Note:1 開かれた異世界への扉
「はぁ……はぁ……」
鬱蒼と生い茂る深緑……照り付ける太陽の光は届かず、足元は先ほどの大雨により泥濘が支配している。軽く泥に沈み込んだ靴底からジワリと水が浸透し、猛烈な不快感に襲われる。叶うならば、今すぐにでも靴を放り投げたい。この不快感から解放されたかった。
しかし、今はそんなことを言っている場合ではない。足場の悪い中で敵の目から逃れるために必要なのは、冷静な判断だ。乱れる息を必死に落ち着かせ、不必要な物音を一切立てずにやり過ごす以外に方法はない。
「グルルル……」
獰猛な肉食獣の唸り声が、森林の鬱屈した静寂を破る。ボタボタ、と粘性の高い液体の垂れる音も同時に聞こえる。どうやら、あの狼にも似た獣は相当に飢えているらしい。
そう、私はあの獣に追われている。運悪く、私はあの獣に標的とされてしまったらしいのだ。
そもそも、どうして私はこんなところにいるのか。泥に塗れた黒のパンプス、雨に濡れて重くなったグレーのスカートにジャケット……一般的な、通勤する女性のスタイルだと考えてくれればいい。そんな装いで、このような密林に誰が来ようというのか。
すべては、あの時。ほんの少し前、今は懐かしき灰色の街並みを歩いていたその瞬間から、この悲劇は始まっていた。
△
私は、宮瀬 凛。大手製薬メーカーに勤める、アラサー女子である。趣味はホットヨガにボルダリング……などと言いたいところだが、特にこれと言った趣味はない。ちなみに、この身は清廉潔白で、ユニコーンが実在すれば私にすり寄ることとなるだろう。それを誇らしく思うわけではないが、かと言って卑下するものでもない。
それというのも、自分で言うのは少し気が引けるが、私の外見はそこまで悪いわけではない。問題は、私の興味が人間に向かなかったということ、それだけである。現に、何度か告白の類を受けたこともあったが、
「ごめん、化合物になってから出直してきて」
と、特に興味がないため全て切り捨てていた。呆然としたあの男子たちの表情は、未だに忘れられない。ああ無論、滑稽で、という意味で、だ。
お分かりの通り、私が興味を持っていたのは化学である。幼少期より自然科学に対する関心が強く、その思いのまま理系コースへと進学していった。大学時代は分析化学の研究室に配属され、学部生でありながらも学会にて優秀演題賞を受賞するなど、大きな功績を残した。そして、その結果として大手製薬メーカーに就職することが出来たのだ。
しかし、望む職に就けたのは良いものの、自分の好きな研究が出来るわけでもなく、上司の指示に従うだけの日々が続いていた。それが徐々に苦痛となり、大学へ戻ることも視野に入れていた、まさにその頃であった。
あの日も、暗い表情で高いコンクリートの壁に囲まれた道を重い足取りで歩んでいた。時刻は、ちょうど午前八時だったと思う。暗く淀んでいた私の目に、不意に光が差し込んだのだ。
「え?」
カメラのフラッシュか何かかと思い、顔を上げる。するとそこには、銀色に輝く不可思議な扉があった。鉄枠が光を反射しているのではない、その扉全体が、銀色に輝いていた。
その異様な光景に硬直し、しばらく立ち竦む。どっきり番組か何かかとも考えたが、私のような平凡な女性のために、こんな金のかかりそうなものを製作しないだろう。そうであるならば、一体これは何だというのか。
焦燥に駆られ、助けを求めようと周囲を見渡すが、道行く人々は皆、一様に怪訝な顔つきで私を見つめている。つまり、この奇妙な扉は他人の目に映っていないらしい。
その一方で、その扉の輝きは時間を経るごとに増してゆく。このままでは、私の目がおかしくなってしまう……これを鎮めるには、恐らく開ければよい。そう安直に考え、徐にその扉へと手を伸ばしドアノブを回した。
結果的に言えば、それが災いした。ドアノブを回した瞬間、私の体は強い力によって扉の中へと引きずり込まれてゆく。大風の中、窓を開けたときのような強い気圧の変化にも似ていたが、そんなものよりも遥かに強い力であった。
「うわっ!」
声を上げたときには、もう遅かった。気が付いたころには、もうすでにコンクリートジャングルから、本物のジャングルへと転移させられてしまった。
呆然と佇む私の鼻腔を、噎せ返るような強い土と草の臭いが刺激する。先ほどまでは肌寒かった気温も、茹だるほどの暑さに転じていた。
そして、事態を全く飲み込めないまま彷徨い続け、現在に至る。
何度か、これは夢ではないのかと頬をつねったり、叩いてみたりしたのだが、全く無意味であった。そもそも、嗅いだことも無い臭い、感じたことも無い蒸し暑さ……これを夢で再現するのは不可能であろう。つまりは、目の前のこの空間は正しく現実なのだ、と受け入れざるを得なかった。
あの獰猛な獣に目を付けられたのは、恐らくそんな自問自答をしていた頃だろう。言うまでもなく、こんな事態を想定していた訳ではない。気配を隠そうともせず、堂々と歩き回った結果が、これである。ああ何とも、人生とは無情なものよ。
「ああ、痛い……」
獣から逃げている際、足を少し切ったようだ。恐らく、鋭利な植物の葉にでも触れたのだろう。不幸なことに、この流血はより強く獣たちを引き寄せてしまう。とはいえ、止血する手立てもないし、そもそもそんな暇など与えてくれそうにもない。
ノシッ、ノシッ……
