01
――記憶の始まりは、いつだって、殺風景な灰色の空の下だった。
大量の火薬兵器や人体実験に使っている化学薬品が、空を、海を覆って、緑豊かな自然というものは既に絶えて久しい小さな世界。それこそ、少年の知る、この世界の全てである。
記憶の始まり。煙が巻き上がり、砂埃が舞い、泣き叫ぶ幼子や恐慌する年若い人間が、見下ろす先にひしめき合う姿だった、気がする。
この少年、名を持たず、研究者に付けられた記号のような数字だけが、一個体として認識される、唯一の術であった。
本当の名があったのかもしれないが、彼自身、過去の記憶がない。けれども今までの間で困ったことはなかったし、これからだってないだろう、と思ってはいる。
さて、なぜ訥々と意味もなく思索していたのかと問われれば、ひどく単純なこと。
暇だったのだ。
強化硝子を嵌め殺しにした小窓から茫洋と外を眺めていると、すぐ傍で、男の声が少年を呼ぶ。退屈そうな態度が、露骨過ぎたらしい。
とある小さな研究所の一室には、彼と、唯一の研究員である草臥れた男と、新たに外から買われてきた、二人の少年が立っていた。
一人は、小柄で、怯えを隠すように警戒した表情をしている。もう一人は大柄で、この短時間に、何度も腹の鳴る音が聞こえていた。よほどの大食漢なのだろう。
男が、何かの薬液が入った注射器を二本、白衣から取り出した。歯を剥き出しに見せて笑ったせいか、小柄な少年の体が小さく震えた。
「おう、お前らを集めたのは、これをするのがぁ目的だ。これぁな、適性を図るんだよ。で、お前らが使えるか分かるわけ。分かったなぁ? じゃあ、刺すぞぉ」
「待って、ください。何の説明もないまま、一体何を……? それは何……」
ぼそぼそと、小柄な少年が訊ねれば、男はすぐさま顔を紅潮させて、小さな体を蹴り飛ばした。
「誰ぁ質問していいっつった? ……言ってねぇだろうが。口答えすんじゃねぇよ、クソ餓鬼が!」
「うぁ、ひっ」
気分屋の男が、感情も態度もころころ変えることは、よくあることだ。けれどもそれも知らない彼からすれば、蛇に睨まれた蛙のような気分だろう。小さく呻き、それから喉の奥が引き攣っていた。
逆に、一切発言すらしない大柄な少年は、そんなことすら目に入っていないようで、緩慢せずを貫いていた。図太いものだ。
少年は再び、小窓から、灰色の空を眺める。時間潰しだ。
ある程度の時間、癇癪を起こさせ、罵倒と怒声を、多少の暴力を交えて相手に浴びせ続けさせれば、男の気分が平生に戻ることを知っていた。
怒りがやや下火になったことを確認した上で、少年が男に声を掛ける。
「父様、時間もないし、早く始めるべきだと思いますよ」
皮肉めいた、形の崩れた敬語を聞いて、男がこちらを振り返った。大きな舌打ちを一つ落とし、崩れた白いタイル床に転がる小柄な少年の腕を勝手に持ち上げ、注射を打つ。腹が収まらないのか、それからもう一度軽く頭を蹴って、大柄な少年にも同様の注射を打った。
「飯食えるか」
「成功すりゃあなぁ」
ふうん、と厚ぼったい瞼を半分以上落として、大柄な少年が汚い床に座った。立ち続けることに疲れたようだ。
変化があったのは、数十分は経った頃だった。
その頃には、ふらつきながらも立ち上がれるようになった小柄な少年も学び、男に疑問をぶつける真似はしなくなった。ただ、少しだけ険のある眼差しを宿し、不安そうに刺された腕を擦っている。
あちこち周囲を見ながら赤くなった腕を擦り続けていた彼の手が、不意に止まった。びくり、と大きく、細い体が痙攣を起こす。
「……父様」
「ぉう?」
すっかり飽き始めてうとうとしていた男の白衣を引っ張り、小柄な少年を指す。男は喜色を孕んだ瞳で、それを観察していた。
