3話 内通者
水晶を握ったミリヤの手を、グレースの手が包み込む。石の床と変わらぬ体温だ。冷たすぎる。
「……あたいの力……受け取ってくれるかい?」
「力……?」
うなずくグレースの顔が煤まみれで、良かったと思う。血の気の失せたディアナとそっくりの顔を見れば、ミリヤの心はいっそう乱れただろう。
“力”というのは、前世でアフロディテが人間を守るために天界から授かった能力だ。闇の力とは相反する光の力。
「本当は……あたいが……ディアナ様に吸収されて……」
「転生を遂げるべきだった。けど、あなたはそれを拒んだ」
言葉を続けるのが困難なグレースの代わりに、ミリヤは口を動かした。
王と女王は二人に分けて転生する。強大な力を未熟な転生体では扱いきれないのもあるし、どちらかが死んだとしても、生き残れるようにするためである。
グレースは本体のディアナに吸収されるべきだったが、二の足を踏んでいた。ディアナも力を得ることや前世の記憶を呼び覚ますことに無頓着で、放置していたのだ。
「グレース、わたしは間違っていたよ。あなたを説得して、ディアナ様とあなたを一体にさせるべきだった。そうしていれば……」
そうしていれば、ディアナはエゼキエルを選ばなかっただろう。心を踏みにじられ、肉親や家臣を殺された記憶があれば、エゼキエルを許すことはなかった。愛の炎が消えずに残っていたとしても、仇との恋を成就させるなど女王の誇りが許さないはずだ。
冷たい手がにわかに熱を帯び、指を通じてミリヤの中に入ってくる。血がたぎり、全身が炎をまとったように熱くなった。ミリヤは歯を食いしばって、高熱に耐えた。
グレースは床についていた反対側の手をずらした。黒手袋をはめたままの手が、ミリヤの記憶を揺さぶる。
譲渡の魔法は命と引き換えだ。魔人がやすやすと行えることを、人間は命懸けでする。いつでも、ディアナと一つになれるよう、グレースは呪文を暗記していたのだろう。皮肉にもディアナではなく、ミリヤ相手に使うこととなった。
転生を完成させられず、彼女は息絶える。死への階段を上がる一語一語をグレースは唱え続けた。
「――ルミナ・セリオル……我が魂、分かたれし刻よ。光は系を離れ、未来へ流れよ。ミリヤ……汝に託す……グラーツァ・イル・エーテル……」
前世のアフロディーテの記憶が血にのせられ、ミリヤの頭の中をかき回す。初恋、裏切り、決裂、復讐──
「あたい……ディアナ様に嫉妬してた……」
呪文を唱え終わると、グレースは本音を漏らした。
「憎んで苦しまなくていい……あの人を存分に愛することができるディアナ様が……うらやましかった……」
もとより、愛してはいけなかったのだ。ユゼフもエゼキエルもディアナを不幸にする。だから、ミリヤは引き離そうとした。
「でもね……嫉妬する一方で、幸せにもなってほしかった……だって、あたいと一つになったら……ディアナ様は永遠に……愛し合うことが……叶わない」
「ううん。結ばれるべきではなかったんだ。ディアナ様はサウルを選ぶべきだった」
グレースは頭を振った。涙が目の回りの煤を流す。
「エッカルトが処刑された時、あたいも死ぬべきだった……あたいたちは孤児でさ、二人とも亜人に両親を殺された。姉弟のような関係だったのさ……」
グレースの力を受け入れられるだけの器を、ミリヤは持っていなかった。
体中の血肉が悲鳴を上げ、骨がきしむ。同時に彼女が抱えていた憎悪まで流れ込んできて、脳が沸騰しそうになった。グレース自身もこれだけの力を使いこなせていなかったのだろう。
──どうせ、わたしの体はぼろぼろだ。こんな体でも役に立てるなら……
割れるような頭痛と吐き気、体内を駆け巡る激流に意識が遠のきそうになる。ミリヤを支えているのは、気力だけだった。
やがて、グレースの指から熱が失われ、石よりも冷たくなっていった。
翡翠色の瞳が暗くなっていく。ディアナと瓜二つのその瞳が、死の色に染められるさまをミリヤは目に焼き付けた。
離れようとする手をつかみ、グレースの体を支えてやると、ミリヤも倒れそうになった。薄い唇はまだ動いている。グレースを抱きかかえ、ミリヤは口元に耳を寄せた。
