Note:19 逃げ延びた先に
どれほど、走り続けただろうか。もう脚は限界を迎え、今にも倒れてしまいそうである。
しかし、この脚を止める訳にはいかない。何せ、どこまで離れれば安全、という保証がないのだ。そうであれば当然、可能な限り離れるに越したことは無い。
恐ろしいことに、未だにあの化物の叫び声は僅かながらも聞こえている。まあ、全身の筋肉が膨張したのだから、呼気量も多くなり声が大きくなる、ということは自明の理であるが……異常であることに違いはない。
あれは、本当に何なのだろうか。そもそもあれは、人間なのか。
元々は言葉も通じる人間であった、ということは否定しない。むしろ、あのオザグレル少将やローブの男よりも、人間味が溢れていたぐらいである。彼が人間でないとすれば、人とは一体何か、という議論にまで進展させねばならなくなる。さすがにそれは不毛だろう。
幾ら考えようとも、この疲弊した中で答えが出るはずもなく……やがて完全にその歩みは止まった。
なお、私が自発的に止めたというのではなく、莫が手を引いていたアスナの足が縺れ、そのまま前方へと転倒したのだ。こうなってしまえば、進行を止めずにいられない。
「姫様! 大丈夫でございますか?」
「はあ……はあ……も、もう、限界ですわ……」
綺麗に整えられていた金色の毛髪は乱れ、その表情を歪ませている。彼女がここまで走ったのは、恐らく国を追われたあの日以来なのだろうから、こうなって然るべき、と言えようか。
丁度いい、私も限界であったのだ。一緒に倒れ込んでしまおう。
「ああ……しんどい……」
「リナまで……ま、仕方がないか。ちょっと辺りの様子を見てくるから、一旦休憩してくれ」
これ見よがしに倒れ込んだ私に渋い顔を向けた莫であったが、諦めたようにそう言うと、まだまだ余裕綽々、といった様子でどこかへと走ってゆく。相変わらず、尋常ではない体力だ。私も少しは彼を見習わねば。
「ふう……」
ようやく一息つくことが叶い、体を休めつつも周囲の様子を窺う。ここは小高い丘の上、だろうか。遠くの方に、あの赤い湖の端がチラリと見えている。無我夢中だったとはいえ、随分と遠くまで走ってきたようである。
しかし、この景色はどこか見覚えがある。見渡す限りの草原であり、既視感を覚えることなど有り得そうも無いのだが……何故だろうか。
少し起き上がり、このまま走り続ける予定であったその先へと視線を移す。そこに広がっていたのは、とんでもなく深い緑色を呈した森林であった。あれは……そうか、そういうことか。
道理で見覚えのあるはずである。ここは、そう……私が初めてポーションを見て、しかも飲んだ、あの丘だ。
そして、あの森は……私と莫が初めて出会った場所である。私にとっては死にかけた経験のある地であり、二度と入るまいと心に決めていたのだが……まさか、またあそこに戻るのではなかろうな。
未だに、私の鼻腔にはあの森の不快な臭いがこびり付いているのだ。出来ることならば、あそこには入りたくない。幾ら安全だろうと、そんな言葉を信用することなど出来るはずもない。
そんな私の様子に疑問を抱いたようで、アスナもその身を起こし私の目をじっと見つめる。
「リナ、どうしたの?」
「あ……アスナ。えっと、その……ごめん。ちょっと混乱してて」
「リナさんでも混乱することがあるのですね……何と言いましょうか、ちょっと意外です」
「ちょっと、それどういう意味?」
「ふふ、すみません」
一体、私を何だと思っているのだろうか。私は混乱もするし、泣き笑いもするごく普通のアラサー女子なのだが……まあ、いいか。今は少しでも彼女に笑顔が戻れば、それでいい。
あんなものを、二度と彼女には見せてはいけない。ガラス細工のように繊細な年頃である彼女には、余計な負担など与えてはならない。そういったものを見せないように、私たち大人は尽力すべきなのである。
そんな他愛のない会話を交わしていると、莫が笑みを浮かべて戻って来た。その表情から、周囲に危険が無かったことが窺える。
「待たせてしまったね、どうやらこの辺は安全なようだよ。どうかな、疲れの方は。姫様も、お体の方はいかがでしょうか」
「ああ、莫さん……ええ、もう大丈夫ですけど、それよりも気になることがあるの。宜しいかしら?」
「うん、私も聞きたい。良いよね、莫さん」
「……ええ、何なりと」
多分、彼は気付いているのだろう。アスナ、それに私が彼に聞きたいこと……そんなもの、考えるまでも無い。あの化物について、だ。
彼は、あれを知っているような素振りを見せていたのだ。そうであれば、こうして聞くこともまた当然なのである。
何しろ、私たちはあの化物のせいで全滅しかけたのだから。
「莫さん、あなたはあの化物について何か知っていますよね? 隠さないで、正直に話してくれると助かります」
