Note:18 フェルムの村の悪夢
終わりの瞬間とは、意外と時間の掛かるものである。目を瞑り、首が刎ねられる衝撃に備えているのだが……一向にその気配がない。
広場を流れる風が優しく私の頬をくすぐるのみで、今のところ痛みなどは感じない。相も変わらず青い草の匂いと、チェインメイルの男の汗臭さが周囲を包んだままである。
一体、何がどうなっているのだろうか。
すると、私の耳へ金属の落ちる音が響く。比較的至近距離に落ちたようで、その音が鼓膜を伝い、脳内にずしりとした重い痛みが走る。
何が落ちたのだろうか、それを確認するため、薄っすらと瞼を開く。
――――剣。青空すら反射しない、相当な安物の鈍である。こいつは、先ほど私の首に当てられていたものと同じだ。
それには、血が付いている様子もない。私の体は一切、傷つけられていないものと考えて良いだろう。むしろ、地面に倒された時の痛みの方が強いくらいである。
「おい……何してやがる」
今、聞こえたのはゲス男……もとい、オザグレル少将の声であろう。彼も、その声の調子を聞く限りは、事態を飲み込めていないようである。
「どうしたというのだ。貴殿よ、まさか情けをかけたのではあるまいな」
ローブを纏う男も、チェインメイルの男に対し問いかけているようだ。つまりは、彼らの意志とは無関係に、この男は私の首を刎ねることを止めた、ということになろう。
まさか、そんな情けなど……『恨むな』、とまで言っておいて、今さら躊躇するなど有り得ないだろう。
莫たちによる攻撃、でもあるまい。その場合、彼らがこうしてのんびりと会話するはずが無いのだ。攻撃対象に向け、即座に反撃を行なうはずだ。
そして、最も妙なのが、その肝心の彼が黙したままであるということだ。未だに私の上から退いてくれないせいで、何が起きているのか全く把握できないままでいる。せめて、その重い体をどうにかして欲しい。
すると――――
「う、が……」
獣のような呻き声を上げたかと思うと、私の上から体を移し、その男はふらふらとした足取りで広場の中心へと向かってゆく。
「な……?」
村人たちは、唖然としながらも彼の様子に慄き一本の道を作ってゆく。脇目も振らず、彼が進んだ先には……オベリスク。開村記念に建てられた、家の高さほどもあるモニュメントの元である。
「おいおい、ちょっと待てよ。一体どうしたってんだ」
「少将殿、何やらおかしい。離れて様子を見ては如何か」
「うるせぇ!」
さすがに我慢のならなかったようで、ローブの男の制止を振り切り、オザグレル少将は彼の後を追う。さすがに馬の脚であり、彼の元へはすぐにでも追い付いたのだが、彼はすでにそのオベリスクへと手を触れるところであった。
祈りでも捧げようというのだろうか。しかしあれはただの記念碑であり、聖遺物などではない。まるで意味の分からない行動を取っている。
しかし、彼がオベリスクへと手を触れた、その瞬間であった。
「グ……ガアアアア!!」
「うおっ!?」
男の叫び声と共に、彼の纏っていたチェインメイルが暴発した。チェインメイルが暴発、などと不適切な表現にも思われるだろうが、そうとしか表現のしようがないのである。
どういうことかというと、ただ破けたり破損したりした訳ではなく……文字通りその鎖の一つ一つが、弾かれたように周囲へと飛散したのである。その飛び散った鎖が、周囲にいた村民、それにオザグレル少将の跨る馬へと突き刺さってゆく。
「ぐっ……」
「ぎゃああ!!」
「う、うわあ!!」
一瞬にして多数の負傷者が生まれ、そしてその音と痛みに驚いた馬はオザグレル少将を振り落とし、けたたましい嘶きを上げながらどこかへと走り去ってゆく。その馬に数人が跳ね飛ばされ、周囲はまさに地獄絵図と化していた。
地に堕ち、苦痛に表情を歪ませる少将。鎖が目に刺さり、流血しながら騒ぐ女性。馬に蹴られ呻くことも出来ず、ただ蹲るだけの男性。
それらの中心には、あの男が上半身裸の状態で佇んでいる。放心している、のだろうか……。
「む……」
私の近くにいたローブの男が、少将の元へと走り寄る。あの男の異常さに気付き、不用意に近付いた彼を救わんと動いたのだ。あまり少将を敬愛している雰囲気では無かったのだが、彼は私情などを挟まない有能な類の人間なのだろう。
その隙を突き、私の元へとアスナ、そして莫が近寄ってくる。その表情に笑みは無い。
「リ、リナ! 無事か!」
「リナさん!」
「あ、ああ……二人とも。うん、大丈夫だけど……一体何が起きているの?」
駆け寄って来た二人に問いかけるが、二人とも何が起きているのか把握しきれていないようであった。傍から見ていても何も分からないということは、それだけ異常な事態が生じていると考えるべきか。
しかし重傷者が生まれているのは確実であり、このまま放っておけば村に甚大な被害が及んでしまう。まずは、負傷者への救護と――――。
「ガアアアア!!」
「ひっ!?」
また一つ、あの男が雄叫びを上げる。彼の上半身は、チェインメイルを破ったことにより出血をして真っ赤に染まっている。あれだけの出血をすれば、もう助からないだろう。その苦痛に喘ぎ、あのような叫び声を……。
いや、違う。あれは、血液などではない。
筋肉だ。全身の筋肉がその皮膚を突き破り、異常なほど発達をして表出しているのだ。赤く見えているのは、骨格筋の色であろう。……何と、悍ましき光景だろうか。
