32話 死臭漂う
イアンにとって、初恋の人は特別だった。気軽に触れてはならない女神のような存在で、亡くなった母と等位に位置する。イアンは彼女の前では、背伸びしていないといけないのだった。
塔の中は埃っぽかったが、そこまで荒れていなかった。一階には暖炉やテーブル、椅子も置かれてあり、定期的に使用しているようだ。気になるのは臭いである。
独特の悪臭がする。長年、戦いの世界に身を置いていたイアンにはわかった。これは死んだ人間が発する臭いだ。
先へ進むキャンフィが平然としているため、おかしいのは明白なのに止めることができなかった。入り口にあったランタンに火を灯し、キャンフィは階段を上がっていく。
螺旋を描く階段は異世界へ続く通路のようだ。煉瓦の壁に手をつくと、ざらざらしていた。床には板も張っておらず、外の地面と大差ない。これなら瀝青城のほうが数倍マシどころか天国である。
「この塔って、どういう用途で使っているのかな? 瀝青城で管理しているのか?」
こわごわ聞いてみたところ、ゾッとする答えが返ってきた。
「いいえ。ここはヘリオーティスのものです。あたしが管理を任されている場所なので、今は誰も来ません」
「へ、ヘリオーティス!?」
「何を驚くことがあるのです? ここは人非人どもを捕え、殺処分する場所です。最近は活動を制限されているため、使用されていませんが」
人非人──亜人のことを指しているのだろうか。イアンの心に寒々とした風が吹いた。殺処分とは家畜のごとき扱いだ。聞き捨てならない。
「人非人はならず者を指す言葉だ。その中に弱い者や善人は含まれないよな?」
「もちろん、含まれませんよ」
「女子供も……?」
キャンフィは答えなかった。階段のカーブで姿が隠れてしまう。イアンはランタンの光が届かなくなるまえに、彼女を追った。
塔に入った直後、生活用品が見えた。上る必要はあるのだろうかと当然の疑問が湧く。死臭とキャンフィの発言のせいで、浮かれていた気分は沈んでいった。野宿すればよかったと後悔が募る。
キャンフィは最上階まで上り、鉄扉の錠を開けた。
「ここです。どうぞ」
どうぞと言われても、寝具の置いていない寝台が一台あるだけで何もない。いや、壁に工具のような物がぶら下がっている。床に置かれているのは鈍器? 鎚や棍棒といった類のものだ。鬼の金棒のように棘がついている物もある。イアンの顔サイズの窓が等間隔に六ヶ所、並んでおり、どれにも鉄格子がはまっていた。
言葉が出てこない。どこからどう見ても、牢屋である。
ややあって振り向こうとしたとたん、腰に強い衝撃が走り、イアンは崩れた。続けざま、頭部に激痛が走り、視界が真っ赤に染まる。
意識を失うまえに聞いたのは、
「くたばれ!! 亜人野郎が!!」
罵倒するキャンフィの細い声だった。
†† †† ††
目覚めたのは昼頃だろうか。
イアンは寝台に乗せられ、両手両足を拘束されていた。見えるのは石膏で固められたアーチ型の天井だ。小さい窓から差し込む陽光に涙をにじませると、足元から声が聞こえた。
「驚いた。手当てもしてないのに、一晩で治っちゃうんだ?」
「キャンフィ? 手足が動かせない……何があったんだ……?」
イアンの馬鹿力でも、動かせないほどがっちり固定されている。魔力を封じられているせいもあるだろう。頭上に上げられた手をわずかに動かすと、ジャラジャラ鎖の音がした。寝台からはみ出した足にも、金属の拘束具が付けられていると思われる。
「どうして、こんなことを……?」
「何者なの? どうしてイアン様のふりをしてる? 本物のイアン様はどこ?」
「俺はイアンだよ。わかるだろ?」
灰色の天井が美しい顔に隠される。イアンを見下ろすキャンフィは、ディアナ女王のように冷たい顔をしていた。
「嘘をつくな!! おまえみたいな卑しい亜人野郎がイアン様のわけがないだろ!!」
バチン! 平手打ちを食らわせられた。
「本当だよ! 俺は魔王の血を髄に流されて、魔人になったんだ!」
「だまれ! イアン様は高貴な方だ。汚らわしいことを言うな!」
真実を言うたびに殴られた。おまえのようなバカがイアン様であろうはずがない、ドブネズミがうまくイアン様に化けやがって、本当のイアン様をどこに隠した?──同じ問答の繰り返しだ。何度訴えても、キャンフィは聞く耳持たなかった。
頬は腫れ、唇は切れ、鼻血が出た。途中からキャンフィは平手をやめ、拳に変えた。
「……なんで、わかってくれないんだ……ローズの森で一番大きな楠に名前を刻んだじゃないか……結婚しようって、約束した……花冠を君の頭に載せて、君は俺のために葉っぱ船を作ってくれただろう?」
