66話 鮫と爺さん
海の国では、おじぎをしたり、ひざまずく習慣がない。イアンたちは軽く目礼して、ネレウスに名乗った。
このネレウスときたら、ただの貧相な爺さんである。頭頂部は普通に禿げているし、光沢を失った白髭がだらしなく垂れ下がっており、弱々しさは河童の長老といい勝負だ。陽光の影響を受けないおかげか、肌だけはきれいだが、刻み込まれた皺と浮き上がる血管が老人らしさを演出している。老齢でも筋骨たくましい海の王を見習ってほしいところだ。
──グリゴールは、こんなしょぼくれたジジイと誘拐婚させられるところだったのかよ?? ジジイのくせに美女に囲まれやがって……自重しろ!!
イアンは最初っから憤っていた。憤ったあと、匂い立つ美女たちに心奪われ、気もそぞろになる。その隣で太郎はこれまでの冒険を手短に説明した。
「ふむふむ……天狗とサウルの家来が協力して、魔王を倒すとな? 話としてはおもしろい」
「罰当たりとは思いしも、竜の珠に聖炎を消させたいなり。魔王を倒すには、それの他に術なし」
ネレウスの反応は悪くなかった。好感触だ。笑みを浮かべ、煙草をくゆらせながら話を聞いている。そう、海にも煙草があるのだ。麻薬の吸引具に似た立て笛のようなパイプをくわえ、煙を吐いている。正確には煙ではなく、白く色のついた海水だが。雰囲気としてはほぼ同じだ。
マスクを取ると溺死する身の上でなければ、イアンもぜひ試してみたかった。水中で燻された煙草はどんな味がするのだろう?
しかしながら、期待通りの回答は得られなかった。
「竜は海の守り神。罰当たりなことをしようとするな」
と、一蹴された。太郎も食い下がる。
「海の王は我らが竜の珠を得られば、三叉の矛の権能を授けたもうと仰せになった。貴殿にもご協力いただきたいのだが」
「馬鹿馬鹿しい。陸の者にわしらが協力する義理はないわ」
「そこをなんとか……」
「話としてはおもしろかったからの。手土産に気に入った娘を一人ずつ持ち帰ってよい」
「女には興味なき」
「陸の神とはつまらんものだな? 鎮座して祭られるだけか? なんのために人間に化けておるのだ? 人間と性交したり、喰らったりするためではないのか?」
「我欲のために働くは邪神なり」
「つまらん、つまらん!! おい、隣の奴、何かおもしろいことをして楽しませろ! 何もさせずに帰してはかわいそうだからな? これは憐れみだ」
突然振られたイアンはジジイを殴りたい衝動に駆られた。イアンと太郎をなんだと思っているのだ? 猿回しの猿ではないのだぞ? イアンはともかく、太郎は古くから蓬莱山を守る天狗の一族だし、エデン人からは神だと崇められているのに……この扱いはひどい──内心、娘を持ち帰ってよいの件には、そそられたが惑わされてはなるものかと、イアンは鼻息を荒くした。女を消耗品のように扱うなど、最低ではないか。
「だまれ、クソジジイ」
「イアン、待て」
太郎が頭を振っていても、構うものか。イアンはずいずい前へ出た。水温が急激に低くなり、シレーネが目を泳がせる。
「女をはべらせていい気になってるかもしれんが、ふんぞり返っていられるのも今のうちだ。俺はあんたの許可なんか、もらわなくても竜の所へ行くからな? 止められるもんなら、止めてみろ!」
「なぬ? 生意気にも歯向かう気か? よかろう、表へ出るがよい」
柔和だったネレウスの顔つきは厳しくなり、周りの女たちも甘い香りを出さなくなった。海水がやけに硬く感じる。硬水か……?
