80話 クレセント①(シーマ視点)
数分後、シーマはサチ・ジーンニアの部屋にいた。
兵士宿所の一室。埃もないし、塵一つ落ちていないのは潔癖だからか。こぢんまりとした慎ましやかな生活を思わせる……というよりか、絶対に自分を曲げない完璧主義者の部屋だ。
「いいんですか? あいつらを二人きりにしといて」
ジェフリー・バンディが心配そうに尋ねる。あいつらというのはカオルとウィレムのことである。厨房に置いてきてしまった。
シーマの興味は別にある。愚鈍な脇役に逃げられようが、正直どうでもよかった。いたぶるぐらいしか、あいつらには用途がない。
「問題ない。あの二人はチキンだから。どうせ、逃げたところで行くあてもないだろうし」
「でも……」
「それより、見てみろ? 本棚に難しい本がぎっしり。秀才のジニアらしい」
「あいつ、頭は良かったですからね」
「それに裁縫セットが置いてある。男のくせに縫い物するのかな?」
「はは、まさか」
サチ・ジーンニアの暮らしぶりはなかなか興味深かった。学院で出会って以来、シーマはサチのことがずっと気になっていたのだ。
サチが二年飛び級で学院に編入してきたのが四年前。学匠の学校に行くはずだったのが、手違いで貴族の学院になってしまったのだという。嘘みたいな本当の話だ。成績は実技科目以外はつねにトップ。楽器や詩吟も嗜む。行儀作法も完璧である。
──庶民出身なんて、大嘘だろ?
庶民がどういうものかを、過去を偽るシーマは知っている。貴族のなかにいて、卑屈にもならない。あんなにも、堂々と自分を貫ける人間は他にいない。
シーマはクローゼットを開けた。衣類の数は少ないものの、どれも丁寧にアイロンがけされている。チェストの中の下着や靴下に至るまで、端と端をぴったり合わせ、几帳面にたたまれていた。いつもそうなのだろう。少しの皺も許さない性格だ。戸棚もきっちり整理されていた。
シーマの心に湧き上がったのは、漠然とした不安だった。まえから思っていたが、サチ・ジーンニアは普通ではない。器用で賢いだけ? 清廉高潔?……もっと特別な何かを持っている。
サチ・ジーンニアは逃亡するまえ、いつも通りこの部屋で過ごした。心をかき乱して絶望したり、憤ったりした形跡を微塵も残さずにいつも通り……
「何もありませんね。グリンデル人たちから、もう少し話を聞きますか?」
ジェフリーの問いにシーマは答えず、人指し指で軽く顎を叩いた。考えている時の癖だ。ジェフリーもわかっているから、黙っている。
──何も持たずにあのサチ・ジーンニアが逃げるだろうか?……いいや、俺をあそこまで追い詰めたあいつが、無計画に逃げたりするものか。切り札を持っているはずだ
甘かった。王手をかけても、逃げられたら水の泡だ。とっておきの切り札を持っているのかもしれない。
記憶を遡り、状況を精査する。それから顎を叩く指をぴたりと止め、シーマは口を開いた。
「一つ気になることがある。厨房に洗ってないグラスが六個あった。水切りカゴにも置かれてなかったから間違いなく六個だ。ジェフリー、捕虜と人質の数は何人だった?」
「三人です。グリンデル人二人とイザベラ・クレマンティ……イアンとジニア……たしかに数が合いませんね? でも、間違って多めに出してしまったのかもしれませんし……」
「クレマンティの娘は今どこに?」
「おそらくイアンと一緒に逃げたかと……」
「クレマンティは亡くなっている。娘を連れて逃げることにメリットは?」
「さあ……イアンの女なのでは?」
シーマはふたたび黙った。緊張した面持ちでジェフリーが見守るなか、思考を巡らす。
不審な点は二つ。追い詰められているはずの敵が余裕綽々ということ。そして、人数が一人多い可能性。二つ以上はただの思い過ごしで片づけられない。誰かが何かを隠している。嘘をついている。
