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変化(1)

 ――君は幸せになってもいいんだよ。


 その言葉が、ぐるぐると頭の中で渦巻く。

 夜。自室のベッドでごろごろと転がりながら、香耶は今日の夕方に言われた言葉について考えていた。幸せになってもいい。それは、あの日以来一度も、誰も言ってくれなかった言葉。今更言われても、戸惑いのほうが大きい。


(そもそも……本当に幸せになって、いいの……?)


 わからない。今までずっと、〝人殺し〟だと言われてきた。だから幸せになってはいけないと、自らを戒めてきた。葵がいたから、まったく不幸(ふしあわ)せだったとは言えないけれど……それでも、この国の人が当たり前に受け取るはずだった些細な幸せは、捨ててきたつもりだ。……たぶん。

 とにかく、香耶は〝人殺し〟らしく生きてきたつもりだった。それが急に、幸せになってもいいなどと言われて……。


(そういえば、彼……『悲劇のヒロインぶっている』って言ってた……)


 そんなんじゃ死んだやつも浮かばれない、とも。……つまり、香耶庇って命を落とした男性のためにも幸せになるべき、ということだろうか? もしかしたらどこかで意味をかけ違えているかもしれないけど、彼が言っていた内容をまとめると、そうなる。だから『悲劇のヒロインぶっている』と怒られたのだろうか? 幸せになろうとしないから。

 でも、香耶は〝人殺し〟だ。それなのに幸せになっていいはずがない。


 はぁ、と思わずため息をついた。頭がパンクしそう。いや実際そうなっている。もう何も考えたくない……。

 考えるのを止めて枕に顔を埋める。ちょっとだけ……と思い、目を閉じた。今日はひどく疲れた。久しぶりに〝まともな〟会話をして、声を出して笑って……。そのせいで疲労はすさまじいことになっていたが、不思議と嫌な感じはしなかった。むしろもっと会話をしたいと、思う。


(わたし、は……)


 おそらく求めていたのだろう。今日のような、真っ当な幸せを。些細な日常を。幸せになどなってはいけないと自らを戒めながらも、幸せになってもいいと言われた途端、天秤がそちらに傾いてしまうほど。今、幸せになることに戸惑っているのは、たぶんただのプライド。今までの人生を無駄にしたくないというエゴ。それだけ。


 ぐるぐるぐるぐると、頭の中で今日の光景が浮かんでは消える。夕焼けに染まる公園。出会った彼。遠くから聞こえる鐘の音。四時三十分を指す時計。「幸せになってもいい」と言ったときの、彼の黒い瞳。そして――タップダンスを踊る女装シンデレラ。

 つい思い出してしまい、香耶は腹を抱えて笑った。今度は笑いを抑え込もうとはせず、すべてをさらけ出すように。

 ――今は幸せだと、そう確信できた。

 罪悪感は、今だけは気にならなかった。



   ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 翌朝。いつものように目覚まし時計に叩き起されると、香耶はその場で着替えを始めた。あまり家族とも顔を合わせたくないため、いつの間にかできていた習慣。無言でご飯を食べて歯磨きをしたら、すぐに家から出られるように。


(……だって気まずいし……)


 あの日からしばらくの間は、いつも通りを装って接してくれていた。だけどそれに応えられずにいると少しずつ会話が減っていって……いつのころからか話さなくなっていた。声も、ほとんど聞かない。そんな家の中は居心地悪くて、香耶は自室にこもりっぱなしだった。

 はぁ、とため息をつく。ここにいたら嫌でも家のことを気にしてしまう。学校に行ったら行ったで憂鬱だけれど……今は早く家から離れたかった。


 手早く制服に着替えると、香耶は鞄を持って部屋を出た。階段を下りて一階のリビング兼ダイニングに着けば、そこにはすでに両親がいてトーストをかじっていた。香耶もすぐさまトースターで食パンを焼いていく。できあがるまで五分。ぼんやりと、ついていた朝のニュース番組を眺める。どうやら十年に一度の大寒波が早くもやって来て、東北や北海道では大雪が降っているらしい。画面がほぼ真っ白の中、リポーターが必死にしゃべっている。こんな天気でも外に出ないといけないなんて……かなり大変そうだ。