巨体の迫りくる音が、私の耳を貫き脳へと浸透する。もはや恐怖など感じず、ただ時間が過ぎるのを待つのみとなっていた。
「あー……こんなことなら、さっさと転職すれば良かった……」
こんな時だというのに、楽しい思い出ではなく後悔ばかりが脳裏を過る。たられば、を繰り返しても何も良いことはない……そんなことはもう、嫌というほどに理解していたはずなのに。
ノシッ、ノシッ……
さらにその足音が大きくなる。恐らく、あの獣は私が背にしているこの樹木の裏まで来ているのだろう。せっかくなら一思いに、一気に襲って欲しいものだが……あの獣は、獣らしくなく得物を弄ぶ慣習があるようだ。でなければ、とっくに私はあの獣の養分へと成り果てている。
……それはつまり、チャンスということかもしれない。
「……一か八か、か」
このシチュエーション、それに転移という非日常的な現象……それらを総合的に判断すると、私は異世界へと転移させられたと考えて良い。であれば、魔法の類、もしくは特殊なスキルを身につけている可能性も考えられる。
以前、職場の同僚に勧められて観たアニメーションも、確かこういう危機的状況を魔法、もしくはスキルで回避していた。あの時は下らないと考えていたものだが……これがそうなのであれば、私にも何か出来るはずだ。
夢と現実を混同するなど、以前の私からすれば考え難いことであったが……この痛み、そしてこの感触。どう考えても夢ではない。そうであれば、もうやるしかない。
全身全霊を込めて、あの獣を待ち構える。この太い幹の端から顔が現れる瞬間に、この力をぶつけてみようじゃないか。希望などありはしないが……ただ絶望しているだけよりは、幾分かマシだろう。
喉が鳴る。
汗が垂れる。
茂る草木が薙ぎ倒される。
……そして、幹の淵より獣の髭と思わしき、長く白い毛が現れた。
来た……この瞬間を、待っていた。
「う……うおぉぉぉ!!」
目を瞑り、全ての力を掌に集中させる。そして、思い切りその両腕を前に突き出す。焔を掌から放出させるイメージで、獣を焼き尽くそうとした。
その刹那――――
ザシュッ
「……」
私の掌からは、何も感じられない。ただ神経が集中していることにより、若干の熱量を感じる程度である。魔法やスキルといったものが発動した様には、どうにも思えない。
しかし、私は生きている。拍動する心臓も、酸素を取り入れる肺も、この思考を司る脳も、すべからく機能している。つまり、襲われていない。死んでいないのだ。
「……?」
耳に届くのは、微かに遠くで鳴く鳥の声、それと雨だれのような水の滴る音。それと、私のものとは異なる足音。それと同時に、私の鼻を突く異臭……この臭いを、私は知っている。大学時代や勤務先で何度も嗅いだ、生物の臓腑の臭いである。
恐る恐る、目を開けて状況を確認する。目の前に現れていたはずの獣の姿はどこにもなく、ただそこには肉塊が転がっていた。頭部と胴体が切り離された、あの獣の変わり果てた姿である。
「え……?」
事態を飲み込めず、直立不動のまま呆けていた。一体、何が起きたというのか……その答えは、背後から近づく者により齎されることとなる。
「お、大物だなぁ……今日はご馳走かな。……ん? 君は……」
それは人間の声。年老いた男性の、渋く、しかし良く通る声である。その歩みを止める様子もなく、その男は私に近づいてくる。
本来であれば、安堵すべきだったのだろう。しかし私は、先ほどまで抱いていた妙な高揚感と、この惨状を目の当たりにした恐怖心により冷静な判断力を完全に失っていた。
「ああ、誰かは知らないけど……大丈夫かい? 随分と奇妙な格好をしているが……どこの国から来た――――」
「いやぁ!! 来ないで!!」
振り返ると同時に、腕をその遠心力のままに振り回す。その速度は、一瞬ではあるがプロボクサーのそれを超えてしまった。そしてそのまま、私の腕は運悪くその男の顎にクリーンヒットした。
「ごふっ!?」
顎を撃ちぬかれ、その男は崩れるように地面へと倒れ込む。ボクシングであれば、一発ノックアウトと言えよう。ここがオリンピックの舞台であれば、私は盛大な拍手により称えられたことだろう。
しかしここは、観衆どころか人の気配すらない森林の奥地である。聞こえるのは賛辞ではなく、惨事を引き起こした私の鼓動、そして彼の呻き声だけであった。
「え……? ……す、すみません! すみません!! ど、どうしよう……」
状況から察するに、彼は私の命を救った恩人である。それをこともあろうに、私はその恩を裏拳によって返してしまった。そんな私に、彼はニコリと微笑み――――いや、明らかに無理をしている表情であったが――――こう告げた。
「いや……僕の方こそ、驚かせてしまってすまない。君の様子からして、どうやら訳アリのようだね。この近くに僕の住む村があるんだ、よければ、そこで話を聞かせては、くれない、か……?」
そして、彼は気を失った。
「え、ちょ……ちょっと待って! 嘘でしょ!? 起きてよ!」
白目を剥き項垂れる彼に縋りつき、ゆさゆさと体を揺さぶる。取り乱した私の叫び声が響き、その声に驚いた小鳥たちが空へと羽搏いていった。
こうして、私は無事に異世界への出立を果たしたのである。この奇妙な出会いが、世界に大きな影響を与えることになろうとは、私も、この男も予想していなかっただろう。
そして恐らく、神ですらも。