳を、元帥はじっと見つめ返す。そして一つ、フッと軽い笑みを浮かべ、二人の頭を軽く撫でる。
「なに、心配は要らんよ。少しだけ夜風に当たってくるだけさ。それに……丸腰、という訳でもないしな」
そう言うと、軽く腰の辺りを叩く。重い金属音と共に、ランタンの光を受けた黄金色の鋼がキラリと輝きを見せた。その言葉を受け、渋々といった表情で二人は退く。
「良い子だ。それじゃ、行ってくる。留守を頼むぞ」
豪奢な扉を開け、彼は静かに廊下へと出ていった。しかしその足取りは、どこか先ほどよりも軽いものであるかのような印象であった。
重い扉が閉まり、彼の足音が聞こえなくなったことを確認した後、しばらくして二人の傍仕えは顔を見合わせる。
「……フェノ、やっぱり私は心配なんだけど……」
「そりゃ、私もそう思うけどさ……陛下の依頼じゃ、しょうがないよ。私たちは、私たちのやることをしよう。また戻って来た元帥が仕事をしやすいように、綺麗にしておこう、クリノ」
「……そう、かな……そうよね……」
「……?」
歯切れの悪い返答に首を傾げつつも、フェノは気を取り直し部屋の清掃を再開し始める。呑気に鼻歌交じりで掃除をするフェノを見つめるクリノの手には、一編の資料が握られていた。
先ほど雪崩た際に、偶然目にしてしまった、分厚い資料。その表紙には、こう記載されていた。
『魔法が与える世界への影響と、その危険性について』
▽
普段は白く美しい廊下も、夜の帳が降りた今ではジランドールに灯る火の光を受け、夕刻の如き橙色に染まっている。その中で、男の影が徐々に伸びては縮み、縮んでは伸び、を繰り返している。
「……朧月夜、か」
中庭を眼前にして足を止めた元帥は、ふと空を見上げる。春の霞により、その姿を蒙昧にした月……その影響か、どこかいつもの王宮であるというのに、異質な雰囲気を醸し出している。
「思えば、彼女が現れたのもこのような時期、だったか……」
しばらくその場で感傷に浸りつつ外を眺めていると、廊下の先から男の声が響き渡ってきた。甲高く、こんな月夜にはまるで相応しくない無粋なる音を発するのは、兵と呼ぶにはあまりにも身が細く、しかし態度だけは大きい男であった。
「おや、そのお姿は……やはり叔父上殿! このような夜更けにお散歩でございますか? いやー、お元気そうでなによりですよ!」
「……オザグレル少将か。貴殿も、相変わらず元気そうだな」
静謐な夜を邪魔され、やや皮肉交じりに返す。しかし彼は、それに全く気付いていない様子で、煩しく無駄話を始める。
「元気ですとも! このところまるで出番のないものですから、日々鍛えるしかございませんで! そろそろ私奴も、何か仕事をいただきたいものなのですが……」
「……」
胡麻をすりながら上目遣いをするオザグレル少将に、元帥は思わず閉口してしまう。決して彼は、権力者へと謙る態度が気に食わないという訳でも、うるさい奴は嫌いだ、ということでもない。少将には、そうされて然るべき背景があるのだ。
オザグレル少将は、元帥の剣の師匠であるトラピジル老師の孫に当たる。それ故に彼とは小さい頃からの知り合いであり、血の繋がりはないのだが、少将は元帥を叔父上、と呼び慕っていた。
当初は、師匠の孫ということもあり多少は目をかけていたのだが、傲岸不遜な態度、失敗の責任を他人に押し付けようとする姿勢、切り殺した敵に唾をかける悪辣さ……あまりにも目に余る行動を取るために、戦地へと送ることは控えさせ、兵站の管理を任せるようにしていた。
無論、それは少将の行なうべき職務ではないが、彼は喜んでその役目を買って出た。それ故に、元帥はホッと胸を撫でおろしたのである。
しかし、それは甘い考えであった。密告によりその管理すらもまともに行えないことが判明し、その処遇についてどうすべきか、大将たちと協議を重ねていたところであったのだ。
当の本人はそれを知ってか知らずか、こうしてぬけぬけと顔を出しては胡麻をするのである。
簡単に彼を一言で表現するとすれば、『縁故入職しただけの、よく舌の回る無能』である。
「私奴にもですね、向いている仕事と向いていない仕事とがあるのです。今のような、数を数えて勘定をして……などという仕事は、全く向いておりませんね! あのようなもの、平民上がりの無能に任せればよいのです!」
こうして、何かと市民を嘲り、地味な仕事を嫌がる典型的な愚か者である。しかしプラスグレル元帥の立場からすれば、自らの師匠から預かった身であるが故にあまり彼を邪険にすることはできない。
彼の無粋さにほとほと呆れ返っていたその時、彼の脳内に妙案が浮かんだ。少将が出来るような簡単な仕事を与え、かつ誰からも批判されない方法が、一つだけ存在するのだ。
上目遣いを続ける少将に対し、優しく微笑む。
「オザグレル少将、一つ、大事な任を与えたいのだが……どうだろうか」
「だ、大事な……? はい、無論ですとも!」
目を輝かせ、小躍りする少将を憐れむような瞳で彼は見つめる。
「……フェルムへ向かえ。そして……そうだな、異邦人と思わしき人物を発見した暁には、すぐに連絡をするように」
