31話 迷子
謁見を終えてまもなく、イアンは瀝青城を出発した。
善は急げ──泊まらず出たのは、気持ちが先走っていたからかもしれない。
瀝青城に泊まりたくない気持ちもあった。あんな不吉な城で寝たら、叔父や化け物従兄弟の夢を見そうである。サムやダニエルと夢の中でまで戦いたくない。
夏の日没は遅い。暗くなるまで、イアンは時間を気にしなかった。
地平線が一直線の光となったころ、腹がぐぅぐぅ言い始めた。
──夕飯くらい、ごちそうになればよかったか……晩餐に招待されるかは微妙なところだけどな
サチが出発前に包んでくれたビスケットがある。馬の足を緩め、イアンは柔らかめのビスケットを齧った。シナモンが利いていて、おいしい。
喉が渇いて、サチが満たしてくれた水筒を口に当てる。水はがぶ飲みするなと注意されたが……。主は心配症だ。
問題はどうやってコルベ島へ行くかだった。初めてのお使いよろしく、メモに書いた行き順をイアンは何度も読ませられた。
──晴れて、サチの家来になったわけだが、まえとたいして変わらねぇな? 主従が逆転していたころも同じような感じだった
初任務を成功させれば、サチも見直してくれるだろう。細かいことは気にしないことにした。一人でできるところを見せて、信頼を得たい。
──なんか、目が悪くなったかな? 日が落ちてから、見えにくくなった
そういえば、シーマに魔力を封じる薬を飲まされていたのだった。魔力がないと、夜目も利かないらしい。薬の効き目がいつまで続くのかは、わからなかった。
──困るなぁ……どっかに泊めてもらうか?
見えにくいうえに方向音痴だ。イアンは弱腰になった。野宿はキツい。
──もう二時間くらい馬を走らせてるから、街に着いてもいいころなんだよ……ハッ、もしかして……
いつの間にか、森を抜けて農地を走っている。方角を間違えたかもしれない。
今さら戻るにしても、進行方向は暗い森だ。ならば、農村で泊まれるところを探そうと思ったが、農民の就寝時間は早い。どこの家屋も消灯している。イアンは立ち往生してしまった。残るは最悪コース“野宿”しかない。
もっとカッコ悪いので、瀝青城に戻って従者を要求するコースもある。
サチは相当心配していたから、あとで使いを送り出してくれることも有り得る。助けを待つのが一番ダサいコースだ。
イアンは悩んで農道をうろうろした。
完全に鈍っていた。薬のせいもあるし、不安のせいもあった。注意力散漫で、つけられていたことに感づけないでいたのである。
「もし? あなた様はローズ卿ではございませんか?」
そんな声が背後から聞こえて、イアンは馬から転げ落ちそうになった。透き通った女の声だ。
「何者だ!?」
「あたしです。お忘れですか?」
舞う落ち葉のような月が照らしている。光量が足りなくて、顔形を確認できなかった。女の子を覚えていないなんて、失礼なことをイアンはしたくない。
「暗くてよく見えない」
女は光の札を馬の首に貼って、明るくした。
「……キャンフィ!? キャンフィじゃないか!?」
「イアン様、お久しぶりです」
プラチナの髪が弱い灯りを反射した。顎までの髪は女にしては短すぎる。だが、彼女は髪がなくても、美しい。
──俺としたことが……声ですぐにわからなかった。
エデンで再会するまで、何年も彼女の声を聞いていなかったというのは言い訳にならない。一年前にも、ローズ城戦で偶然出会っている。
よりにもよって、初恋の人がわからないとは最低だった。
「キャンフィ、どうしてここに?」
「瀝青城でお見かけして、まさかと思い追いかけたのです。イアン様こそ、どちらへ行かれるのですか?」
「俺はコルベ島に……任務で……」
女王騎士団に所属しているキャンフィは城内でイアンを見かけ、居ても立ってもいられなくなり、後をつけてきたのだという。
「もう、遅い時間ですし、宿をとったほうがいいと思います。よろしければ、ご案内しますが……」
「本当か? ちょうど、探そうと思ってたんだよ。助かる!」
まさか、迷子になっていたとは言えまい。イアンはキャンフィに付いて行った。
「王都に一度、戻ってらしたんですね? 部屋に置き手紙がありました」
馬を並べ、速歩で進む。キャンフィが言っているのは、魔国から帰った時のことか。イアンはごまかした。
「あっ、ああ、あれ? 留守だったから、エリザに部屋で待っててくれって言われてさ? なかなか帰って来なかっただろう? 突然訪ねて迷惑かなーとも思ったし、俺も忙しかったから、長居はできなかったんだ。こうやって会えてよかったよ!」
露天で買ったピアスは、付けているだろうか。キャンフィの耳は髪に隠れている。
実のところ、あれは餞別だった。彼女と二度と会うつもりはなかったのだ。
──だって、キャンフィは……
偶然、部屋で見つけたヘリオーティスの会員証がイアンに別れを決意させた。五芒星の形のブローチには太陽が描かれていたのである。
だが、ヘリオーティスともうまく折り合いをつけるサチを見て、抵抗感は薄れていた。サチをかばって、拷問死した男も、確かヘリオーティスだ。
「あたしも、イアン様とお会いできて嬉しいです」
キャンフィは何か含んだ笑い方をした。イアンの知っている彼女は、こんな笑い方をしないはずだ。どことなく、ぎこちなくて変な感じがする。
子供のころの忌まわしい出来事のあと、キャンフィは何年も心を閉ざしていた。ようやく感情を取り戻しつつあるから、不自然なのはそのせいかもしれないとイアンは思った。
速歩から駆歩に切り替え、先に行かれてしまったので追いかける。何年も兵士をやっている彼女は騎乗もお手の物だ。儚げで可憐だった子が男勝りに変わってしまった。
馬の尻に光の札を貼ってくれたおかげで、見失わずに済んだ。イアンたちは一時間ほど馬を駆り、ふたたび森に入った。ヴァルタン領の地理に疎いイアンは、そこが何という名前で地図のどこに位置するかも把握していなかった。露ほども疑わず、イアンはキャンフィに従った。
欠けた月の力は弱い。途切れた木々の間にニュッと突き出た塔を、近くに来るまで認識できなかった。
森の中、にわかに出現する塔は異様である。どういう用途で建てられたのか、見当もつかない。
「ここです」
「え?……ほわっ!?」
何食わぬ顔でキャンフィは馬を降りた。明かり一つ灯らない塔が宿というのか。イアンは困惑した。キャンフィは馬を近くの木につないでいる。
馬に乗ったままのイアンを、不思議そうに見上げるキャンフィの顔はあどけない。そんな顔を見せられ、下乗せざるを得なくなった。
「誰か、いるのかな? 明かりがないようだけど……」
馬のロープを木に結び付けながら、それとなく聞いてみる。
「誰もおりませんよ。あたしたち、二人きりです」
二人きり……イアンはゴキュと唾を呑んだ。首をかしげるキャンフィは「何を言っているの?」とでも言いたげな表情だ。
とてつもなくかわいいが、イアンの血圧は上昇した。
暗くてよかったと思う。絶対に顔が赤くなっている。キャンフィの前では常にクールでカッコいい若殿でいたかった。
──奥深い森の誰もいない塔で、キャンフィと二人っきり? いや、まずいだろう……何が起こってもおかしくないからな!
キャンフィは錠を外し、中へ入った。あとに続くイアンの心臓は荒々しく拍動する。