 ぼーっと見ていると、「香耶」と呼ばれた。低い声だった。

 空耳かと、最初は思った。もう何年も、父に――というよりは両親に名前を呼ばれたことなど、なかったから。だけどちらりとテーブルの対面に座る父に目を向ければ、彼はこちらをまっすぐ見ていて、そうじゃないことが窺える。


(な、なんだろ……)


 もしかして、高校から連絡でもあったのだろうか? 『留年しそうだからきちんとさせてください』? いやでも、成績はそれなりに大丈夫だろうし……だったら生活態度? ……覚えがありすぎる。自慢じゃないが、友だちと呼べるのは葵くらいだと断言できる。

 そんなことを思いながら内心震えていると、父が口を開いた。……が、声が出ないらしく、何も言うことなく口を閉じた。――珍しい。こんなふうにバツの悪そうな父、初めて見た気がする。いつも、不機嫌そうに黙りこくっているから……。


 父はもう一度口を開いたが、またもやぱくぱくと動かしただけで口を閉じた。ちらりと隣にいる母のほうを見て助けを求めたようだったが、母も首を振るだけだった。

 ……沈黙がおりる。テレビの中では可愛い動画特集で、猫が何故か鏡餅状態で眠っていた。とても可愛らしいものの、一番下の子は寝苦しそう。


 そのとき、チン、と、トースターが焼き終わったと告げた。香耶は椅子から立ち上がってこんがりと焼き上がった食パンを取り出すと、マーガリンをまんべんなく塗って口に入れる。気まずいから早くこの場から離れたくて、いつもより大口で。

 食べ終わったら何も言わない両親を放って顔を洗って髪を整え、歯を磨く。そのままそそくさと家を飛び出した。無言で。


 青空の下に出てコンクリートを踏むと、少しだけ息がしやすくなった。ほっと胸をなで下ろして、ゆっくりと歩き始める。駅はすぐ近くだ。そこから二駅分乗っていれば、高校の最寄り駅。

 だけど。


(どうしよ……)


 いつもより早く家を出たから、必然的に乗る電車も早くなる。けれどあまり高校にはいたくない。ギリギリの時間に着いて、なるべく人と関わりたくなかった。

 ……〝人殺し〟だと、蔑まれるから。

 そのとき、ふと公園を思い出した。昨日、少年と会った近所の公園。そこだと、たぶん、朝早くだから人がいないはず。いつもの電車が来るまでの時間つぶしにはちょうどいい。

 そう思って、歩き始めようとしたときだった。


「香耶ちゃん!」


 大好きな声が背後から聞こえてきて、香耶は振り返った。そこには可愛らしくツインテールにした少女。香耶と同じ高校の制服を着ていなければ、中学生、はたまた小学生にでも見まごうほどの身長。

「葵」そう呼びかけて、香耶は頬をわずかに緩める。少女――葵は勢いよくこちらに駆け寄ってくると、ぎゅっと抱きついてきた。衝撃で、一歩下がる。ローファーがコツ、と可愛らしく鳴った。

 葵は一旦離れると、にぱっ、と笑った。


「おはよう、香耶ちゃん! 今日は早いんだね!」

「おはよう。葵も……」

「私はいつもこの時間だよ。ねぇ、ほら、行こ! 香耶ちゃんと登校できるの、久しぶりだなぁ……」


 そう言う葵は心底嬉しそうで。

 香耶の胸がちくりと痛んだ。同じ小学校、同じ中学校、同じ高校に通っているのに、ずっと一緒に登校できなかったのは、香耶があまり学校にいたくなかったから。遅刻寸前の時間に着くから。そのせいで葵に負担をかけていたことに、今まで気づいていなかった。親友失格だ。

 思わずうつむくと、「香耶ちゃん?」と葵に呼ばれた。不思議そうな顔。純真無垢で、香耶が〝人殺し〟でも気にしない彼女が、香耶は大好きだった。だからこそ心配はかけたくないし、負担をかけたくもない。


「……なんでもないよ」


 そうとだけ言って、歩き始める。

 会話のない通学路。だけどそれだけで充分だった。

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