26話 アニュラスの海
酒場を出たあとは、猛ダッシュだ。明らかに人外の速度で走るラセルタをイアンは追いかけた。
──なんて速さだ! この俺がなんとか付いていってる
亜人というのは知らされていたが、こんなにも能力値が高いとは聞いていない。分にも満たない時間で経由地に到着してしまった。
経由地というのは、ひとけのない路地だ。ゴミが置いてあったり、洗濯物が干してあったりする。子供たちが追いかけっこをして遊んでいた。ささいなことで大はしゃぎする彼らを見て、イアンは口元を緩めた。場所が変わろうが、子供はどこも同じだ。
あらかじめ馬が用意してある。見張りの少年にラセルタは小遣いを渡し、背負っていた包みを開いた。取り出したのは、僧侶が着ているような真っ黒なローブだった。着替えだと思っていたのが、変装用の服だったのである。おまけに黒髪のかつらまである。
「さ、これに着替えてください」
「俺の身丈に合っているだろうか」
「サイズが合わないなんて、ヘマはしません。王都を囲う城壁は兵士に守られています。門から出る時は門衛に軽く調べられますが、まだ情報が届いていない今なら抜けられるはずです。急いで!」
イアンは言われるがままに、かつらを被り、着替え、馬に乗った。
「いいですか? 門を通るときは鷹揚に振る舞ってください。ビクビクしていては怪しまれます」
まったく口うるさい従者だ。イアンは苦笑いで答える。ユゼフも、あれやこれや世話を焼かれて大変だったろうに。
「ただでさえ、その身長では目立ちます……もうちょっと低くできないのかな? 猫背にしてください」
「ビクビクしてはいけないんだろ? 矛盾してる」
「断然、整合性があります」
やり取りは短く、イアンたちは馬を走らせた。
最後の関門は問題なくクリアーした。
イアンは騎士のみならず、兵士にも広く顔を知られているのだが、たまたま門衛は知り合いではなかった。逃亡したという連絡がまだ入っていなかったのと、運に助けられたのである。
何をさておいても、ラセルタの口のうまいこと! これから巡回に行くのだとか、ヴァルタン領は教会が不足していて、修道士が出向いて御言葉を伝えなければならないのだとか……内海ではいまだに古い信仰を捨てきれない旧国民が多くて大変だの、もっともらしいことを付け加え、嘘八百を並べ立てた。
イアンは一言も発さず、門衛はラセルタの出まかせを信じた。
門を出たら、こちらの勝ちだ。馬を駆けさせれば、追っ手はすぐには追いつけまい。街を守る防壁が太い線に見えるころには、自由を満喫していた。
イアンは雄叫びを上げながら、上機嫌で草原を駆けた。
「待ってください! どこへ行くんすか!? ローズへの虫食い穴があるのはシーラズ方面っすよね? そっちは反対方向っすよ?」
気分よく馬を駆っているのに、ラセルタが邪魔をしてきた。そんなことはわかっている。北部へ行く虫食い穴は王都か内海、シーラズにしかない。イアンが向かっているのは正反対の西だ。
無視をされた時の態度は、人も亜人も三種類に分けられる。あきらめて、すごすごと退散するか、目には目を……無視をやり返すか。三つ目は一番共感しやすい。強硬手段に出る。
ラセルタは三つ目のタイプだった。イアンを追い越し、馬を転回させ、通せんぼした。スピードを出していたイアンは急停止せざるを得なくなり、馬は前脚を上げ高くいなないた。
「何をする! 危ないだろうが!!」
「方向が間違っていますよ? 酷い方向音痴だなぁ。オレが案内するので、ついて来てください」
「従者のくせに指図するな! 間違ってねぇし! こっちで合ってんだよ。俺は瀝青城へ行くんだからな!」
「は!?」
ラセルタの目がつり上がった。子供が怒ろうが、イアンは少しも怖くない。
「オレを騙したってことです?」
「まあ、そういうことになるなぁ? 母の形見は渡せないからな?」
「ひどい……」
ラセルタは下唇を噛んだ。いつもふざけているクソガキが、しょげ返っている姿は少々不憫だ。