イアンは来た通路を戻ることになってしまった。
廟を通る途中、太郎が無言の圧をかけてきた。すべて台無しにしてしまったので、怒るのは当然といえる。何も言わないということは、シレーネも相当おかんむりなのだろう。彼女の面目も潰してしまったわけだ。
──けど、あのまま話してて、進展したか? あきらめて、すごすごと引き下がるオチじゃなかったかよ? キレたのはよくなかったけど
心のなかで言い訳するのは、声に出して言えないからである。表向きは肩を怒らせているのだが、内心はビクビクしていた。得体のしれない爺さんより、天狗のほうが怖い。決着が着いたら、太郎とシレーネに謝ろうとイアンは思うのだった。
御殿の外へ出ると、海水はますます冷たくなった。イアンは身震いし、マスクの中で小さくクシャミをした。女たちに囲まれ移動するネレウスは温かそうだ。数十人の美人魚軍団が守っていて、本人の姿は見えない。遅れて群れに追いつく人魚が鰭でベチンとイアンの背中を叩いていったり、「ばーか!」などと罵声を浴びせたりして過ぎていくものだから、とても悲しい気持ちになった。
「あの子たちは愛人じゃなくて、ネレウスの娘だからね?」
御殿からだいぶ離れたころ、ようやくシレーネが口を開いた。
「む、娘ぇ?? 全員か?」
「そうだよ。いない子も合わせたら百人くらいになるんじゃないか?」
「すげぇな……それだけこさえれば爺さんになるわな」
軽口を叩いてもいられなかった。娘たちは陣形を変え、泳ぐのをやめた。三角形に整列する娘たちの頂点に、ネレウスが浮かぶ。手には二叉の矛……ということは、流れ的にやはり戦うらしい。
──大丈夫かよ? よれよれの爺さんじゃん? まさか、娘たちに守らせたりしないよな?
イアンの懸念は老人の強さとは別のところにあった。美人魚軍団相手に本気を出すのは難しい。
──もしくは娘の一人に戦わせるとか?
グリゴールの例もある。武闘派の美女がいてもおかしくない。
「さあ、どこからでもかかってくるがよい!」
爺さんが矛を構えたので、懸念は霧散した。娘たちは打ち合わせていたかのように、散っていく。
「ジジイ、大丈夫かよ? 俺はかなりの強者だぞ? 悪魔とか英雄とか、いろいろすげぇのと戦ってきてるんだからな?」
「見た目で判断するとは愚の骨頂。ならば、こちらからいくぞ!」
ネレウスは流線形の体勢になった。宣言するなり、突進してくる。老人にしては驚くべき速さだ。イアンはそれをヒラリ避けた。ネレウスも負けてはいない。即座に切り返し、矛を突き出してくる。イアンは剣を抜かず、身一つで避け続けた。
──鮫と遊んでる感じかな? 来る時、遊べなかったから、ちょうどいいや。海中で戦うのは初めてだし、予行練習にもなる。
イアンとしては爺さんに稽古をつけてやっている気分である。間違って殺しでもしたら大事だから、とっとと音を上げてほしかった。
「爺さん、なかなかやるじゃないか? うん、甘く見て悪かった。けど、俺にケガを負わせたいなら、すこーし足りないかな? 無理するまえにそろそろ切り上げようか?」
「クソッ……なんてすばしこい奴じゃ。人間みたいな見た目をしおってからに……」
ネレウスは明らかに疲労している。陸の人間と同様に、肩で息をするのは意外だった。結局、陸も海も呼吸のやり方が違うだけで同じなのだ。強い者は強い。海の番人だかなんだか知らないが、イアンの敵ではなかった。
息を切らしていた老人がイアンから離れた。立て直しを図るつもりか? 何をやっても変わらないだろうと、イアンは鼻で笑った。
「煙草の吸い過ぎはよくないぞ? 呼吸器系が弱くなるからな? ケガするまえに降参しようか?」
「ナメおって……赤毛猿めが!」
爺さんの罵倒は負け犬の遠吠えだ。イアンは余裕の態度で近づいていった。
「イアン、危うし!! よけろ!!」
紙一重だった。太郎の声がなければ、そのまま泳いでいっただろう。猛禽の低声により、イアンは反射的にのけぞった。とたんにズゥンと体が重くなる。砂に沈められる感覚にも似ている。魔国で巨大蟻地獄に遭遇した時が、こんな状態だった。足元に出現した放射状の線はいったい? 海底に吸い寄せられるイアンが見たのは、恐ろしい光景だった。
ついさっきまで泳いでいた所の真下が、星が落ちてきたみたいに陥没していたのである。