Note:8 転移した女神
「あいててて……本気で蹴ることないじゃないですか……って、あれ?」
二人がアナにより誘導されてからしばらくの後、ようやく村長宅より這い出た莫は、その光景を目の当たりにし、呆然と立ち尽くす。
誰も、いない。無論、村の住人たちはチラホラと確認できるのだが、肝心の二人の姿はどこにも見当たらないのであった。
「……ふぅ、しょうがないか」
やれやれ、と頭を粗暴に掻き、村長宅の前に置いておいた装備品一式を抱え、そのまま自宅へと戻っていく。カチャカチャ、と賑やかな音を立てながら歩くその姿は、何とも哀れであった。
しかしそれは、その顔のどこかに嘆きの一つでもあれば、の話である。守るべき大切な女性がいないというにも関わらず、彼の表情には一点の曇りもないのだ。
その様子はまるで、何かを予見しているかのようであった。
▽
「ここです。田舎の礼拝堂にしては少々大きいと思われるでしょうけど、手前が一般の祈りの場所となっておりまして、その奥が……」
「おお……これは……」
アナという神官は何やら説明を始めている。観光案内でもしているかのような雰囲気であるが、そんなことよりも私はこの巨大な建造物に圧倒されていた。こんな長閑な村には全く似つかわしくない、近代的な造りなのである。
この建物は、例えて言うと……そうだな、東京駅の駅舎とでも表現しようか。あれほど綺麗なものではないが、電気すらもまともに使用できない文明レベルのこの世界で、これほどまでに見事に積み上げるのは容易ではなかろう。
ああ、そうか。日本とは異なり、地震に見舞われることが少ないのだろう。旧世界の欧州辺りにおいても、同様のことが言える。それ故に、歴史的価値の高い石造りの建造物が現存する一方で、あの地方の人間たちは地震に対し非常に敏感であった。
……そういえば研修生のマイケル、今頃どうしているだろうか。英国から日本に来て早々に震度三の揺れを経験し、オーマイガー、と泣き喚いて早退した金髪のお坊ちゃん。彼には申し訳ないが、あれはとても滑稽であった。今でも語り草となっているのだろうか。
「……リ……ええと、リナ? どうしたの、急にニヤニヤしちゃって」
「え?」
不意に現実へと引き戻され、青い瞳がこちらを覗き込んでいることに気付く。そういえばマイケルも青い瞳だった気がするが……いいや、それはもう関係ない。
この建物が東京駅の駅舎にちょっと似ていたがために、旧世界を想起して妙な記憶を掘り起こしてしまった。それに意識が逸れてしまい、口が緩んでしまった。
「ええと、私、何か変なことを言いましたでしょうか……」
「い、いやいや……アナさんが悪いわけじゃないです。ちょっと、その……思い出し笑いというか」
「そう、なのですか? ……変わった方なのですね……」
そう評価されてしまうのも無理はない。建物の説明中に突如として薄ら笑いを浮かべる者など……この私ですら、ちょっと引いてしまう。これは猛省しなければ。
「もしかしたら、記憶が少し戻って来たのかもしれませんね。思い出し笑いが出来るということは、つまりそういうことですし」
必死になってアスナはフォローしてくれている。彼女としても、私が変質者扱いされるのは心苦しいのだろう。穿った見方をすれば、ご機嫌取りをしているのかもしれないが……いや、さすがにそれは考え過ぎか。
「ああ、確かに。もしそうなのでしたら良いのですが。……さて、建立の歴史については以上ですが、何かご質問は?」
「い、いいえ。大丈夫です……」
何も聞いてなかった、などと言えるはずもない。まあ、そもそもそんな歴史の話など、例え異世界でなかったとしても右から左へ受け流していただろうけれど。
「そうですか、それでは中へ。……そうだ、ご昼食と教会の見学、どちらを先にしましょう? そろそろ六時課を告げる鐘が鳴る頃ですが……」
「でしたら、お昼を先にお願いします。正直、私はもうお腹が空いておりまして」
えへへ、と照れ臭そうにアスナは笑う。その笑顔につられ、アナの表情も少しだけ緩んだ。
「ふふ、正直で何よりです。中でお待ちください、ご用意をいたしますので」
そう告げると、彼女は建物側面にある重厚な扉に向かい歩き出す。鍵を開けようとこちらに背を向けた隙をつき、こっそりとアスナへ問いかける。
「……ねえ、六時課って何?」
「ああ、そっか。えっと……陽が昇ってから沈むまでを、一時、三時、六時、九時と四つの課に分けているの。だから六時課っていうのは、ちょうど一日の半分を過ぎた辺りのこと」