じつのところ、イアンはラセルタのことを見直していた。
逃亡の際の臨機応変な対応や素早さは舌を巻くほどである。下準備も完璧だったし、足の速さはイアンを上回るかもしれない。城での生活を思い返すと、口が悪いだけで機転が利いて、仕事も早かった。優秀だ。
安心して任せられる。イアンは途中から逃亡を楽しんでいた。それぐらいの余裕があった。
「だましたのは悪かったよ。でも、魔国へは必ず行くし、危険な所へは付いて来なくていい。瀝青城へは俺一人で行くから、おまえは城下で待っていればいい」
ラセルタの返事はなかった。ヘソを曲げているのだろう。クソガキだ。
瀝青城まではかなりある。王都内の虫食い穴を使えば、あっという間だが、正攻法では馬でも数週間かかるだろう。だが、幸運なことに主国にはたくさんの虫食い穴がある。イアンは調べたことを書いたメモを衣嚢から取り出し、虫食い穴の位置を確認した。
──草原を横切って農村地帯に入る。一番手前の村に虫食い穴があったはずだ。内海沿いに馬を走らせていけば、迷わない。
そうはいっても、病的な方向音痴である。ラセルタにも一応確認してもらいたかった。
道は合っているか、ラセルタはどこかへ行ってしまわないか、追っ手に先回りされていないか──
心配は取り越し苦労に終わった。ラセルタのほうから、声をかけてきたのである。
「さっき見ていたメモをこちらに寄越してくださいよ。あなたに先導を任せるのは心配です」
イアンは馬を寄せてきたラセルタに、目一杯手を伸ばしてメモを渡した。内心は飛び上がりたいくらい嬉しいのを我慢し、しかめつらしい表情を作る。ラセルタは眉間に皺を寄せ、メモに目を走らせた。
「ふむふむ……今のところ、方角は合っていますね。村がいくつも点在しているので、間違わないようにしましょう。オレが先に走って、案内します」
スッと馬を前に出したので、イアンは胸をなでおろした。
「意外に大人だな? おまえのことを子供だと思って過小評価していたよ」
「何を言ってるんすか? オレ、こう見えて二十二ですけど」
せいぜい十五、六かと思っていた。大人びていたのはそういう理由か。幼少時より、デカいデカいと言われ続けてきたイアンにとって、幼く見られるのは羨ましいことだ。その、かわいらしさを分けてもらいたい。
「いい歳じゃないか? それにしては、言動が子供っぽいから直したほうがいいと思うぞ?」
「あなたに言われたくないです」
やはり、かわいくなかった。しかし、沈黙よりはいい。
イアンは見た目少年ラセルタを信用し、海の景色を楽しむことにした。潮風が爽やかだ。晴れた日の海は空より濃い青をしている。太陽を跳ね返す海面の下では光のヒダが揺れ動いているのだろう。そこには別の大きな世界が広がっている。最近学んだことだ。
空と海を逆転してもいいと思う。たぶん、誰も気づかない。海が空の青を映し出しているのか、空が海の青を吸い取っているのか、どちらの青が大元なのかわからなくなる。両方とも本物なのだ。
イアンはアニュラス人らしく、潮風と日光の恵みを好きなだけ浴びた。我ながら呑気だ。
不安がないと言ったら嘘になる。シーマを説得できなかった。ディアナにも拒否されるかもしれない。だとしても、望みがある限り前向きでいたいのだった。
──楽観的なのは俺のいいところだよ。きっと、なんとかなるさ!
皆に笑われてもあきらめず、海の国へ行き、竜の珠を得た。そのうえ、権能まで授けてもらった。求めれば与えられる。努力すれば報われる。世の中はそのようにできている。
潮の匂いを胸いっぱいに吸い込み、決意を新たにする。
──ディアナ様が和解に意欲を示してくれれば、シーマの考えも変わる!
まずはイザベラだ。一連の騒動のすべてに関わり、危地を共に生き抜いてきた戦友と言っても過言ではない。彼女なら必ずわかってくれる。
海が勇気をくれた。
人間と亜人が協力し合う。こんなにも心強いことはない。魔王だって下手に手出しできないさと、イアンは微笑んだ。