「行くぞ!」
シーマはそれだけ言い、部屋の外へ出た。
捕虜のグリンデル人たちは広間で休んでいた。
休んでいるというか、寛いでいるに近い。ソファに腰かけ、どこから見つけてきたのか、高価なワインを開けて飲んでいる。
シーマとジェフリーの姿が見えると慌ててかしこまったが、酒盛りをやめようとはしなかった。いい気なものだ。
「お二人にお聞きしたいことがあります」
きつい口調でシーマは切り出した。自分でも真顔になっているのがわかる。優しい笑顔の仮面は剥がれた。
──緊張感のない捕虜もそうだが、使用人がいないのに凝った料理を振る舞う……きっちり片付いているジニアの部屋もそうだ。この城には絶対的な違和感がある
「お二人がイアン・ローズと最後に会ったのはいつです?」
シーマの問いに、ベナール大臣はボワレと顔を見交わした。
「今朝かな? 食事のまえに」
「イアンはどんな様子でした? イアンの家来とも話をされましたか? その時の様子を詳しく教えていただけませんか?」
大臣の代わりに、恰幅の良いボワレが戸惑いながら答える。
「イアン・ローズは噂とは違い、礼儀正しい青年だったよ。だが、彼の家臣という少年が質問に答えなければ命を奪うと脅し、時間の壁を越える方法を聞いてきたのだ。私も大臣も何も知らないと言い張ったのだが、そんなはずはない、持っているグリンデル水晶を全部よこせと……」
「グリンデル水晶を?」
今度はベナール大臣が答えた。
「ああ、私たちにとっては大切なお守りだ。それをあの忌まわしい顔をした少年は奪い取り、時間の壁を越えると言ったのだ」
上司の話をボワレが引き継ぐ。
「私たちはやめるように言ったのだが、まったく聞く耳持たずで……」
「わかりました。先ほども確認しましたが、ここにいた人質と捕虜は私の父とあなた方の他は、クレマンティ閣下のご息女だけということでお間違いないですか?」
「他には見ていない。別の部屋にいたとしたら、わからないが」
疑問が次から次へ湧いてくる。他国の大臣と大使をシーマは質問責めにした。
「食事は誰が持ってきたんです? 使用人がいなくなったのはいつからですか? 部屋から自由に出られるようになったのは?」
「食事はクレマンティ殿のご息女が……使用人を見なくなったのは、一昨日かな? 今朝まで部屋からは出られなかった。もういいかね? 我々はさんざんな目に遭い、疲れているんだ」
「どうでしょう? お疲れのようには見えませんが……捕虜といっても、客人のように扱われていたのではないですか?」
「愚弄する気か? 数時間前まで部屋から一歩も出られなかったんだぞ?」
「見晴らしの良い広々とした続き部屋、寝室の他に居間、蒸し風呂までついてる豪華な客室でね。もちろん、王城が落ちるまでは使用人も使い放題。どうです? バカンスは楽しめました?」
グリンデル人たちは言葉を失った。構うものかとシーマは思う。捕虜のくせに大事に扱われて、呑気に酒なんか飲んでいるのが悪い。
しかしながら、彼らは嘘をついていなかった。話している間、シーマは彼らの目を見て確信したのだ。視線を外さないまま、背後のジェフリーに命令した。
「カオルとウィレムを連れてこい」
数分経たぬうちに、ジェフリーはカオルとウィレムを連れて来た。その間、シーマは他の兵士を全員広間の外へ出した。
グリンデル人二人は酒を飲むのをやめている。ようやく、ただならぬ空気に気づいたのである。
下を向いて待っていたシーマはカオルとウィレムが来ると、顔を上げた。今は猛禽となる。臆病な脇役どもを鋭く睨みつけた。
「なんの使い道もないおまえたちに、一度だけチャンスをやろう」
シーマは腰の剣を抜いた。弓なりに反ったクレセントは銀色の光を放つ。




