14
アリがこの施設を発って、数時間は経っただろうか。イコもまた、男の部屋から実験場に赴いていた。
どこがいいだろう。漠然と悩んで、一番外側の、第一実験場でいいか、と、さらに歩を進める。
少し前だったら考えられなかった、と、最近はよく思う。同時に、自分は薄氷を踏むような、危うい均衡に支えられていたのだと気付いた。
一体踏み割ったのは、いつだったのだろう。
ゼロが目覚めてから? シフとハロエスを二人きりにしてから? それとも、アリが来たから? 最後にそれを考え、口元に微笑を浮かべる。さすがにそれはないか。
「……薄ら笑い浮かべて立ってんのもどうかと思うがな。気味悪い」
久しく聞かなかった声に、顔を上げる。シフと、傍らには、ウツロより少し成長した、自分の器を見付けた。
「わざわざ自分から死に場所で待っていたのか? お前、前から思ってたけど被虐趣味でもあんの?」
「こんにちは、シフ。その子は?」
シフの挑発を聞き流して、質問を被せる。シフが露骨に顔を歪めた。その間にイコは少年に近寄り、威圧しないようにとしゃがんでから問い掛ける。
「君、名前は?」
少年が無表情ながらも、戸惑ったように首を傾げる。それからか細い声で、
「……わ、アワ。アワ」
「アワ? 泡沫の存在、とでも言うつもりなのかな……。何だか可愛らしい音の響きだ……っ」
背後から、容赦なくシフが背を蹴り飛ばす。ごきり、と骨の折れる音がした。
アワが小さく悲鳴を上げている。ウツロと似ているな、と床に転がりながら思った。
「あまりあれに近寄るな。殺されたらどうすんだ」
イコの背骨を容赦なく折った本人はといえば、アワに対して忠言めいたことをしている。
きっと役目が終われば、捨てるだろうに。それを横目で見ながら、足に力が入らないことを思い出し、仕方なく少しだけ再生した。また、腹の中で植物がざわりと音を立てる。
けれども、弱った姿を見せることはしない。いつも通り、どれだけ壊されても元に戻る「化け物」を意識して「ひどいことするね」と起き上がった。アワの顔が強張っていた。
「お前程度、それくらいなら怪我にも入らないだろ」
思い切り入っているけど。肩を竦めつつも、内心でそう返答し、
「それで、死に場所って言っていたね。もしかして、僕を殺すつもり? 君が、僕を?」
シフの顔が赤らむ。鋭い視線にはやはり慣れず、少し怯むが、それが表に出ることはなかった。シフもシフで、イコのあからさまな挑発には乗らず、ふん、と鼻で息を吐き、
「そのためのこれに決まってるだろう。何のために連れてきたと思ってるんだ」
「盗み出した、の間違いじゃないの?」
「……まあ、いいさ。今に後悔させてやる」
まあ、結果なんて分かりきっている。シフが意気揚々とした姿を見せれば見せるほど、イコもまた、内心では申し訳なさと、白けたような感情が同居していた。
だから、アワがシフの顔色を窺いながらこちらに来ても、何もしない。
何より、イコはまだ、死にたくないのだ。まだやるべきことだってあるし、その先が決して明るくなくとも、最後まで、自らの意志によって死を選ぶことはしないと、決めたのだから。
ならばいっそ、煩わしくならないように、ここでぽっきりと折ってしまった方が――……
「あの、ごめんなさい。あなたに恨みはないけど、彼は怖いんだ」
申し訳なさそうな顔をするアワに、大丈夫、と軽く笑い、
「は」
目線が、どこかに飛んだ。
天井? いや、逆さに、逆さの世界が、シフが見ている。笑って、床、床は赤く。
首を斬られたのか! よくよく首を狙う奴が多い。
いや、そんなこと考えてる場合じゃない。今はまずい。今は――……
無理に治すのは自殺行為だが、今はすぐに首を付けなければ。ごろりと頭を転がすと、アワが時間を巻き戻す姿が見える。
首のない胴体で、頭を探す。と、どれだけ力を使おうと、未だ動き続けるイコの身体に、シフが憤りを隠しもせずに駆け寄った。
体が横倒しにされる。シフが蹴飛ばしたらしい。
「足癖……わる……」
シフの喚く声で、頭ががんがんと叩き付けられた。頭痛が酷い。耳鳴りもする。霞む視界で、倒れた体を確認する。頭の代わりに白百合が咲き乱れていた。内側から食い荒らされているせいで、寄生されたような気味悪さがある。