「だから、亜人は信じられねぇんだ……亜人はさ……」
「もういい……亜人との戦いは終わったんだ」
「終わっちゃいないさ……グリンデル軍の手引きをしたのは……」
グレースの最期の言葉を聞いて、ミリヤは愕然とした。
体の熱は一気に引いていき、吐き気も引っ込んだ。心臓だけが激流に抗い、乱暴に打ち続ける。
冷静ではなかった。情が邪魔して、無意識に核心から離れようとしていた。ヒントはあちこちに散りばめられていたのだ。
エッカルトの一つだけの瞳を連想させる晴れた日の海。片手だけはめたままのグレースの黒手袋──大軍に時間の壁を越えさせ、堅牢な瀝青城を半日で落とさせる。そんなことを可能にする人物は一人しかいない。
時間の壁を自由に行き来し、内部の情報に精通している者──
「リゲル!!」
かつての師の名をミリヤは叫んだ。
こと切れたグレースを冷たい床に寝かせ、立ち上がる。
亜人たちが言う“精気”というやつだろうか。自らの体から立ち上っているのがわかる。小さな器は気力と怒りのおかげで、なんとか持った。
リゲルは自分勝手な欲望にディアナを利用したあげく、うまくいかなくなったからと、災厄のナスターシャに生贄として捧げようとしている。
──許せない! なんて利己的な女なんだ!……愛のため? ふざけるな!
明確な殺意すら抱いた。そういえば、真剣勝負をした際、リゲルは殺し合いへ発展するまえに終了させた。
──あの女、わざと負けやがって……
勢い余って、ミリヤを殺したくなかったのだろう。何もかもが腹立たしかった。使えなくなった足を治してくれたのも、リゲルだ。
リゲルがいなかったら、今のミリヤはいない。魔術、毒の調合法、体術、男の垂らし込み方から、何から何まで教え込まれた。師としても魔女としても尊敬していた。男みたいに大雑把で、がさつなくせして、ときどき甘い顔を見せる。根は優しい女なのだと、好いてもいた。
好いていたから余計に腹が立つのだ。裏切られた気持ちが強い。仲間意識を持っていたこともあったし、案じることもあった。
今の今まで、クールな魔女のことを、ミリヤは忘れていたのではない。忘れたふりをしていたのである。
会談の行われた闘技場で王とそのしもべたちは輪になり、手を重ねた。過去のことは水に流し、互いを尊重し合うと誓ったあの日。場内を暖める焚き火に照らされ、骸骨のサムエル以外、皆の顔が上気していた。明るい未来に期待し、許し合うことで新たな絆が生まれたのである。その場にリゲルだけがいなかった。
最初から一連の騒動に関わり、王たちの事情を知る者のなかで唯一、彼女だけがのけ者だった。気づこうと思ったら、気づけたかもしれない。けれども、あそこにいた誰もが新しい時代の幕開けに高揚し、自身の幸せを守ることに注力していた。
世界が光に満たされる時、誰も影には目を向けようとはしない。良い時に、わざわざ闇をのぞこうとはしないのだ。リゲルという闇は皆が知らぬうちに、膨らんでいった。
ミリヤは床に放り出していた面金付きマスクを拾った。
膨らみ過ぎた闇は消滅せねばなるまい。次に会った時、ミリヤはリゲルを殺すだろう。そのまえに、ディアナを助け出さねば。
マスクをかぶり、グリンデル水晶の首飾りをスリングにしまった。グローブをつけた手の平を上にしてみる。力むと、ボワッと光の玉が浮かび上がった。
力を操れるだけの器量は持ち合わせていない。だが、死を前提とした戦いに制御は不要だ。
ミリヤは開いたままのグレースの瞼を閉じてやった。翡翠の瞳が見えなくなって、ホッとする。ディアナの死に顔は見たくない。これはグレースだ。ディアナのことは必ず助ける。
揺るぎない決意を胸奥に据え、ミリヤは倒れていた背丈ほどの燭台を手に取った。
女王の間を出た所では、兵士たちが再発火しそうな木材を運び出そうとしている。ミリヤは彼らの方へ駆けた。
破られた窓の回りには焼け焦げた家具や壁材が散乱している。ミリヤは燭台にまたがり、浮上した。
燭台に乗り、窓から飛び出す兵士はめずらしいだろう。
背中で「あっ!」という声を聞いた直後には、城の屋上の高さまで浮上していた。




