変化(2)
――夕方。黄昏時。香耶は重たげに影を引きずりながら、駅から公園に至るまでの道を歩いていた。昨日に続いて今日も普段とは違って、ひどく疲れた。葵と一緒に登校したから、いろいろな人の視線に晒されて……。しかも葵は「ねぇ、明日も一緒に登校しよ? 帰りはバラバラだからさ。私、香耶ちゃんともっと一緒にいたい」と、それぞれの教室に入るための別れ際、言ってきた。
……正直、かなり戸惑った。葵と一緒にいるのは、別にいい。香耶も彼女のことが大好きだから。だけどそのせいで登校時間が早まって、無遠慮な視線に晒されるのは、嫌。たえられない。
結局、「できたらね」と曖昧にぼかして、その場を乗り切った。明日の朝までに結論は出さないと。
はぁ、と、息をついた。悩ましいことは、他にもある。――このまま公園に行くかどうか。
公園に行っても、おそらく一人にはなれないだろう。昨日会った少年。彼は「またね」と言っていた。それならば……おそらく、今日も来る。彼と、会うべきなのだろうか? 「幸せになってもいいんだよ」と言った彼に。
(どう、しよ……)
会いたい、という気持ちはある。香耶だって普通に幸せになりたい。だけどそれが、求めてもいいものなのか、そうでないのか、まだわからなくて……。それに、もう一度彼に会ってしまったら、彼の言葉にすがりついてしまう。幸せになろうとしてしまう。そういう確信があったから、このまま行くべきかどうか、迷っていた。
足を止めた。風が吹く。冷たい風。十一月末――秋の気配が消え去り、冬の気配が次第に濃くなってきている季節。それなのに、やかましいセミの音が聞こえてきた。……あの夏の日の記憶。
ちらちらと脳裏で赤が瞬く。力のない、糸の切れた人形のような体躯も。黒いアスファルト。揺らぐ陽炎。悲鳴。救急車。サイレン。心配げな隊員。そして――。
――〝人殺し〟。
そう言ったのは、果たして誰だっただろうか。事故に遭ったあとのことは曖昧で、よく覚えていない。ただ、その言葉は香耶の胸に突き刺さって、今なお苦しめ続けている。
記憶と現実が入り混じる。カーン、カァーン……と、遠くからかすかに鐘の音が聞こえてきた。カラスの鳴き声。きゃっきゃ、という子どもたちの楽しげな声も。
……しばらくして突然腕を引かれて気づけば、どうやらずっと立ち止まっていたらしい。小学校の低学年だと思われる女の子が二人、香耶の足に絡みついて心配げな表情で見上げていた。「おねーちゃん、どうしたの?」「具合悪いの?」
「……何でもないよ」
それだけ言って、香耶はやんわりと子どもたちを引き剥がすとそのまま駆け出した。向かうのは公園。――正直、まだ迷いはある。だけど、救われたいと願って何が悪い。香耶だって幸せになりたいのだから。
迷いを振り払うように、足早に公園へ向かう。やはり影は重たくて、着くまでの道のりがやたらと長く感じられた。
カーン、カァーン……と、午後四時を知らせる鐘の音が聞こえてきた。毎日聞くこれは結婚式場のものらしい、と、かつて噂で聞いたことがあった。……本当かどうかは、誰にも尋ねたことないから知らないけど。
そんなことを思いながら歩いていると、公園に着いた。中には、人っ子一人いない。
カラカラ、と枯葉が舞った。
「…………」
少しだけ落胆して、だけど安堵もしながら、香耶は鞄を地面に置くとブランコに腰掛けた。キィ、と錆びついた音。悲鳴みたい。
ぼんやりと周囲を眺める。住宅街に囲まれた場所にあるが、冬が近づいてくると日の入りが早くなるからか、それとも寒くない屋内で遊んでいるのか、人っ子一人いなかった。居心地が良い。人と関わるのは、苦手だから。
視線を上に向けた。紺に近い空が広がっている。あと三十分ちょっとしたら、日が沈む。細い月が空に浮かんでいた。
……それに向けて手を伸ばし、握った。もちろん触れることはない。指は虚空を掻く。それでも、なんとなく、そうしたくて。
「――昨日ぶり」
声が鼓膜を揺らして、香耶は慌てて腕を下ろし、何もないふうを装って視線を前へ向けた。昨日と同じく制服姿の彼がいた。名前も知らない人。香耶を叱ってくれた人。
――幸せになってもいいと、言ってくれた人。
「昨日ぶり」と返して、香耶は頷いた。少しだけ期待が膨らむ。幸せになりたいという欲求が心を侵食していく。……迷いは、あるけれど。それでも。
彼は柔らかに微笑んだ。
さぁ、と風が吹く。制服のスカートが揺れた。「あの……」と呼びかける。息を吸った。
「――わたしは、幸せになってもいいの?」
その言葉に、彼は目をわずかに見開いた。数秒後、優しく目を細め、頷く。「当たり前」という言葉に、涙が出そうになった。
香耶はほっと息をつく。……迷いは、もうなくなっていた。
「……幸せに、なりたいの。だから、教えて。わたしのこと。直したほうが良いこと」
彼は「簡単だよ」と言った。
「自信を持てばいい。〝人殺し〟なんかじゃない、人に生かされたんだって」
「……それを、あの人が望む?」
あの人――香耶を助け、死んだ男性。彼の意思を確認する術はない。だからずる賢くも、尋ねた。自分に自信が持てないから、代わりに彼にそれを肯定してもらおうって。
案の定、彼は頷いた。力強く言う。
「うん。――絶対に」
その言葉は妙に確信に満ちていて――だけど香耶はそのことを気にすることなく、ほっと息をついた。
茜色の光が、一段と強くなった気がした。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
翌日。今日も今日とて目覚まし時計に叩き起されると、香耶は素早く着替えを始めた。こぼれそうになるため息をこらえて。
(大丈夫……)
そう言い聞かせるが、指が震えてしまう。上手くスカートのホックが引っかからない。指先に力が入りづらくて、やっと身だしなみが整え終わったときにはいつもと同じ時間だった。時計を確認して、慌てて香耶は部屋を飛び出す。ドタバタと階段を下りることになって騒音が家中に響いたが、そんなことまで気にしてられない。どうせ両親はいつものように朝食を食べ始めているのだから。
リビング兼ダイニングに駆け込むと、すぐさま食パンを焼き始めた。コップを出してお茶を飲み、一息つく。今日も急がないと。起きる時間、早めたほうがいいのかもしれない。
そんなことを思いながらコップをテーブルに置くと、居住まいを正した。深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。……大丈夫。そう言い聞かせ、目を見開いてこちらを気にしている両親に向かって、言った。
「おはよう」
両親がさらに目を真ん丸にした。漫画だと絶対に飛び出している、と確信できるほどの、見事な驚きっぷり。それを笑いたかったけど……緊張や不安で、無理だった。拒絶されやしないか。
……沈黙がおりた。テレビの中には一面の銀世界。昨日の大雪の名残らしい。柴犬がその中を駆け回って雪だらけになる映像が流れた。
そのとき、両親がそっと顔を見合わせた。そして戸惑いがちに、「お、おはよう」と返してくる。混乱の色合いが濃いけれど……拒絶されたわけではないみたい。ほっと息をついた。
チン、とトースターが鳴る。それを引っつかむと、香耶は大口で食べ始めた。早くしなければ葵が先に行ってしまうかもしれない。それは避けないと。
食べ終わるとすぐさま身だしなみを整え、歯を磨いて香耶は玄関を飛び出した。
「行ってきます」と、両親に声をかけて。