ころころと頭を転がし、左腕を伸ばして急いで胸の前に抱え、右手で白百合を引き抜く。ぶつぶつり、と、嫌な音がする。新たに咲き誇るよりも前に、急いで首を接合し、起き抜けにアワの方へ一足で飛んだ。枝のように痩せ細った両腕を容赦なく折って捩じる。同時に棘付きの蔓で足を縛り上げ、折れた腕と一緒に捩じ切った。
アワの口から、甲高い絶叫が響いた。また、頭痛がぶり返す。
手心を加えることなど、既に頭から抜け落ちていた。アワの細い体を棘付きの蔓の枝で締め上げ、ぎっちりと棘を食い込ませる。種類の違う痛みを幾つも受けて、アワが泣き叫んだ。
「いやあ、助け……! いたぁ、やぁああ!!」
その目は、シフを捉えている。だが、彼は舌打ちを一つしただけで、助ける素振りを見せなかった。
肺に何かの蔓が絡むせいで何度も咳をしながら、
「可哀想にね、げほ、シフ、慕ってくれてたん、ごほ、だろうに」
「これでも殺せない、か。となると、不死ではないのか? お前は一体何の力を有しているんだ……?」
「ねえ」
「聞いてるさ。どうでもいいから無視しただけだ。……使えないなら、もう用済みだしな」
「……っ、ああぁああぁぁあぁああ゛!!」
アワが泣き出す。絶望に濡れた瞳が、シフを追い掛ける。
だがシフは、血を失い、死に絶えるその瞬間になっても、アワを見ることはなかった。
シフが思考を巡らす間に、落ち着いて内臓の植物を抑え込む。どれもこれも重要な臓器にまで手を伸ばしているせいで、体中が悲鳴を上げていた。
でも、まだ。シフの前では、何ともないように振る舞わなければ。
最早イコは、精神的な優位性を取らなくては、シフの心は折れないと気付いていた。なればこそ、ここで弱みを見せてはならない。小さく歯を食い縛って覚悟を決め、平気そうな、淡々とした声で「それで?」とシフに問い掛けた。
「頼みだったアワは死んだよ。それでも、まだ僕を殺すことは諦めないの?」
「そうだな。信じられないが、お前は不死ではない、別の何かを持っている、と考えた方が妥当だろう。それに、あれも全くの無駄死にというわけでもなかったしな」
「というと?」
言いながら、背筋にひやりとしたものを感じる。
シフは、こちらを――正確に言えば、イコの首辺りを指した。
「いつもより、妙に植物達が言うこと聞いてなさそうだったよな? 暴走でもしたのか何なのか知らんが、俺が気付いてないとでも思ったか? ……正直なところ、俺程度の能力じゃ大した傷は与えられなさそうだが、まだ好機はありそうだ」
にや、と笑う顔から、縦線が入る。次いで顔を覗かせた内から、薄黄色の、拳ほどの大きさをした何かが、幾つも飛び出してきた。中身全てを吐き出した皮が、最後に同じものに――拳ほどの大きさで、大きな二対の複眼、ぎちぎちと鳴り響く牙、背にてらてらと光る羽に、人に似た体形を持つ上半身、黄色と黒の縞模様が特徴的な、細長い胴と四本の足を持つ――蜂の姿に変わった。
「毒が回ったところで意味もないだろうし……とりあえずお前の体の全てが植物で埋め尽くされるまで、のんびり針治療でもしていろよ」
大きな灰褐色の複眼が、全てこちらを向いていた。
シフの能力は「細分化」「針」「蜂」だ。
彼自身、全て終わった時に、失敗した、と言っていた。最後が蟻であれば、まだ俊敏性があったから良かったのに、と。
飛ぶことは出来ても、シフの蜂は遅かった。イコだけでなく、男ですら目で追えるくらいには。
他にも理由はあるものの、だからこそ、男にもここに残ることを許され、大人しく事務作業を手伝ってくれていたわけだが……
「……随分と見る間に、成長したもんだね……!」
ぶぅん、と耳元を羽音が掠める。幾つもの軌跡を避けつつも、縦横無尽に動く、たくさんの毒針を全て避けることは難しかった。
床を軽く爪先で叩きつつ、局所的に草花で盾を作りながら、羽を千切って頭を潰す。しかし数が多い。一つにばかり目をやっていると、他の蜂がイコに襲い掛かって来る。
「お前が俺の攻撃を避けるとなると、やはり直接的な攻撃が一番効くのか? 何があったかは知らんが、これは嬉しい誤算だな」
「だって痒くなるじゃん。いくら僕でも、延々と痒みを我慢するのは嫌に決まってるでしょ」
言えばいいのかもしれない。これ以上、致死に至る傷を増やせば、その分自分は死に辛くなると。
いや、もしくは。
「強がりも大概にしとけ。早く『お前』を殺してやるからさぁ!」
