82話 エデン犬①(シーマ視点)
書斎に入り、デスクの前に座る。シーマはサラサラっと文をしたためた。ユゼフに知らせなければ……。
王家の男児が一人生き残ってしまった。まだ幼いから、すぐには脅威とならないが、不穏な芽は摘んでおくに限る。
イアンが時間の壁を越えて、魔国かグリンデルへ向かったことも書いておこう。グリンデル水晶を奪ったということは、壁を渡ったのだ。アニュラスの神秘があれば、老化せずに壁を渡れる。シーマは魔女から情報を得ていた。
最後に、“ニーケ王子を確保せよ”と記した。これが一番重要だ。ユゼフのことだから、いたいけな少年を殺せないだろう。確保さえしてくれればいい。彼ならできる。
数分で書き終え、手早く封をする。胸元にしまい姿見を見れば、そこには完璧なシーマ・シャルドンがいた。
優しげな笑みを浮かべる長身の貴公子は誰よりも王にふさわしい。シーマは銀髪の混じった長髪を整える。襟に返り血が付いているのに気づいて眉を寄せた。殺すのは簡単だが、後始末が面倒だ。着替える時間はない。書斎を出て、広間に戻った。
シーマはテキパキ指示し、カオルとウィレムを荷馬車に乗せた。買い出しなどに使うやつだ。屋根のない荷台に、哀れな貴族の美男子どもを乗せる。
同伴者は荷馬車を操縦する御者と猟犬一匹、ジェフリー。兵士は中庭に待機させる。それで、ローズ城をあとにした。
「今からハンティングをする。ちょっとした気晴らしだ」
馬にまたがったシーマは、荷台で揺られるカオルたちに声をかけた。こっちはニコニコしているというのに、相変わらずのチキンぶりに閉口する。情けない奴らだ。
ハンティングとは本当のお遊びである。壁の向こうにいるイアンを捕らえるのは、あきらめている。今は逃亡者の道程を確認しつつ、壁まで向かう。
「シーマ様、あの……」
「何も言うな。おまえの言いたいことは、わかっている」
ジェフリーの言葉を遮り、シーマは先に馬を走らせた。
ローズ城から逃走したのは四人。イアン、サチ、イザベラ、ニーケ王子。蹄の跡がそれを裏付けた。猟犬が逃亡者の馬の匂いをたどる。
四人の逃亡者はローズ城を出て、一直線に壁を目指していた。トウヒの森を抜け、丘を越え、川を渡り……
いつの間にか、日が暮れかかっている。暗くなるまえには着くだろうか。敵の通った道筋をたどるのが、シーマは楽しかった。彼らは悔しさをバネに身を奮い立たせ、馬を走らせたに違いない。それでいて、したたかに今後の計画も立てる。愉快ではないか? 戦いはまだ続いている。サチ・ジーンニア。だが、こちらにはユゼフがいるのだ。負ける気がしない。
シーマは陽気に口笛を吹いた。不遇な少年時代、村のみんなが歌っていた節だ。音痴を馬鹿にされて以来、シーマは口笛を吹くようになった。
ジェフリーがおそるおそる尋ねる。
「今夜は野宿ですか?」
「さあな?」
野宿くらいなんだと、シーマは思う。温室育ちのお坊ちゃまは、地面に寝そべったこともなさそうだ。
川を渡ってしばらくすると、だだっ広い平原に出た。レンゲソウやつくしが風に揺れているだけで、起伏はほとんどない。人口的に植えられた杉の大樹が一本あった。その向こうには真っ黒な闇の集合体が、大蛇のように横たわっている。
「壁だ」
シンプルな一言に緊張が走る。シーマはジェフリーに顔を向けた。
「壁を見るのは初めてか?」
「いえ。八年前に……」
「八年前、十二の時に……」
つぶやき、シーマは馬の腹を蹴って速度を上げた──
運命が変わった日、壁が現れた。小さな島で蚕を育てていたアルビノの少年は、外見のせいで家族から疎まれ、納屋で寝起きしていた。出荷前の繭を仕分けるのがシーマの仕事。何年も無益な労働に身を費やし、ただ生きているだけだったのだ。八年前、ジェラルド・シャルドンが島に来るまでは。
だから、シーマにとって、壁は縁起物。そう、今だって……
黒い化け物は、上下に寄せては返すを繰り返していた。波打つ姿は生きているようにも見える。
中には砂粒と同じ大きさの黒い粒子がウジャウジャ蠢いていて、規則正しく同じ方向へ動いたり、かと思えば渦を巻いたり──自在に動き回っている。壁は向こう側の景色をすべて覆い隠してしまっていた。
おかげで、太陽が沈んだかどうかはわからない。しかし、先ほどまで照りつけていたオレンジ色の光はなくなり、辺りはひんやりした青色に染められている。
シーマはカオルとウィレムを荷馬車から降ろさせた。
次に落ちている木の枝を拾う。枝を使って、杉の大樹の根元から壁まで垂直に伸びる直角三角形を描いた。その垂直線に沿って、木に結びつけたロープを引っ張る。
シーマは口笛を吹きながら、作業した。黙々と動くのは好きだ。
木は目印。その先には、グリンデルと魔国を分断する国境線がある。
「その口笛、聴いたことがあるんですが、どこかの島の民謡でしたっけ?」
不意にジェフリーが聞いてきた。手持ち無沙汰で暇だったのかもしれない。悪気はないのだろうが、シーマはムッとした。
「いい加減なこと言うな。おまえがこの歌を知っているはずはない」
貴族のボンボンが、故郷の童歌を聴いたことがあるなんて嘘だ。気分を害したシーマは口笛をやめた。
壁の真ん前までロープを引っ張ってくる。これで、魔国とグリンデルをきちんと分けることができた。最後に人差し指を立て、片目をつむり角度の微調整をする。
「このロープの線から左が魔の国、右がグリンデル……」
話し途中に右方向から犬の吠える声が聞こえた。広がる平原の向こう、小さな丘から駆け下りてくる動物が見える。
「マリク!」
伝書犬のマリクだ! 老匠シーバートの……ユゼフとの連絡手段が文を持って戻ってきたのだ! シーマは胸の高鳴りを押さえきれず、犬のほうへ駆け出した。
「マリク! マリク!……信じられない。まさか、そんな!」
興奮して叫び、飛びついてきた愛らしいエデン犬を撫で回す。首から耳の付け根、頭、肩……猛烈な愛撫で歓迎した。やがて、シーマはマリクの首輪に結び付けられた文を見つけた。
「ペペ!」
「どうしたんです? ペペって、ユゼフ・ヴァルタンのことですか?」
駆け寄るジェフリーが尋ねても無視だ。シーマは夢中でユゼフからの文を読んだ。
『ディアナ王女がさらわれた』
魔の者に連れ去られた。おそらくは魔国にいると。ユゼフは期日までに助け出すつもりだ。驚愕の事実はシーマを落ち着かせた。浮ついた気持ちは冷徹に蓋をされる。
さらったのはイアンの手の者に間違いない。時差があるのは、イアンたちが壁を通った時、少しだけ過去に流されたからだろう。すべてを仕組んだのはサチ・ジーンニア。
──やってくれるじゃないか? だが俺のユゼフは、大切なお姫様を絶対に取り返すぞ?
「なるほど……わかった」
数秒で文を読み終え、シーマは手から炎を出した。闇の力とは別の力。妖精族が持つ光の力だ。瞬く間に文を灰へと変えた。




