9話 シーマ
記憶の糸を手繰り、時間を遡る。ユゼフの意識は内側へ向かった──思い出すんだ。壁が出現するまえ、国を出るまえに何があったかを。
記憶の断片をつなぎ合わせる。事象ではなく、場面で思い出す。場面の端にヒントが隠れているかもしれないからだ。
そうだ、俺は呼び出されたんだ──
†† †† ††
一ヶ月前。国を出る直前のこと。ユゼフには、どうしても行かなければならない場所があった。
神学校の卒業式のあと、まず父親に呼び出された。明朝発てと、カワウへ行く王女の護衛隊に同行せよと問答無用で命じられた。父の命令は絶対だ。いきなりだろうが、ユゼフは従わなくてはならなかった。
大急ぎで旅支度を済ませ、別れを告げようと、実母と妹たちのもとへ向かった。
その後、母たちとの別れを惜しむ間もなく、ユゼフは馬を疾駆させた。
向かったのはシーラズ城。大きな湖とそれを囲う壮麗な山々が美しい自然を育む。王領との境界に建てられた城だ。
シーラズを治めるシャルドン家はヴァルタン家と同じく、王家に次ぐ名家である。そのシャルドン家の正嫡子、シーマ・シャルドンが待っていた。
神学校へ入学する以前の王立学院時代の友人、シーマ。ただし、友人……というのには語弊がある。シーマはボスであった。正確にはユゼフは家来のうちの一人。ユゼフが意見することはあっても、それは諫言に過ぎず、対等ではなかった。
シーマからの突然の呼び出しは初めてでもないが、頻繁にあるわけでもない。ただの気まぐれかもしれないし、なにか大事な相談かもしれなかった。
奴隷根性というか、従属心が染み付いていた。よっぽど嫌なことでなければ、わがままに慣れてしまっている。
「だいぶ遅かったな?」
シーマ・シャルドンは微笑し、ユゼフが遅れたことを咎めた。怒っているのかいないのか、表情からは推し量れない。もともと、そういう顔なのか、意図的にそうしているのか。シーマは、つねに薄い笑みを浮かべていた。
遠くで教会の鐘の音が聞こえた。夜の九時をまわったようだ。
父に呼び出されなければ、遅れることはなかった。急に旅立つこととなり、ユゼフは混乱していた。命令を受けてから、数時間が経過している。旅支度だけでなく、実母と妹たちに会っていたため、遅くなってしまった。
「まあ、座れ。言いわけを聞いてやってもいい……なんだ、その顔? 卑屈な心が顔に出ているぞ?」
シーマはいつもどおりだった。染めた長い黒髪も艷やかだ。ユゼフは腰掛けるなり、本題に入った。
「時間がない」
「だろうな?」
「ふざけているんじゃない。これは真面目な話だ」
「わかっている」
ユゼフはシーマの薄灰色の瞳を見た。目の周りを銀色の睫毛が縁取っている。薄過ぎる色素は、どこまでも透過してしまいそうだ。心の中を読まれた気がして、ユゼフは目を伏せた。
「ディアナ王女がカワウ国のフェルナンド王子と婚約することになった。王女がカワウへ向かうため、俺は従者として明朝に発たなくてはならない」
一気に話すと、シーマの顔色をうかがう。シーマは変わらず、薄笑いだ。
「驚かないのか? 急に決まったことだぞ? 婚約の話は水面下で進められていたようだが……」
「時間の壁が現れると託宣があったから、そのまえに婚約を済ませてしまおうと、急遽出立することになった」
「そのとおりだ……」
「護衛隊長はおまえの兄、ダニエル・ヴァルタンといったところか?」
「……知ってたのか?」
「まあね。おまえの他にも各方面に親しい友人がいるもんで」
自分が取り巻きの一人だと、ユゼフはよくわかっている。だが、気分は良くなかった。
「ほら、また卑屈な顔をしてる。どうして、事前に話してくれなかったのかと、不満なんだろう?」
シーマは眉尻を下げて近寄り、ユゼフの肩に手を置いた。
奇術の一種だろうか……
シーマに触れられると、まるで心を触られているかのような錯覚に陥る。夢見心地になり、シーマの言葉が直接脳に入り込んでくるのだ。
──おまえはもっと素直になればいい。父や兄の言いなりになるのは、やめるんだ
ユゼフはハッとして、シーマの手を払いのけた。
「で、おまえはどうしたい? 帰国後、宦官になるのか?……それとも? 可能なら力を貸してやってもいい」
シーマは真鍮の杯にワインを注ぎ、ユゼフの前に置いた。
「まさか、ワインを断ったりしないだろうな?」
静かな口調であっても、シーマの言葉には有無を言わせぬ強引さがある。杯をカチリと合わせたあと、ユゼフはワインを飲み干さねばならなかった。
「自分がどうしたいかわからない。どっちみち、選択肢は一つしかない」
