Note:3 私が招かれた理由
フェルムへと向かう道中、平原を通り抜ける風が頬を撫でる。ザアッという葉の擦れる音、それに呼応するように羽搏く小鳥たち。先ほど森林にいた時とは異なり、花の香り漂う優しい風だ。ほんの少し前までは、こんな穏やかな景色を見ることになろうとは思いも至らなかった。
コンクリートジャングルを行き交う人たちの、顔、顔、顔……この世のストレスを一身に受けたような辛気臭い表情など、今やどこ吹く風だ。私は今、非常に爽快な気分に浸っている。
人間は、鈍色の塊に囲まれると気が狂ってしまうのだと思う。いや、動物園にて飼育されている哀れな獣たちも同様だ。こうして広大な自然と触れ合うことにより、真に生を実感できると言えよう。
……とはいえ、食い殺されるかもしれない、という恐怖を味わうのはもう勘弁願いたいものである。あれも生への実感だ、と宣う輩がいるとすれば、私の目の前まで連れてきてほしい。ぜひとも、私と同じ目に遭っていただきたいものである。
「なぁ、凛はどうしてあんなところに? そろそろ落ち着いたころだと思うんだけど、聞かせてもらえるかい?」
先導して歩く莫が、顔だけこちらへと向ける。それは当然の疑問であり、むしろよくここまで聞かずにいたものだ、とむしろ感心さえするくらいだ。
彼の信用を得るには、いい機会だ。躊躇する必要性はないと考え、私は素直にその質問へ応じる。
「……そうですね、単刀直入に言えば……転移した、と言いましょうか。それも、私の意に適うものではなく、あくまでも偶発的に」
「……は?」
眉を顰め、歩みを止める。私の言葉は、彼にとって想像だにしない解答だったと見受けられる。だが、そう露骨に反応されたところで事実は変わらない。
「私は、多分この世界の住人ではありません。まだこの世界のことを完全に把握してはいませんが……少なくとも、私の暮らしていた国ではないと断言できます」
あれほどにまで巨大化した狼、それに手つかずの自然。見たことも無い植物に、極めつけはあのポーション。どう足掻いたところで、この世界が私のいた場所であると断言できる根拠は皆無に等しい。
「……なるほど、そうか……やはり君が……」
「……? 何か、言いましたか?」
「ああ、いや。……しかし、それにしては随分と落ち着いているように見えるが。異世界ということは、つまり誰も君のことを知らない世界だ、ということだよ? それなのにどうして君は、そんなにも平静でいられるんだい?」
彼のその質問も、実のところ予想の範疇である。何故なら自分でも驚くほど、この世界に順応しているからだ。生命を左右するほどの危機的状況にあったため、とも言えようが、それ以外にも理由はある。
「確かに最初は驚きましたけど……何ていうか、不満があったんです。仕事についてだけじゃなく、私の人生そのものに。だからなのかな、こうして異世界に送られたのは。やり直す機会を与えてくれたのかなって、そう思ったら何か……落ち着いちゃって。あはは」
あのまま扉を開けずに通り過ぎていたら、まだまだ続く灰色の世界を進まざるを得なかっただろう。そんな私を憐れんで、神様がこの機会を与えてくれたのかもしれない。大して信仰心はなかったのだが、もし本当に神様が存在するのであれば、感謝したいと思う。
「ははぁ、なるほどね。しかし君のように若い娘が、どうしてそこまで人生に絶望したんだか。こう言っちゃ悪いが、よほど酷い世界だったんだろうね……まったく、神様ってやつは本当に気まぐれだよね」
苦笑し、莫はまた前へと向き直る。どうやら、私の回答に満足がいったようだ。
しかし、若い娘、か。確かに彼に比べれば若いかもしれないが、そう指摘されるほど若くはない。研究で徹夜することも多かったこともあり、肌つやも視力も、同年代のそれよりも遥かに悪い。それ故に、実年齢よりも老けて見えると散々言われていたのだが……。
ん? 視力?