「ふうん、なるほど……」
簡単に言えば、正午ということか。ざっくりとしているが、まあこの世界では何時何分、というような細かい配分など必要ないのだろうな。陽が昇れば活動し、沈めば寝る。それで充分だ。
……そうであるならば、私たちの遵守していた時間とは、一体何なのだろう。本当に必要な概念なのだろうか。
そんな途方もない思考を巡らせていると、どうやらアナは扉の開錠に成功したらしい。少し錆び付いた金属の軋む音の後から、周囲に漂う奇妙な臭いをさらに濃くしたような、強烈な臭気が鼻腔を突く。
薬品や生薬などの臭いには慣れていたつもりであったが、これはまた……ドクダミの生い茂る地面に顔からダイブしてしまったような、何とも強烈なものだ。声に出すほどではないものの、少々眉間に皺が寄る。
しかし、その一方でアスナは露骨に顔を背け、むせ込んでさえいる。これでは、せっかくの私の我慢が台無しである。
「すみませんね、ポーションの製造にはどうしてもタカジアスタ草が必要でして……私たちはもう慣れてしまったのですが、初めていらっしゃる方にはちょっと辛いですよね」
「いえ、むしろ失礼な態度で申し訳……ポーションの製造?」
はて、聞き間違いだろうか。私が今入ろうとしているのは教会の礼拝堂であり、ポーションの製造所ではないはずだ。
首を傾げる私に対し、鏡写しの如くアナの首も同様に傾く。
「えっと……先ほど説明しましたよね。礼拝堂とポーションの製造所は同一施設内である、と」
初耳である。そこで地面に這いつくばって吐き気を押し殺しているアスナはともかく、少なくとも私はその説明を聞いていなかった。それというのも、あのマイケルのせいなのだ。……いや、私のせいか。
しかし、そうであるならば……昼食よりもそちらの方が気になる。何せ、あの生傷を一瞬で治癒させた、衝撃的な薬品の製造所なのだ。腐りかけていた研究者魂を、これでもかと蘇生させた、あの製造工程を見ることが叶うのなら、是非ともお願いしたい。
いや、命に代えてでも!
「ごめん、アスナ」
「え……?」
その瞳に負けず劣らず青い顔となっているアスナの手を引き、強引に立たせる。そして、勢いよくアナへと頭を下げた。その勢いにより、背骨が少しだけ音を立てた。
「お願いします! その製造過程を見せてください!」
「え……ええ……?」
深くお辞儀しているせいで前が見えないものの、その言葉と雰囲気から彼女がどういう表情をしているのか、手に取るように分かる。実際に手を取っているアスナの方も、何も言葉を発していないが恐らく、アナと同様の表情を浮かべていることだろう。
しかしそんなことはどうでもいい。私の人間性に対する評価など、これっぽっちも興味はない。……言い過ぎた、ミクロスパーテル一杯分ほどは気にする。
それはともかく……今はポーションの製造過程、それだけ確認したいのだ。昼食はいつでも摂れるが、ポーションの製造については、もし急に元の世界へと戻されてしまったら、もう二度と拝めないのである。そうであれば、どちらを優先するかなど、火を見るよりも明らかだ。
「お願いします! どうか! ちょっとだけでもいいので!」
「……分かりました。順番が前後するだけですので、それは別に構いません。しかし、アスナさん、でしたか……あなたはそれで大丈夫ですか?」
「ああ、ええと……」
頭を下げたままの私と、一瞬だけ目が合った。私の想像通りの困惑した顔ではなく、彼女はなぜか少し笑顔を浮かべている。
何だ、一体どうしたというのだろう。先ほどまで空腹だと訴えていたというのに。
「……はい、大丈夫です。お願いします」
「そうですか、分かりました。では、私の後に付いてきてください。ちょっと暗いので、足元には充分お気をつけて」
まだ少々戸惑いの見えるアナであったが、その身を翻し建物の内部へと入っていく。その後を追いつつ、また私はアスナへこっそりと耳打ちした。
「……ねえ、本当に大丈夫なの? まだ青い顔してるけど……」
「ええ、あまり良くはないのだけれど……先に製造所の見学をすれば、この臭いに少しは慣れるでしょうから……だからリナは、先に見学しようって言ってくれたのよね? 本当に、ありがとう」
「……」
あの笑顔には、そういう意味があったのか。とんでもない誤解だ。幸いにも暗闇へと突入しているために、複雑な表情をしていることなどバレていないようであるが……ああ、心苦しい。