「どうして、あたしとイアン様しか知らないことを……?」
やっとわかってくれたか、これで解放される──イアンがそう思ったのは早計だった。キャンフィは唇をわなわな震わせ、額の血管を浮き上がらせた。
「貴っ様っ!! イアン様をどこにやった!? 許さない!! 絶対に許さない!! 殺してやる!!」
女にしてはゴツい手がイアンの首をつかむ。キャンフィは男並みの長身だ。握力は平均以上だろう。首を圧迫され、イアンは身をよじって苦しんだ。不死の体でも、死ぬのではないかと思った。しまいには失禁したあと、気絶した。
まだ、その段階では理性を保っていられたぶん、幸せだった。再度、意識を取り戻した時には、イアンは死にたいと思った。死ねない体はどこを切っても、刺しても回復する。終わりがないのだ。永続的に痛みを与えられると、人は狂う。
半日後には、
「私はイアン・ローズではありません。偽物です。本物のイアン・ローズは死にました」
と、キャンフィの望む回答をするようになった。イアンは服を裂かれ、辱められ、虐待され続けた。
「あたしは十三の時、亜人のクソ野郎に処女を奪われた。それ以来、穢れたあたしをイアン様は遠ざけるようになったの。亜人野郎のせいで、全部メチャクチャにされた」
柄の端に指を入れる穴があり、三日月の形に湾曲したナイフをキャンフィはクルクル回しながら話した。寝かせられているイアンの横に座っているため、見上げる形になる。イアンの位置からは、曲線を描く顎のラインと雫型の鼻の穴が見えた。
彼女が言っているのは、少年時代のイアンとデート中に起きた事件のことだ。イアンの継父が平民のキャンフィと別れさせるために仕組んだことだった。襲ってきた暴漢が亜人だったか、イアンは覚えていない。
「両親もヘリオーティスだったし、亜人を殺すことに抵抗はない……けど、おまえは簡単には死なないみたいね……」
回していたナイフをピタリ、自分のこめかみの位置で止め、キャンフィは構えた。一日前までは可愛いと見とれていた顔を向けられ、イアンは縮み上がる。
「女王陛下がお話ししているのが聞こえたの。あ、今は休んでるけど、あたし、身の回りの警護を任されてるのよ……イザベラ様と話してたかな? イアン・ローズは亜人だから、身体能力が高い、騎士として仕えさせるなら、利用価値が高いみたいなことをね?」
イアンがサチに臣下の誓いを立てている間、イザベラがディアナに謁見の交渉をしに行っていた。その時にキャンフィは聞いてしまったのだろうか。
「イアン様は名高いローズ家の当主であられる方よ。亜人のわけないじゃない? そういえば一年前に姿を現して以来、様子がおかしかったと思い当たったの」
キャンフィはナイフの腹をイアンの頬に当てる。鉄の感触は痛みと直結するものだ。イアンは瞼を閉じ、呼吸を整えようとした。
「やっぱり、イアン様は亡くなっていたのね……信じたくないけど。鼻の下を伸ばして、塔の中までついてくるおまえを見て確信したわ。イアン様はおまえみたいにバカじゃない」
キャンフィはイアンを誤解していた。キャンフィの前でカッコつけていただけで、今も昔もイアンは馬鹿である。彼女は恋焦がれるあまり、幻想を抱き、理想像を神格化してしまった。本当のイアンを知らないのだ。
「ねぇ、イアン様を殺したのは誰? おまえは誰の命令でイアン様のふりをしているの?」
イアンは質問に対して、物語を作らねばならなかった。
「恐ろしい魔人が……」
「名前はなんていうの?」
「知りません……」
「適当なことを言うな!」
回答が気に食わないと、キャンフィはイアンを痛めつける。悲鳴を上げるイアンを見て、
「イアン様は、そんな情けない叫び声をあげたりしない。イアン様の顔でみっともない真似をするな!」
と怒る。イアンは懇願し、泣いて謝り、従属した。
キャンフィが急に優しくなることもあった。それは愛するイアンにイアンが似ているからであり、代用として欲望を満たしたいだけの理由だった。彼女は断固として自分の作り上げたイアン像を譲ろうとはしなかった。虚像に対する愛は異常で、恐ろしいほど執着していた。兵士になったのもローズ城に士官したのも、イアンのそばにいたかったからだ。眺めることしかできない憂さ晴らしに絵を描き続けたという。描いた枚数は百を超えるかもと笑う彼女にイアンは慄いた。彼女の頭の中には、何年もイアンしかいなかったのだ。
本物に対する純愛と反し、偽物はただの物だった。傷つけ、弄び、慰み物とする。イアンは彼女の求める言葉を吐き、自分を殺すしかなかった。
逃げられないよう薬を飲まされ、魔力を奪われる。数日後、イアンは心を失った。