「……そうだね、その通り。何、隠すつもりはないよ。こうなってしまえば、もう知らない方が危険だからね……さて、どこから話そうか」
やはり、知っているようだ。しかも、それなりに長いエピソードを有していることが、その話ぶりから分かる。一から聞きたいところではあるが、まずは簡潔に、あれがどういうものなのかを知らねばなるまい。
すると、身を乗り出した私の横から、不意に女性の声が響いた。
「それ、私も気になりますね。聞いても宜しいですか?」
「っ!?」
完全に油断していた。まさかこんな至近距離になるまで……しかも、その女性自らが言葉を発して、ようやくその存在に気付くとは……何ともお粗末なものである。逆に言えば、それほどまでに疲弊していたとも言える。あの莫でも、やはりあの光景は耐えがたいものであったに違いない。
本来ならば武器を構えるなりするところであるが、私たちはその警戒をすぐに解いた。何故ならば、その女性には見覚えがあったのである。
いや、見覚えがあるどころではない……先ほど、あの村の広場で何度も言葉を交わしたのだから。
「アナさん……どうしてこんなところに?」
そう、ミリモスティーム教会の神官である、アナだ。どこかであの濃紺色の帽子を落としてしまったようで、その長めの銀髪が露わとなっているが、間違いない。あのちょっと間の抜けた、淑やかな女性だ。
私の問いかけに対し、アナは待ってました、と言わんばかりに喋り始める。その姿には、以前のような淑やかさは欠片も無い。
「もう、聞いてくださいよ! 同僚たちを逃がすのに頑張っていたのに、私一人が置いてけぼりにされちゃって……教会の方へと逃げようとしても、あの化物が道を塞いじゃったものだから、こうしてここまで逃げてきたの! 偶然、この男の人を見つけたお陰で、あなたたちに出会えたの! ほんと、助かったわ!」
車の渋滞に巻き込まれ遅刻ギリギリになってしまった会社員ばりに、緊張感のない話しぶりである。彼女もまだ気が動転している、ということで良いのだろうか。そうであれば、この異様なテンションにも頷ける。
「そ、そうだったのですか……大変でしたね」
「ええ、もうそれは大変で……あっ、すみません。その……取り乱しまして」
「いえ、その気持ちは分かりますので。神官たちにも犠牲者が?」
「ええ……村へと配属されていた十人の内、五名が飛んできた石などに巻き込まれて」
半数が死亡、か。これではポーションの製造など、再開できそうにない。フェルムの村にとっては致命的な損失といえよう。これで、村長たちまでも犠牲になっていれば、もはやあの村に再起は不能であろう。
やはり後悔してしまう。一人でも多く、村人を救えたのであれば、と考えてしまうが……もう終わったことは仕方がない。今は、とにかくあの化物の情報を得る以外にないのだ。
「莫さん、アナさんにも聞かせて構いませんか? あの化物についての話を」
「ああ、そりゃあもちろん。隠し通せるような事態でもないし、味方は一人でも多い方が良い。では、気を取り直して話すとしようか。そうだな……まずは、何が知りたい?」
「ありがとう……では、あれが何なのか。それをお願いします」
あれは、そもそも人間なのか。そして、あれはどうして突如として出現したのか。それが最大の謎である。
少しだけ思い悩むように目を瞑ると、莫は申し訳なさ気に口を開く。
「すまない、それは分からないんだ。前にあれを見た時も、あまりにも突然に現れたものだからね……一つだけはっきりとしていることは、今回の件と同様に、全く前触れもなく現れた、ということかな」
「以前も、あんな風に普通の人が豹変した、ということですか?」
「普通の人、か。……うーん、まあそうなる、かな」
妙に言い淀んでいるが……肯定したということは、彼らに共通するような兆候は無かった、という意味を持つ。そうであれば、突発性の病気という説は否定できる。
では、そのシチュエーションはどうだろうか。何か、今回の件とリンクするものは無いだろうか。
「誰かを殺そうとした瞬間だった、というのはどうかな?」
「……確かに、それは合致するけど……戦場で誰かを殺そうとするなんて、日常茶飯事だからなぁ……どうして彼だけ、ということになるね」
ああ、確かにその通りだ。誰かを殺そうとしただけで逐一、兵士にあんな変化が起きていたら、戦争どころではない。敵味方関係なく、あの化物に対抗していくしかなくなるのだ。結果的に戦争は集結しそうであるが……その代わり、甚大な被害が出よう。
現状、分析できるとしてもこの程度だろう。あれについての議論は、この辺で終わらせるしかなさそうだ。
「……あの化物には、対抗策は無いんですよね?」
「うん、それだけは断言できる。少なくとも、あれが自動的にその活動を終わらせない限り……不可能だ。幾ら槍で突こうが、矢を射ようが……たちまちその傷は癒え、その反動で攻撃がさらに激化するんだ。だから僕たちは、あれになることを『狂人化』と呼んでいる」