「ちがうな。選択肢は二つある」
「どんな? 父に逆らったところで勘当されて終わりだ」
ユゼフが勘当されれば、母や妹たちも住んでいる所から追い出されるだろう。民というのはお上に逆らえば、一族ごと生きていけなくなるのだ。良いとこのお坊ちゃまには、わからないだろうが。
しかし、シーマの瞳は全部お見通しだと、嘲笑っていた。
「幼稚でわがままな王女に仕える。しかも宦官にされて。それがおまえにとって、いいことだろうか?」
「従わなければ……」
ユゼフは言いかけて言葉を呑んだ。実家の家族の話は弱味を見せるようで、したくない。
シーマは笑みを浮かべたまま、ジッとこちらを見ている。その姿は不快とも、むず痒いとも感じられる妙な気持ちを湧かせた。
「俺に仕えよ」
「……は?」
「今、ここで自分が誰に仕えるか決めろ」
「そんなこと、できるわけ……」
「ぺぺ、おまえは賢い。おまえを道具としか見ていない父親に従って、愚かなお姫様の腰巾着になるのは、天から授かった才能をドブに捨てるようなものだ」
シーマは立ち上がってユゼフを見下ろした。シーマの身長は四キュビット(ニメートル)近くある。座っている状態を見下ろされると、結構な威圧感だ。
なんでも知っている瞳に隠し事はできない。ユゼフは睫毛の色と合っていない髪に、ぼんやりと視線を這わせた。長い黒髪には所々銀髪が交ざっている。
「おまえを気にもかけない奴らの言いなりになるか。それとも……この俺に従うか? 一人ぼっちで言葉を発することさえ、できなかったおまえを変えたのは誰だ? 出会ったころ、おまえは何もかもあきらめ、まともな思考もできないでいた。おまえを見つけたのは誰だ? おまえの心に自由を与えたのは……」
シーマはそこでワインを口に含んだ。
「ここにいるシーマ・シャルドンだ」
揺るぎない自信を持って言い放つ。
「このシーマがいなければ、おまえは何もできないし、ユゼフ・ヴァルタンという空名すら失う。おまえは綿の入った人形だ。エステル・ヴァルタンが作って王女に捧げる玩具。おまえに痛覚が、触覚が、視覚が、心臓があることなど誰も考えないだろう。彼らにとっておまえは単なる「モノ」だからだ」
ユゼフはずっと下を向いていた。
──じゃあ、どうしろと?
「このシーマに仕えるのだ」
ユゼフの顔をのぞき込み、シーマは心の声に答えた。
「このシーマ・シャルドンに……いや、これは仮初めの名前。俺は王になるのだから」
「……王だと? ふざけているのか?」
ユゼフは唖然とした。今まで、シーマの行動や考え方に驚かされることはあったが、まさか謀叛の企てまでしていたとは……
「いや、至極真面目だ。その証拠に俺の秘密を教えてやってもいい」
シーマの目がふたたび、真剣味を帯びてくる。
「以前話しただろう。王位継承順位の話を。国王は子だくさんだ。十二人の王子と二人の王女、それに国王の兄弟とその息子たち。王子の子供たちも合わせると、継承権を持つ者は合計四十四人。さらに王家と血縁のある名家が三家、ローズ家、ヴァルタン家、このシャルドン家は三番目だ……さて、おまえに継承権があるかどうかは置いといて、王族に近い順番に並べるとおまえは何番目だっけ?」
「五十一番目だよ。まえにその話はしただろ? 戯れ言だ」
「そう。おまえの前にいるのはたったの五十人だ。たったの。戦場で五十人の屍は数のうちに入らないよな?」
「……どうして、俺の話になってる?」
シーマは笑い声を立て、ユゼフの肩に手を回した。
「これは考え方なのだよ、ユゼフ・ヴァルタン。おまえが俺に仕えたとき、どれだけの働きをするか。前にいる五十人を多いと感じるようだと、おまえは役にたてない」
ここでいったん、言葉を切った。
「どうしてこういう話をするのか、教えてやろう。シーラズを治めるジェラルド・シャルドンには、息子が一人しかいなかった」
他人事みたいな口調だ。ジェラルド・シャルドンはシーマの父である。
「その息子は重い病にかかっていて、人前に顔を晒すことができなかった。息子が死ねばシャルドンの血は途絶えてしまう。新たに子を産ませるには、シーラズ卿は年を取りすぎていた」
シーマは続けた。
「シーラズ卿は息子の病を治す秘湯を求め、内海の奥地にある小さな島へ行った。そこで、ある子供と出会う。賢く魅力的で、息子と同じくらいの年齢の……シーラズ卿は、その子供を息子の小姓にしようと城へ連れ帰った」
しばらくの間、沈黙が流れる。我慢できずに声を発したのは、ユゼフだった。
「……で?」
「それがこの俺、ここにいる」