――それは、小柄な少年を食い破るように生まれ出て来た。
ぶつり、みちり、と肉が裂ける、湿った音が周囲を包む。血はさほど流れていない。死んだわけではないからだ。
頭の先から股の間まで裂けた器から現れ出た物は、石炭のように光沢を持った黒い皮膚と、赤い筋を幾千と張り巡らせた肢体。すらりと長く、けれども少年から出るには大きすぎる、人型の異形の姿だ。口が裂けたように大きい。少年の面影を残す、青い瞳が爛々と輝いている。
化け物は大きな口をだらしなく開いて、笑っていた。
「があぁぁっああああああ!!」
「ぅひい!?」
そこで初めて、情けない悲鳴が聞こえた。大柄な少年だった。
彼は小柄な少年から生まれた化け物の姿に、二通りある己の未来を見たのだろうか。ひいひい泣き喚き、じりじりと化け物から距離を取っている。
みっともない顔で化け物を凝視している彼を見ながら、男がつまらなさそうに「あっちは失敗か」と独り言ちていた。
「おい、あいつ、喰っていいぞ」
男が大柄な少年を指して言うと、化け物が「がぁう」と気分の良さそうな声を上げ、指された方が恥も外聞もない、必死な形相で、顎を震わせて逃げ出そうとした。
けれどもそれは、男の命令にいち早く動いていた少年に足を引っ掛けられて、ごろごろとボールのように化け物の傍に転がっていく。
化け物が大きな口をさらに広げ、大柄な少年の頭に噛み付いた。
「ほら、ほーら、喰え喰え。腹減っただろぉ? 食料が欲しけりゃ、俺の言うことをよぉく聞くんだぞぉ」
愉快げに笑う男と共に、目の前の食事を眺め続けた。
男が言うには、この研究所で行われる実験というのは、たった一つしかない。
人体を使って、強力な一個体の兵器を作る実験だ。当然、完成するまでに掛かる費用も時間もかなりのものだが、それだけに威力は折り紙付き、らしい。
男はこれらを「怪物」と呼んでいる。人から怪物へ。ずんぐりとした図体も、徐々に各々の選択に合った身体へと、薬の力を使って、強制的に変質させながら。
実験に使われる人間は、とある国から送られてくる。彼が生み出した怪物は国から見てもかなり魅力的らしい。とある条件の下、彼は進んでその国に属するようになった、との噂もある。事実はどうあれ、それを男に訊くことはしない。彼はそこいらのことなど、どうでもよさそうに振る舞うからだ。
だが、そのせいか、国からは奇怪にも、こんな辺鄙なところにやって来るはぐれ者も、たまにいる。
今回はたったの二人しか送れる人間がいなかったため、馬車に空きがあったらしい。
後片付けと実験場の掃除をしている少年に手を振りながら、胡散臭そうな笑みを張り付けた、パリッとした衣装を着た青年が歩いてくる。
「やあ、やあ、イコ君、お久しぶりだね」
少年――E2-1586(通称イコ)が、モップを掛ける手を止めて軽く頭を下げた。
「お久しぶりです。前に会ったのは、五年前、ですか?」
「そうそう。イコ君すっかり大きくなったねえ。どうしてだろう? ね、ね、イコ君、やっぱり解剖してみたいなあ。動けなくなったら貰ってもいいかい?」
「それは、父様に頼んでください、ハロエス様」
青年――ハロエスは、父様、と聞くと、露骨に顔を顰める。彼は、あの草臥れた男が嫌いだと公言して憚らないのだ。
「あんな奴の言いなりなんて、ならなくたっていいじゃないか。私のところにおいでよ。美味しいお菓子も豪奢なベッドも素敵な観劇も、何でもあげちゃうよ」
「結構です。……そもそも」
続けようとした言葉を、慌てて飲み込んだ。彼の本当の望みを、今口にするのは得策ではないと判断したからだ。
