Note:9 私の決意
「あの……どうかされましたか?」
女神の名を聞き、完全に硬直した私を不思議そうに眺めている。アナにしてみれば、それは当然の疑問である。異世界人であり、かつ女神と同じ名前を持つ者が目の前にいることなど、微塵も想定していないだろうから。
「ああ、いえ……何でも、ありません、が……」
言葉では平静を装っているものの、自分でも分かるほどに表情が凍り付いている。顔一面に糊を塗りたくられてしまったかのような気分だ。
偶然、だろうか。
『リン』であれば日本人の名前としては比較的ポピュラーであり、それが被ってしまうことなど有り得るだろう。しかし、『ミヤセ』まで同じとなると話は全く異なる。
過去に純粋な興味で、私の名字の人口ランキングを調べたことがあった。その当時と多少の誤差は在ろうが、『ミヤセ』という姓を持つ者は全国でも千人強ほど。漢字の異なるものもあるが、それらを含めたところで順位に大きな変化はない。
『リン』が一体どれほどの人数存在するのかまでは調べなかったのだが、それをせずとも、この奇妙な一致の意味は理解できる。偶然などではない。
その証拠に、あの女神像。
拝殿の奥にある石像……以前の私では決して拝めなかった女神の顔が、はっきりと見えるのだ。
あれが誰なのか、見間違えるはずもない。見たくもないのに毎日のように見ていた、いや、見ざるを得なかった人。化粧室、電車の窓、ブラックアウトしたモニター画面……そのいずれにも映っていた、馴染みの深い顔。
あれは、私だ。この世界へと転移する以前の、灰色の私だ。
心なしか少々老けているようにも思えるが、他人からすれば私など、あの程度の容貌なのだろう。うん、軽くショックである。
まあそれはともかく、どうして私が、女神として称えられているのか……それが問題だ。
何故なら、あれが私なのだとすれば、魔法を用いて神の如き振る舞いをした挙句、他国を蹂躙せしめたと言うことになるからだ。私の大嫌いな非科学の象徴を振りかざすなど、信じられない。
「あの、アナさんは実際に会ったことはあるのですか? その……あの人に」
「いいえ、それはありませんが……それでも、大いなる御業を授けてくださったのですから、その存在を疑うことなど有り得ません。あなたも、きっとすぐに理解しますよ。あのお方が、どれほど偉大であるか、を」
存在を疑うつもりはなかったのだが、考えてみれば不敬な質問であった。しかしそれにも拘わらず、アナは余裕のある笑みを向ける。それほどに彼女……いや、この国の民草は、あれを尊敬しているのだ。
とはいえ、そんなことで納得するはずはない。如何に彼女たちがあの女神を信仰しているかなど、知ったことではない。科学では証明できない何かを突き付けられない限り、私は私の信念を捻じ曲げるつもりなどないのだ。
しかし、奇跡とも思える現象が目の前で生じていることは確かだ。毒々しい紫色を呈していたポーションが、祈りによりその色を、そして性質をも変えるのだというのだから。
これでは、確かに魔法と言わざるを得ない、か……。いや、しかし……。
「ちなみに、紫の液体をそのまま置いておくだけでは変色しないのですか?」
「放置しておくと、奇妙なことに無色透明へと変化します。そして肝心の効果ですが、毒も併せて綺麗さっぱり、何もなくなります。まあ、ただ苦いだけのお水になるのですよ」
味の感想まで表現が可能ということは、実際に試したのだと推測できる。それを以ってして、祈りが……魔法が必要なのだと、確信に至ったのだ。
「なるほど……それは確かに不思議ですね……」
「ええ。これであなたも、少しは信じる気になりましたか?」
「……」
どうにも釈然としない私の隣で、先ほどまで唖然とするだけであったアスナが、不意に崩れ落ちるように床へと手をつく。そして、虚ろな目を地面へ向けたまま小さく嘆いた。
「……こんな、奇跡を生み出す者が導くのだから、当然の結果、なのですね……ああ、お父様、お母様……ああ……」
突然の奇行、そして嗚咽。何も事情を知らないアナは、ただ狼狽するのみで私とアスナを交互に見つめている。しかし私は、その姿で全てを察した。
ああ、そうか。彼女は目にしたことが無かったのだ。あの女神が生み出す、魔法とやらを。
知識と経験は似ているようで、大きく乖離している。その一番の要因は、その目で、その体で感じる機会を得たこと。五感全てを以って味わったことの差。これが、ただ知っているだけの者と、体験した者の差を生む。
アスナ・C・プレヴィールは、ヴィール公国においては有力貴族の出である。しかし、こうして国を追われてしまえばただの娘も同然。無論、戦争の前線に立った経験などは無く、真に絶望する機会を得られなかったのだと考えて良い。
訳も分からぬままに国を追われた、その憎悪だけが彼女の動力源であった。それ故に、相対する敵との差をまざまざと突き付けられたその心中は、決して穏やかであるはずがない。こうして俯いてしまうのも頷ける。
とはいえ、ここまであからさまな行動を取ると、彼女の身元がバレてしまう可能性もある。幾ら下っ端の神官とはいえ、敵国の有力者の名、もしくは特徴くらいは把握していても不思議ではない。しかもここはある意味、敵の本陣とも言える場だ。非常にマズイ。
息を殺し、そっとアナの表情を窺う。
「だ、大丈夫ですか? やはり入り口で止めておくべきでしたね……すぐに医師を連れてきますね!」
私の危惧をよそに、アナは何を勘違いしたのか体調不良だと決めつけている。体調不良で嘆くほどの元気のあるやつがいるものか。……いやしかし、これは好都合だ。これ以上アスナを絶望させないよう、自然にここから出る他にあるまい。