ぶん、と五匹の蜂が、勢いを増して突っ込んでくる。慌ててしゃがみ、次いで蜂が少ない方へ飛ぶ――と見せかけ、殺到するそれらをこっそり床に根差していた、幾つもの巨大なハエトリグサで潰した。上手いこと半数以上の蜂が捕まってくれたらしい。鋭く息を吐く。
蜂が忌々しげに悪態をつく。
「まだるっこしいなっ! もう少し大人しくしていれば、手心加えたまま殺してやったものを……!」
「シフ、もしその行動が、僕を死から遠ざけると言ったらどうするのっ!?」
「冗談も休み休み言えと返すだけさ!」
聞いちゃいない。蜂は爛々と目を輝かせ、興奮したように笑い出す。久しくなかった戦闘行為に溺れている。
――だが、お陰で動きが単調になってきた。
蜂を避けつつ、五角を描くように床を叩き割る。露出した地面に足先を突っ込み、種を蒔く。
足元で察せられないよう、攻勢に出るような動きを意識した。腕から生やした蔓で無造作に蜂を捕らえて握り潰した。挑発するように、見せびらかしながら頭から喰う。
「僕を殺すと息巻くより、自分の身を案じた方がいいんじゃない? その蜂全部死んだら、君の負けだよ?」
「ほざけ!」
無駄に動き過ぎて、少しふらついた蜂が一斉に飛び込んでくる。じりじりと待って、待って、そして。
大きく描かれた五角の溝から、棘付きの蔓が勢いよく飛び出てきた。
――それはさながら、鳥籠のようだった。
「くそ、出せ! 死ね、くそったれ!!」
中から威勢のいい怒声が響く。ただ、それは普段の男と同じ直情的なものなので、怯むことはない。あの小さな体で無理に穴を開けようものなら本当に死ぬことは分かっているのであろう。シフは、声を荒げるだけで、抵抗らしい抵抗はしなかった。
「シフ」
「うるさい、死んでしまえ、お前なんて死んでしまえ!」
「シフ」
「うるさいって言って……!」
「シフ」
「黙れって言ってんだよ!」
癇癪を起こして、蜂が一匹茨の棘に勢いよく突き刺さった。
それでも、言わねばなるまい。
「シフ」
返事はない。けれども、根気強くイコは繰り返した。
「シフ、ねえ、聞いてる?」
……少しして、根負けしたらしく、シフが「なんだよ」と小さく返す。やっと答えて――こちらの話を聞いてくれた。それが嬉しくて、少しだけ顔が綻んだ。
「あのね、シフ。僕、シフに言ってないことがあってね」
「へえ」
「実は僕、最近になって死ねなくなったよ」
「へえ………………。……は?」
頓狂な声がした。中が俄かに騒がしくなる。
「ちょっと待て、どういうことだ?」
「どういうことって、そのままの意味だけど」
「じゃあ今さっきのは何なんだ! 俺をからかってたのか!?」
「そういうわけでもないけど。ただ、本来予定されてたよりもずっと早くに、『僕』という個人の意識なら死ぬ、かもしれないけど……」
びち、と湿った音が聞こえる。また一匹、蜂が突っ込んで死んだらしい。
「……やっぱりそういうことかよ……!」
憤りを露わにシフが呻いた。
「俺からしたら『お前』が死ぬならそれでいいんだよ! お前の存在そのものが消えれば、それで……!」
「シフ……」
それほど。
それほどまでに、彼は、イコを認めたくなかったのだろうか。
本当に、彼は――……
「君の望みは、僕の肉体的な死だけでは足りないの……? 僕という意識が消えることが、望みだったの?」
イコは目の前の鳥籠に触れながらしゃがみ込んで、問い掛ける。
「シフが望む『僕の死』は、本当は何だったの? ……肉体な死を望むだけだったのなら、きっと、君が生きてる間では叶えてあげられない。僕という意識を殺すことだとするなら、僕は本当に君を殺さなくちゃいけない」
「…………俺、は……」
蜂の声は低く、微かに掠れている。声色だけでは、シフの心境が分からない。
けれど、恐らく――……
「なら、俺は、死んでもお前を呪い殺す。お前に、軛を入れてやろう」
ああ、と嘆息する。先程、少しだけ揺らいでいた声もまた、確固たる意志に――殺意と、呪詛の響きだけがあった。
「…………そう。なら、シフ」
蜂は、答えない。ただ、羽が小刻みに震えるような、かさかさとした音だけがする。
「――またね」
鳥籠がぎゅるり、と少しずつ隙間を埋めるように、捻れて縄のような形になっていく。
中で、ぱきぱきと、それから湿ったような音が後に引いて、やがて鳥籠の動く音に掻き消されて聞こえなくなった。




