変化(3)
玄関を出て、表札のすぐそばに立つ。数分後、「香耶ちゃん!」と、昨日も耳にした声があたりに響いた。そちらに視線を向ければ、ぴょこぴょこと跳ねる可愛らしいツインテール。
「葵」と口にして、思わず口元を緩める。葵はよりいっそう笑みを深め、昨日と同じように抱きついてきた。
「おはよ、香耶ちゃん」
「……おはよう、葵」
その挨拶をするだけなのに、いくらか気力が必要だった。変わると決意しているから。幸せになりたいから。今までの上辺だけだったものとは、香耶の中では意味合いが少し違った。
その変化を繊細に感じ取ったのか、葵は不思議そうに首を傾げる。だけど大したことないと判断したらしく、へにゃりと相好を崩した。「嬉しいなぁ。二日連続で香耶ちゃんと登校できるなんて」
その、心の底からの嬉しそうな声に、胸が切なくなった。人と距離を取りたくて、親友にも関わらず、あまり一緒にいられなかった。そのことがひどく申し訳ない。せめて今日からはきちんと一緒にいようと、改めて覚悟を決める。
とりあえずは――。
「行こう、葵。電車、行っちゃうよ」
「香耶ちゃんと一緒にいられるのなら、私はそれでもいいけどね。それだけ一緒にいる時間が増えるでしょ?」
にこりと無邪気に笑う彼女。嬉しそうに。幸せそうに。
――あたかも、その笑顔の先に幸福そのものがあるかのように。
思わず胸を衝かれながら、だけどそれを見せることなく香耶は微笑んだ。不器用に。
「大丈夫だよ。今日からはずっと、一緒に登校するから」
「…………え?」
驚いたように目を真ん丸にする葵。両親と似たり寄ったりな反応に、少しだけ微笑ましくなった。口元を緩めながら、言う。
「変わることに、したから」
幸せになるために。〝人殺し〟でも、幸せになっていいと言ってくれたから。
葵はきょとん、と、信じられないものを見るような目を向けてきた。それくらい意外なのだろう。ずっと縮こまり、他人に怯えて暮らしてきた香耶が、自ら動き出すのは。驚きのあまりか、足が止まっている。
少し先を進んでいた香耶はくるりと踵を返し、葵と向き直った。紺色のスカートがふわりと広がる。そうして、彼女が香耶の言葉を呑み込むのを待った。きちんと理解して、応援してくれるのを。
……しばらくして、葵は笑った。
「――そっか。これからはもっと一緒にいられるんだね」
その声は、いろいろな感情に満ちていて、昏迷を極めているように聞こえた。
葵と当たり障りのない会話をしながら登校する。今までと同じように、だけどなるべく自分からも話題を提供するようにして。これまでずっと葵に甘えきりで、支えられっぱなしだったから、対等な関係になるための一歩。それが、今の香耶にできる精一杯。
そうして駅のホームで電車を待ちながら、ふと気づいた。
(わたしのことなんて……あまり、人は見てないんだ)
駅にいる人はみんな思い思いに会話をしたり、スマホをいじったりしている。イヤホンをして、音楽を聴いている人も。どちらかと言うと一人きりで過ごしている人が多くて、香耶のことを――〝人殺し〟のことを気にしている人なんて、見ている限りどこにもいない。ちらっと見られるけれど、それもほんの少しだけ。罵倒されることも、嫌悪の視線を向けられることも、ない。
自意識過剰。ふとそんな言葉が思い浮かび、顔を顰めた。他の人全員が香耶を疎んでいると、そう心の底から信じていた自覚はあるけれど、現実ではそうではなくて。それは正しく〝自意識過剰〟ではないだろうか。
(だったら……)
今までの生活はいったいなんだったのだろう。自意識過剰にも他人からの悪意に怯え、自分の殻に引きこもっていた。塞ぎ込んでいた。そんな生活になった意味は。
寂寥が胸中を吹きすさぶ。虚しくて、悔しくて、苦しくなった。長年の悲しみが、苦しみが、意味のなかったものだと否定されて。ぽっかりと、穴が空いたような無力感。虚脱感。
「香耶ちゃん?」と、葵に呼びかけられた。彼女のほうが身長が低いため、上目遣いで見つめられる。
香耶はにっこりと笑った。安心させるため。
「なんでもないよ」
そう言って、気持ちを抑え込んだ。
間もなく電車がやって来た。人の流れに沿って乗車し、満員ではないけれどそれなりに窮屈な思いをして、ほんの少しして高校の最寄り駅に着いた。高校までは、歩いて十分ほど。それなりに近い。
その間もぽつぽつと葵と会話をして――だけどその内容は、今までしていたのとは少しだけ違った。授業の話や、近ごろ人気のカフェの話とか、〝普通〟の女子高生がするようなもの。今まで二人の間ではしたことがなかったもの。香耶があまりそういう話を好まなかったから。
だけど今は不思議とそんな感情は抱かなくて、むしろ楽しかった。知らない店の名前ばかりだけれど、それでも。
ほとんど途切れることのないそんな会話は、学校に着き、それぞれの教室に入るために別れるところまで続いた。「じゃあね」と言って、それぞれの教室に入っていく。
教室に入った途端、ぴたりと声が止んだ。そのことに、静かに落胆する。教室では前と変わらないみたい。
そっと目を伏せて自分の席へ向かう。一番窓側の列の前から四番目。景色が良いことが高ポイント。居眠りするときは窓に寄りかかれるし。
席に座って鞄の中から荷物を出そうとして、ふと、昨日、彼が言っていた言葉が脳裏に浮かんだ。
――自信を持てばいい。〝人殺し〟なんかじゃない、人に生かされたんだって。
自信。〝人殺し〟なんかじゃない。そんな言葉をもらって、幸せになるためにそうしようと思っていたのに……今の香耶は違う。教室に入るとそんなこと頭から抜けてしまっていた。いつもと変わらない反応だから。
だけど、それではダメ。
(……大丈夫)
深呼吸をした。暴れそうな心臓を落ち着ける。大丈夫、わたしは〝人殺し〟じゃない、と、そう自らに言い聞かせて、鞄から荷物を取り出すことなく、香耶はいつの間にか賑わいを取り戻していた教室を見回した。
ちょうど、隣にいる女の子が一人きりだった。片手でスマホを持ち、長い指で画面をタップしている。もう片方の手でウェーブしている長い髪をいじっていた。つまらなさそうに。
「――あの、」
彼女がこちらを向いた。ばっちり化粧をされた華やかな表情には、嫌悪の色。煩わしそうに、香耶を見つめてくる。
――正直、怖かった。拒絶の色。幾度となく向けられてきたそれは、香耶のトラウマを刺激する。かつて、友人〝だった〟子に手を振り払われ、侮蔑の瞳を向けられ、「人殺し」と言われた記憶がふと浮かんだ。思わず手が震える。胸が苦しくなる。
それでも、香耶は必死に口を開いた。
「――……おはよう」
掠れた挨拶。ほとんど声になっていなくて、情けなくなった。こんなんじゃより嫌われるだけだろう。そう思い、そっと目を伏せようとしたとき、目の前の少女がにっと口端をつり上げた。
「おはよう」
思わず目を見開いた。夢ではないかと思い、目をこする。手の甲をつねる。だけど目の前で笑う少女が視界から消えることはなくて――。
香耶は、そっと口元をほころばせた。