「……は? フェ、フェルム、と言いますと……」
「知らぬか? ダルベポーエ大森林の付近にある、治癒ポーションの製造を生業とする村だ。魔導機関は戦闘に使用中である故、馬で向かうように」
「は、はは……ははは……」
へなへな、と力なく崩れ落ち、俯く。先ほどまであれほど騒がしかった廊下も、いつしか静謐さを取り戻していた。何せ、その原因はこの男にあるのだから。
「それは……左遷、というやつ、ですかな? 私奴には、もう用はない、と……」
今にも涙を零してしまいそうな少将を憐れみ、軽く肩を叩く。そして、励ましの言葉ではなく、ありのままの事実を伝える。
「違う。これは、極秘の任務である。陛下より給われた、重大なものだ……その意味は、分かるな?」
「へ、陛下より……!?」
驚き、目を剥く少将に対し黙って頷いて見せる。
すると、彼はみるみるうちに血色を取り戻し、目にも生気が宿っていく。そして、跳ね上がるように起き上がり、見たことも無いほどの綺麗な姿勢で敬礼をした。
「承服いたしました! このオザグレル、命に変えましても、その任を全う致しますぞ!」
「……頼もしく思うよ、少将。偵察とも言える任務であるから、少人数……そうだな、二、三人で向かうように。そして、何かあればすぐに報告するよう」
「はっ!!」
そう言うが早いか、少将は駆け足で廊下を去っていく。徐々に小さくなっていく彼の背中を、元帥は複雑な表情で見つめていた。
「……はっはっは。なるほど、上手いですな」
「っ!」
刹那、元帥は身を翻し、背後に立つ不審者の喉元へと刃を突き付ける。その一連の動作は、時間にしてものの一秒もかかっていない……まさに、疾風の如き挙動である。
「……ああ、これはこれは、メルファラン宰相……不用意に背後へ立たぬように。思わずその首、刎ねてしまうところでございましたぞ」
「ふっ……どうも失礼を。しかし、さすがはプラスグレル元帥、と言いましょうか。その身のこなし、私の目では到底追いきれませんでしたよ。伊達に雷神、と謳われておりませぬな」
その剣先を突き付けられてもなお、宰相は微動だにせず苦笑する。まるで物怖じすることのない彼の態度に感心しつつ、即座に剣を鞘へ戻す。
「……それで? まさか、そんなことを言いに来られたのではないのでしょう。もしくは、また『兆し』でも見つけられたのですか?」
険しい表情は変えず、剣の如き鋭い視線を宰相へと向ける。その迫力は、仕舞われたはずの剣がまだ向けられているようであった。
「いえいえ、そちらの首尾は如何なものかと思いましてな。……しかし、あの者を選ばれるとは思いもしませんでしたよ。これで上手いこと厄介払いが出来た、と言うことでしょうか?」
「……適材適所。それ以外に答えようのないことです。後は、彼が任務を全うするかどうか……それだけですよ」
「……ええ、それは私とて同意です。しかし安心しましたよ、よもや元帥ともあろう者が、その感情のみで陛下直々の任務を投げてしまったのではないか、とね……」
殺意にも似た波動が、お互いの空気とぶつかり合い気流を生み出す。それに触発されたように、一陣の風が二人の間を通り抜ける。
両者の頬を風が撫でた、その瞬間。二人は堪えきれず、小さく噴き出し笑い始めた。
「ククク……全く、悪者にしてくれるじゃないか。目指すべくは、同じだというのに」
「ははは、全くですな。方法は違えど、陛下の御身を守る……それだけですからな」
そして一頻り笑った後、二人は無言のまま顔を見合わせる。
「……では、失礼します。まだ雑務が残っております故」
「ええ。それでは、良い夜を」
不敵な笑みを浮かべたまま、プラスグレル元帥はその場を後にする。それと同様にメルファラン宰相も、彼の去る姿をまた同様に口角を上げながら見送る。
また一つ、穏やかな風が吹く。木立のざわめきによりかき消されてしまいそうなほど小さく、しかしはっきりとした口調で、彼はポツリと独り言のように呟く。
「エグアレン、そこにおるか」
「……無論」
廊下の柱の影より、小柄な男の影が姿を現す。全身は布により覆われているが、その目だけは月に照らし出されている。血に飢えた獣のような、凶悪な目つきである。
メルファラン宰相は、彼の存在を初めから知っていたように……いや、ここにいるよう命じていたかのように、その存在を疑うことなく一切目を合わせずに命じる。
「……オザグレル少将の後を追いたまえ。そして、逐一報告するように。万が一の場合は……君の判断に一存しよう。その場で始末しても構わん」
「仰せのままに」
エグアレンと呼ばれた男は小さく返答し、足早にその場を去っていく。その様子を最後まで見届けることなく、宰相はふと、空を見上げた。
空に浮かぶ月は、群雲に覆われ光を失っている。もう少しでも風が吹けば、綺麗に輝くだろう。しかしそれを待つことなく彼は小さくため息を吐き、踵を返す。
その様子はまるで、これ以上待ったところで輝く月を見ることが出来ないと、分かっているかのようであった。