狸に見えて、ただただ自身に宿す正義に基づき動きたがる、厄介な人間――イコから見る青年は、青臭い信念を抱いている愚か者にしか映らない。
掃除用具を片付けて、ハロエスをいかに素早く帰すかと思考する。実験場を後にし、いっそすぐに出入り口まで案内すれば、そのまま帰るかもしれない、と乱暴な決断を下したところで「そうだ」とハロエスから声が掛かる。
「ねえ、ねえ、食堂にまた新しいメニュー出来たんだって? いっつも他の人から聞くばかりで、私自身全然食べてないんだよ。是非とも案内してくれないかい?」
「……こちらです」
イコが進路をその先に変えた。出入り口付近、左に折れた通路の先の突き当りから、さらに左へ。
必要最低限の設備しかないため、通路も二股三股と分かれることはほとんどない。そしてこの研究所には、なぜだか食堂なる部屋が存在している。専ら、実験体が食事に来るための空間となっているのだが、時々やって来た国の身分の高いはぐれ者達も、ここに放り込むことが多い。というのも、この建物内で最も人前に見せられるだけの体裁を持つ、唯一の部屋だったからだ。
曲がってすぐ右手側にある両扉が開放的にも放たれており、内部の様子が窺える。とりあえず、気まぐれな男はいなかった。
内部は最低限の彩りとして、四隅付近に花が生けられている。白百合ばかりなのは、致し方ない。だが、そのせいで、白い硝子タイルとコンクリートの床に映えるのは、花ではなく、茎になってしまっている。
等間隔に並べられた十二席の長テーブルと丸椅子すらも白いので、全体的に寒々しい雰囲気をしている。
ハロエスは物珍しげにまじまじと室内を眺め、それから適当な席に着く。イコが溜め息を隠し、
「食堂です。入口左手側にある紙に希望メニューを書き込み、料理用機械兵に提出します」
「ふーん? じゃあ、イコ君のお勧めで頼んでよ。私は、ここで待っているからね」
にっこりと笑みを深めるハロエスもまた、男とは違う意味で難があるのだろう。
だが、はっきり言って、イコ達実験体はあくまで「兵器」として分類される身であり、人間よりも低い立場にあるため、仕方のないことでもあった。
「では、少々お待ちください」
とはいえ。
そういうのなら、こちらも多少は嫌がらせをしてみたとして問題はあるまい。
あの青年には、白湯うどんで十分だ。
白湯うどんに渋面を作りつつ、不味い不味いと啜って食べきった金持ちを帰し、寝床に向かう。
昔は寝床すらもなかったが、睡眠をとった者と、とらなかった者との効率化を表に示したところ、男も一日三時間の睡眠までは認めた。だが、ほとんど使い物にならない者は、こっそりと眠っていることが多い。何も出来ないからだろう。
まあ、それよりも先に処分されるので、永遠に眠り続けられたりもするわけだが。
ふと、視線が横に逸れる。一瞬だけ窓越しに見えた中庭の隅に、蹲るように膝を抱える少年の姿がある。見覚えがある、というよりも、先程見たばかりの、あの小柄な少年だ。
一度人の体を捨てた者は、擬態をして人の姿になる。イコも、彼も、同じだ。
けれども、と観察しつつ思考する。
「あれは、化けるかもしれない、ね」
そっと耳をすませば、微かに聞こえる嗚咽に混じり、呪詛のような言葉が聞こえてくる。
懺悔と、謝罪と――それから……
「まだ無自覚みたいだから、あまり刺激してもいけないだろうし……」
能力としては優秀な方だろう。今までたくさんの実験体を見てきた経験からの勘だったが、あながち外れてはいないはずだ。
小柄な少年は動く気配がなかった。イコもまた興味を失い、すぐに視線を外して寝床へと足を踏み出す。
「今日はクチナシ、白い花――……」
髪から垂れ下がる白い花の匂いを吸い込んで、花弁を握り潰した。