狂人化……非常に直球的な表現であり、しかし今のところそれ以外に形容し難いのも事実である。人として、いや生物としての機能は完全に瓦解し、殺戮兵器と化すのだから。
先ほどの莫の話が正しいのであれば、逃げる以外に選択肢はない。真っ向から戦っていたら、余計に凶悪な兵器へと進化させてしまうのだ。その観点では、ある種の腫瘍細胞やウイルスにも近いようにも思える。
そうであれば尚更、狂人化に至るトリガーを探し出したいところだ。今の彼の発言に鑑みると、誰でも……それこそ、私やアスナですらも狂人化し得るのだ。そんな恐ろしい事態にさせたくはない。
一先ず判明しているのは、殺人を犯す手前の人間であること。これ以外については、また後程考えるとするか。今悩んだところで答えが出せるものでもあるまい。
「とりあえず、これからもしその兆候のある人間を見つけたら、真っ先に逃げようか。それだけは共通認識として持っておこう」
「その通りですわね。……さて、いつまでもここでのんびりとする訳にもいかないのですが、これからどうしましょう? 夜にでも、また村へ戻ってみますか?」
アスナの言う通り、ここにずっといる訳にもいかない。今のところ周囲に敵影は無いとはいえ、夜間ともなれば凶悪な猛獣が顔を出さないとも限らないのだ。夜になるまでに、安全な場所を確保しなくては。
「莫さん、あの化物の活動限界ってどのくらいですか? 今晩、ということは……」
「無いね。少なくとも、前に見た例では数日は動き回っていたね……でも、あの時は戦場で、食料も何もなかったから短かったけど、今回は村の中だから、どうかな……」
「望みは薄そうですね……」
そうとなれば、この辺りで野宿するか、それとも他の集落を見つける以外にない。後者を選択した場合、ここから最も近い村がフェルムだったことを考慮すると、最悪の場合、丸一日以上かけての移動が必要となる。あれだけの距離を駆け抜けてしまった私やアスナには、少々難儀な注文である。
「じゃあ、しばらくは野営することになるのかな……」
「……いんや、僕に一つ案がある。上手くいけば、全てが片付くくらいの良い提案なんだけど、聞くかい?」
随分と、自信たっぷりな様子だ。危険な香りしか匂わせていないのだが、打つ手がない以上は彼の案に乗るしかあるまい。
「アナさん、それにアスナ、どうかな?」
二人に意見を求めるも、特に異論はないようで頷いている。その表情からして、どうやら私と心境は同じであるようだ。
「よし。……あの森を越えて、ヴィール公国領へと向かうんだ。幸運にもプレヴィール家領は国境に近いからね、領地に入ってしまえば、どうにかなるかもしれない。それに、僕らの当初の目的は既に果たしたんだ。良い機会だし、どうかなって」
「ヴィール公国って……敵国ではありませんか! それは……」
驚愕するアナとは対照的に、私やアスナは思わず感心した。確かに彼の言う通り、アスナたちの目的……私を仲間に引き入れることだが、それは達成できたのだ。そして、もはやあの村には戻れないとなれば、自ずとその答えに辿りつく。
「確かに、そうですわね。こうしている間にも、ヴィール公国は着々と破滅の道へと向かっているのですから……今こそ、好機ですわ」
「いやあ、莫さんからそんな名案が浮かぶとは思いませんでしたよ。まさに瓢箪から駒、ですね」
「……それ、褒めてるのかい?」
盛り上がりを見せる私たちを見て、アナは呆然としている。当然だ、和気藹々と話していたはずの相手が、まさか敵国の住人であったとは想像もしなかっただろう。
騙していて申し訳なかったが、彼女とはここでお別れとなる。ヴィール公国に被害を齎した女神の信徒が、その領地に足を踏み入れることなど、そのどちらもが許容し難いはずだ。
「ごめんね、アナさん。そういう訳で、ここでお別れ――――」
「ちょ、ちょっと待ってよ! こんなところで置いていくつもり!?」
「でも、ヴィール公国にあの女神の信徒を連れ込むわけには……あなたも、それは嫌でしょう?」
「……分かったわよ。こんなもの、捨ててやるわ。だから、お願い! 私も連れて行って!」
そう言うと、彼女は身に着けていた濃紺の制服を脱ぎ、地面へと叩きつけた。その姿からは、生きるためには全てを投げ打つという覚悟が窺える。
念のために補足しておくが、彼女はその制服の下にもちゃんと衣服を着用している。分かっているとは思うが、彼女の尊厳のために敢えて言っておく。
「……どうします? 姫様」
「私は、一人でも多くの命を救いたいです。そこには、国や信教は関係ありませんから。ですから……」
「うん、そうだよね。ではアナさん、よろしくお願いしますね」
「……もう、本当に寿命が縮んだわ……」
こうして私たちは一人、少々騒がしい仲間を一行へと加え、ヴィール公国へと出発したのである。