「あれ、私……眼鏡してない……」
いつも私に寄り添ってくれた、黒縁の眼鏡が見当たらない。ポケットなどにしまうことはないし、無論、頭部に置き去りにされていることもない。私はまだ、そこまでボケるほどの年齢ではない。
いや、冷静になって考えてみると……無くなったのは眼鏡だけではないようだ。ここに転移される直前まで、私の肩に掛けられていた通勤用のバッグ……それが、見当たらないのだ。
「……ね、ねえ、莫さん……確認したいのだけど、私のバッグ、知らない……? 黒っぽい色のショルダーバッグなんだけど……」
「バッグ?」
再度、怪訝な表情で彼は振り返る。その表情で私は察した。もう、手遅れなのだろうと。バッグに入っていた、財布、スマートフォン、それに、恐らくだが眼鏡も……全て、消えてしまったのだと。
言うまでもなく、スマートフォンや財布がこの世界にあったとしても役に立たない。しかし眼鏡は、私にとって必要だった。あれがなければ、ロクに前も見えない……はず、だったのだが……。
見えて、いる。莫の顔、いやその皺の一つ一つに至るまで、全てが見えている。
まさか、あのポーションが私の視力まで矯正してしまったのだろうか。視力まで回復するとなれば、正しく魔法と言えようが……いやまて、冷静になるんだ、私。
思い返せば、あの森でも私は眼鏡をしていなかった。それにもかかわらず、深緑の木々、それにあの恐ろしい獣の姿……それらを何の苦も無く見ることが出来ていた。それは以前までの私では、到底考えられないことであった。
それと、ずっと気になっていたことがある。私の両手には、大学時代に薬品を浴びたことでできた、火傷の痕があった。現代医療では到底隠すことの出来ないものであったはずなのだが、それがなんと、見当たらないのである。
ポーションによって治ったと考えるのには、少々無理がある。あれは医療でどうこう出来るような代物ではないのだから。それこそ、もう一度皮膚を剥がして、綺麗に接着させなければ不可能である。
で、あれば、だ。一つ、私にとって非常に喜ばしい仮説が打ち立てられる。推測の域を出ないが、先ほどの莫の発言もあり、それが真に近いと感じざるを得ない。
そう、私は若返ったのだ。少なくとも、大学以前の私に。
契機は、恐らくあの扉をくぐったことだろう。視力の回復、それに持ち物の消失が生じたのは、あのタイミングでしか有り得ないのだ。
以前に観たアニメーションでも、主人公たちは大抵、転移、もしくは転生時に若返っている。あれらが参考になるとは思えないものの、こうして彼らと同じ境遇に立たされた私としては、もはや考え得ることはそれしかない。
だとすれば、顔を確認しないことには始まらない。若い頃の、あの肌に戻っているのだろうか。徹夜しても疲れの見えない、血色の良い肌に。
「莫さん、鏡とか持ってますか? ちょっと確認したいことがあって」
「……鏡って、姿を映す、あれか? あんなものを持って森に出かける奴がいると思うかい?」
「あー……」
冷静に諭され、ふぅ、と息を吐く。……どうやら、私はまだ混乱しているようだ。そんなことも落ち着いて考えられないようでは、この先が思いやられる。
この件は、一旦保留としておこう。村に着いた時にでも、ゆっくりと確認すればよいことだ。どのみち、急ぐような旅でもあるまい。
「それはそうと、なんだけどね」
急に目つきを変え、私のことを見つめだす。見つめるといっても、何らかの情念があるような、そういうものではない。観察、と表現する方が正しいだろう。
「君の世界では、その名前は一般的なのかい?」
「え? そう、ですね。多いかどうかは分かりませんが、そこまで奇妙な名前でもないかな、とは思いますけど……それが、何か?」
突然、妙なことを聞くものだ。異世界からの来訪者に対する質問としては、あまりにも的を外している。名前の意味ならともかく、それが多いかどうかなんて私でも気にしたことはなかった。しかし凛という名の女性は、近年ではよく見かける。それ故に、別段変わっていることなど無いはずだが。
「そうなのか……うーん、そうか。しかし、ちょっと困ったな……」
古いモーターエンジンのような、低い唸り声が響く。
「えっと、何が問題なの? 私の名前、こっちの世界だと変な意味になる、とか?」
「ああ、いや。そういうことじゃないんだ。そうじゃないんだけど……同じなんだよ」
「同じ?」
「そう、この国で崇められている、神様の名前と同じなんだ」
神様、だって?
まさかそれは、私をこの世界へと導いた神様のことだろうか。そうだとすれば、なかなかドラマティックだ。偶然にも同じ名前の人間が、人生に苦悩しているところを導く……素晴らしい神様ではないか。
「それって、素晴らしいことじゃない。それがどうして困ったことになるの?」
「確かに素晴らしいことだし、同じ名前を付けたがる人もいるけど……それが異世界から来た人間だったとすれば、話は変わってくるんだ。なんせ、その神様は君と同じく、異世界から転移してきたのだからね」
「……神様が、転移してきた?」
その表現は、明らかにおかしい。神様というものは、基本的にどの世界にでも行き来が出来る存在である。その異世界間での移動を、転移と呼ぶには違和感がある。降臨とか、顕現とかの方がしっくりくる。単純な言い間違え……ではなさそうだ。
「そう……それでその神様とやらはこの国を支配し、そして……僕の国も滅ぼしたんだ。異世界から持ち込んだ魔法を駆使して、完膚なきまでに、ね」