「いえ、それには及びません。彼女、もともと少し貧血気味ですので。お気遣いありがとうございます……でも、そうですね。これでは見学どころではないので、今回は家に帰ります。また体調が回復したら、その時は是非お願いしますね」
「え、でも……」
「大丈夫です。ね、アスナ」
私の意図を理解したのか、アスナは少しだけ冷静さを取り戻し小さく首を縦に振る。どうやら、まだ彼女の心は折れ切っていないらしい。とはいえ、風前の灯火であろう。
「そう、ですか……それでは、またの機会に。ああ、お出口はこちらです、ご案内します」
納得し、少し不安げではあるが機械的な笑顔を返す。そして彼女の案内により暗く、酷い臭いの道を引き返す最中……私の肩にもたれかかったままのアスナが、小さく囁いた。
「ごめん、ね……」
それは、体を借りていることへの謝罪なのか。それとも、あの魔法と戦うよう強要したことへの懺悔なのか。私には、分からなかった。
∇
アナと別れを告げ、村の中心部へと近づくころには、もうアスナは一人で歩けるようになっていた。実際に具合が悪かった訳ではないので、それは当然のことである。装う必要がなくなった、ただそれだけなのだ。
しかし、アスナは一向に口を開く気配がない。本当に体調が悪かったのか、と疑うくらいに塞いでしまっている。
考えてもみれば、私などという蒙昧な存在を当てにしなくてはならないほど、彼女は無策なのであった。何とかなる……その思いだけでここまで来たのであれば、あの光景を目の当たりにし相当に衝撃を受けたことだろう。
当然、ピクニック気分で国を奪還しようとしていた、などと断じることはない。彼女も彼女なりに辛酸をなめたことは否定しない。それは、他人が評価するべきものではないのだから。
とはいえ、先ほど見たものは確かに驚くべきものであった。高度に科学技術の発展した世界から来た私でも、あれに関して言えばまだ結論が出せない。私がそう感じるほどなのだから、やはりアスナは絶望に打ちひしがれているのだろう。
あのポーションを製造できるのが敬虔な神官たちだけであるのならば、圧倒的な回復手段を持った軍を相手取らねばならないのだ。
現代に置き換えるとすれば、そうだな……味方は絆創膏しか持っていないのに、敵は高度な手術が可能な機器を取りそろえている、という感じか。
そう考えると確かに厳しい。即死でなければ回復されてしまうのだから、無尽蔵の兵力を有しているのと等しい。
「……ねえ、凛」
ポツリと、アスナが呟く。ようやくその口から出たその声は、あまりにも活気がなく、今にも息絶えてしまいそうなものであった。
「リナ、だよ。……こっちでは、そう名乗ることを決めたんだから」
「……そう、だったね。ごめん……。リナ、えっとね……その……」
彼女の表情を見れば、何を言おうとしているのかなど手に取るように分かる。そしてそれは、私の意に反するものだということも。
そうはさせない。それを口にしたら、そこで終わりだ。
「あれが、魔法だと思った?」
「え……?」
不意を突く私の言葉に、アスナは目を見開く。
「だから、あれが魔法に見えたのかって聞いてるの。ただ祈りを捧げるだけで毒物がポーションになるっていう、あれを」
「……な、どういう、こと……? どう考えても、あれは魔法じゃない。リナもそう言って……」
「言ってないよ。あれは、魔法じゃない……歴とした科学だよ。それを、あたかも魔法のように見せかけているだけ」
周囲をぐるりと見渡す。幸運にも、私の見渡した範囲に聞き耳を立てていそうな人影はない。告げるのであれば、今しかない。いや、今を逃してはならない。
「アスナ」
ざあっと、一つ強い風が吹く。それにより金色の髪が靡き、彼女の顔を露わにする。
絶望により淀んでしまった青い瞳。血色を失い白さを増してしまった肌。あれほど美しいと感じた彼女を、ここまで醜くしてしまった私が許せない。
私は、私を懲らしめなければ気が済まない。
「私は、やるよ」
「え……?」
「国を取り戻すんでしょ? やってやろうじゃない。……私に出来たんだから、出来る。絶対に。だから――――」
彼女の両肩を掴む。しっかりと、その想いが伝わるように。
「絶対に、諦めんな。……分かった?」
「凛……! うん……ありがとう……」
「だからリナだって――――って、うわっ!」
掴んでいた両手を掻い潜り、アスナは私の胸元へと飛び込む。その勢いによりバランスを崩し、そのまま後ろへと転倒した。
草の香りと、青空。そして抱き着いて離れない金色の髪。全身にその重みが圧し掛かるのと同時に、目的など無くただ生きていただけのあの灰色の日々を払拭するような、心地よい充足感が満ち溢れてくる。
ああ、生きているって、こういうことなのかもな。
「……痛いって、アスナ」
「絶対に! 絶対に諦めません! 最後まで全力で戦います!」
「……そう、分かった」
そのまま、私の上でアスナは泣き続けた。流れ落ちる雫は陽の光を受け、キラキラと輝いている。光を屈折させ虹色に輝くそれは、まるでプリズムのようであった。
……プリズム? まさか、そういうことか……?
「……そうか」
「……え?」
泣き止んだアスナを少し除け、起き上がり思考を巡らせる。また強く風が吹きつけるものの、今度はその音など耳に入らない。代わりに脳内へと響くのは、パチリ、パチリとパズルにピースが嵌る音。
「……分かったかもしれない。あのカラクリが」
「カラクリって……あのポーションのことですか? 本当に!?」
「うん。やってみないと分からないけど……でも……」
理論上、可能であるはずだ。何故なら、私が考え付いたことなのだ……そうであれば、今の私に分からないことはない。
「……見せてやる。科学の力を!」