そして、さらに異常なことに、彼の大きさは元の二倍以上にまで膨れ上がっている。血液やリンパ液の貯留によるパンプアップと呼ばれる現象、などとそんな生易しいものでは無い。アメリカのカートゥーンに登場しそうな、禍々しい筋肉ダルマである。
「グオオオオオ!!!」
そして呆気に取られる人々を尻目に、彼はオベリスクへとその手を伸ばし……折った。なんと、数メートルもの高さのある石柱をいとも簡単にへし折ったのである。
それだけに留まらず、彼はそのまま……それを担いで振り回し始めた。
彼には、周囲に映る人間たち全てが敵に見えているのだろう。そうとしか思えないほどの無分別な攻撃が、容赦なく襲い掛かる。
負傷して動けずにいた者、その介助に当たっていた者、彼を止めようと駆け寄った者……それらを、あの化物は次々に跳ね飛ばしてゆく。彼らはピンポン玉のように軽々と宙に舞い、そして鈍い音を立てて地面へと墜落していった。
無論、その中で起き上がる者は、誰一人としていない。彼らが飛び散らせた血液の量、それに臓腑……あれでは、完全に即死だ。ポーションなど役に立たない。
「あれは、まさか……!!」
驚嘆の声を上げる莫とは対照的に、私はじっくりと、あれへの対策を講じようと思案し始めていた。
あんな化物を放置しては、村が壊滅してしまう。止めなければ……しかし、どうやって止めたらいいのか。あれだけ大きなものを振り回されていては、容易に近付けやしない。幸いにもポーションならば、教会にたくさんの在庫を抱えているが……一撃食らっただけで致命傷になるのだ。もはやあんなものに価値は無い。
こういう時こそ、騎士の出番であるのだが……オザグレル少将はローブの男に導かれ、そそくさと退散していた。国民の命よりも、その身を優先する……どこまでも腐った騎士道である。
仕方がない、これは私たちで何とかせねば。
そう思った矢先、莫は私の腕を取り、強く引く。何か妙案があるものだと期待し、彼の顔を見上げた。しかし、彼のその形相は、それを物語っていなかった。
「やばい……逃げるぞ、リナ、姫様!」
逃げる、だと?
聞き捨てならない言葉である。住居を手配してくれた上に、異世界の住人である私や、敵国民であるアスナを庇ってくれた人たちを……見捨てるというのか。
そんなこと、出来るはずがない。
「逃げるって、みんなを見捨てるの!? そんなこと……」
「違う! 今は逃げるしかないんだ! 信じてくれ!」
尋常ではない剣幕に、言葉を失う。彼は、あの異形について何か知っているような雰囲気を醸し出していた。しかしそれと同時に、アレに対抗する手立てが無い、ということも、である。
だが、そう易々と諦める訳にはいかない。あれだけ急激に筋肉が膨張したのだ、何か活動限界のようなものがあるはずである。
現に、あの異形からは筋線維の弾ける音が、断続的に響いている。時間が経てば、いずれは全身の腱などが切れ、物理的に動けなくなるはずだ。
私は強引に引くその腕を振り払い、それに驚き目を剥く莫へと睨み返す。
「待って……あれには多分、限界があるはず。それを待てば、一人でも多く助けられるはずだよ。遠くに逃げたら、それこそみんなを助けられない!」
「違う……違うんだよ。聞いてくれ、アイツは――――」
莫が何かを口にしようとした、その時。
彼と私の間を、強い風が通り抜ける。急行列車が通過した時のような、猛烈な突風だ。そして、その少し後……煉瓦造りの壁の崩落する音が、聞こえた。
その疾風の通り抜けた先を、恐る恐る振り返る……するとそこには、強烈な一撃を食らい、家の壁面に叩きつけられ、全身から体液を撒き散らす男の姿があった。
彼は、村の入り口で出会った、スクロオだ。無惨にも、その身体からは内臓が飛び出し、その顔にはもはや生気など無い。
即死である。手の施しようがないことは、この離れた距離でも理解できた。
「スクロオ……」
「あ……ああ……」
そういう、ことか。彼の死により、ようやく私は事の重大さを理解した。
桁違いの馬力を誇る相手では、物理学的な常識など通用しない。この場に居ては、危険なのだ。活動限界を迎える前に、砕けた石や死体などが飛んでこないとは言えない。あれほどの猛烈なスピードで、人間が飛んでくる環境では……多少離れているだけでは、死なない保障など無い。
なるべく遠くへ逃げること。これが、絶対的に最優先されるのだ。
「ごめん、なさい。莫さん……私、どうかしてた……」
「いや……いいから早く逃げるんだ。僕がアイツから目を離さないように見張っているから、急ごう」
「……」
無言で頷き、私たちは全力で走り出す。無我夢中で、全ての力を振り絞る。
背後からは、村人たちの悲痛なる叫び声、民家の崩落音、そして事切れた人々が飛び散らせた飛沫の音が、断続的にこの耳へと伝わってくる。
後ろ髪が、引かれ過ぎて痛い。しかし、ここで振り返ってはいけない。ここで立ち止まっては、いけないのだ。
肺臓が潰れようとも、心臓が飛び出ようとも、脚が折れようとも構わない。あの化物の手から逃れるべく、ただ今は、疾く走れ。
――――そして、私たちは村の外へと脱出することに成功した。
アスナにも、莫にも、私にも笑顔はない。……何という、後味の悪さだ。結局私には、誰も救えないのだ。