軽く胸を押さえ付けていると、また一つ、大きな扉が目の前に現れた。今度は鍵などかかっていないようで、アナのような細身の女性が軽く押すだけでも開いていく。そして、より一層の強い臭気が周囲を包み込む。
「こちらが、製造所です。まあ、製造所などと大仰に申しておりますが、実のところ三つの素材を煮出し、濾過して瓶詰めをするだけの施設でございます」
アナの言葉通り、広い室内に複数個の大きな釜のようなものがある。そしてそれらは火にかけられ、グツグツという液体の煮えたぎる音を立てている。想像よりも随分と簡素だ。こんなもので、あの魔法のような薬品が生まれるのだろうか。
「素材は三つだけ、なのですか?」
「ええ、タカジアスタ草……この臭いの元凶ですね。それと、赤い湖の水と土。この三つをおよそ半日ほど煮詰め、そして濾過しております」
土とは意外だが、一部の金属には化学反応を促進させる作用がある。あの赤い湖の土に含まれる金属のうちの何かが、タカジアスタ草に含まれる成分の熱に対する化学反応を促進させ、あのポーションが生み出されるのだろう。
しかし、鉄ならばともかく、酸化鉄(Ⅲ)にそのような作用があるとは考えにくい。あの水や土には、それ以外の……レアメタルのようなものが含有されているのかもしれないな。
「この透明な小瓶……ガラスというのですが、これはこの村では製造できませんので、近郊にある工業都市より購入しております。そして……ああ、これですね。こちらが瓶詰めされたばかりのポーションです」
「え?」
彼女から差し出された小瓶には、紫色の液体が充填されていた。私の飲んだあのポーションは、忘れもしない、目に痛い黄緑色だったと思うのだが……。
「これは……違うポーションなのですか?」
「いいえ、これが治癒ポーションの原液です。とは言ってもこの状態のものは猛毒ですので、これをさらに無毒化しなければなりません。その工程は、私たち教会の者にしか行えないのです」
無毒化は、教会の者にしかできない……となると、秘伝の技術か何かが存在するということになる。そうであれば門外不出の技術であろうし、見せてもらうことなど出来ないか。
「それは……見ることは可能なのですか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「え?」
あっさりとそう答えた彼女は、部屋の奥にある扉を開ける。思わず身構えてしまったが、その部屋からは強烈な臭いが襲ってこず、むしろ清々しい空気が流れ込む。
それもそのはず、その部屋は礼拝堂であった。青、緑、黄色と豊かな配色のステンドグラスから光が差し込む、何とも神秘的で美しい空間である。しかしどうやら一般人が立ち入り、祈りを捧げるような場所ではなさそうだ。
その最奥には、女神を象った大きな石膏の塊が鎮座している。そしてその女神の眼前には、ステンドグラスの光を受けキラキラと輝く色鮮やかなポーションが並べられていた。
驚くことに、そこに並べられたポーションはいずれも黄緑色であり、今私が手にしているものとは大きく異なっている。
「こ、ここは……」
「ここは、祈りの間。女神へと祈りを捧げることで、このようにポーションは無毒化するのです。これは、敬虔な信者のみにしか行えない神聖なる行為……私たちは、これを祈祷魔法と呼んでおります。ですので、この場を見せたところで何も問題ないのですよ」
「祈祷、魔法……」
確かに、ポーションは以前私の飲んだものと同じ色へと変化している。一見すると、確かに魔法とも思えるが……果たして、本当にそうなのだろうか。
考察を続ける私をよそに、ポカンと口を開けたままであったアスナが、ポツリと呟く。
「これが……魔法……」
「ええ。彗星の如く現れ、私たちを導いてくださった大いなる女神、リン・ミヤセ様が与えてくださった魔法です」
「え……?」
またもや聞き間違えたのだろうか。異世界から来た神様とやらは、確か私と同じ名前だったはず……まさか、同じ名前というのは……。
「あ、あの……リン・ミヤセと言うのですか? その、神様の名は……」
「ええ。数々の奇跡を生み出し、この国の栄華を築き上げた誇り高き女神の名です。……それが、何か?」
リン・ミヤセ――――私の本名、宮瀬 凛と一言一句違わない名を持つ女神。それが、この王国を支えた異世界からの転移者であり、魔法を駆使し各国を蹂躙した人物であった。




