61話 海の国
近くまで来ると、音楽が流れてきた。楽隊の演奏か。不安定な半音階、変拍子……聞いたことのない音楽だ。音の大きさが安定していないのだろう。伝わる音は危なっかしく、鋭敏であった。背筋を撫でられたかのように、イアンは鳥肌を立てた。のこぎりの演奏にも似ている。
聞き覚えのある打楽器、金管楽器、弦楽器の音もする。地上とは違う装置や術をつかっているのか、全身に振動が伝わってきた。
光る珊瑚が増えてきたと思ったら、岩石を丸や四角に抉った住居らしきものが見えてきた。
抉られたところからは光が漏れ、人魚が出入りしている。一人がくぐり抜けられる大きさのものから、一度に四、五人が通れそうな幅のものまで、さまざまな形状があった。
岩に穴をあけて住まいとするのは、魔国のゴブリンと似ている。異なるのは、地上にあるような加工石を積んだ建造物である。どう造ったのか、球形まである。つなぎ目が見えない建物もあった。
それらが岩と融合し、ところどころに点在していた。
イアンの知識では、水の中での接着はどうしたのだろう?……ぐらいしか、考えられなかった。ここにサチがいたら、好奇心の塊となって調べ回ったことだろう。ギュロッターリア兄弟も喜ぶかもしれない。
ポツンとあった岩山が次第に増えていき、やがて連なり、街を作っていた。グリンデルの地下街、クラウディアを連想させる風景は魚や珊瑚、貝によって華やかさを増す。
あちらこちらで燃えるトーチが街を明るくしていた。そう、海中に炎があるのだ。海に入ってから、一番の怪奇と言えよう。煙は出ず、灰も出ていない。浮遊するクラゲの群れが彩りを添える。
ここが地上であれば、イアンは目移りして通りすがりの人魚に片っ端から話しかけていただろう。イアンの姿を見て、おびえた人魚たちが屋内に引っ込んだり、嫌悪感をあらわにして罵声を浴びせたりしなければ。
到着前にシレーネが言っていたのは本当だった。
“海の国で受け入れられたのはサウル様だけ”──彼女はそう言ったのだ。
色鮮やかな下半身に輝く鱗、髪や体を飾る貝殻や真珠、珊瑚、どれも美しいのに彼らは人間を嫌う。イアンと太郎が二本足というだけで避けられた。
──差別というのは、これのことを言うのだな。人間に対する悪イメージがこれほどまでとは
無視や拒絶は悲しい。悪意のある視線は痛い。嘲笑はみじめだ。陸でこんな目に遭ったら、イアンは泣いてしまう。ここが水中でよかった。
なにより、街を楽しめないのが残念だった。
せっかくの街並みも観賞せず、うつむき加減に通り過ぎ、引っ捕らえられた大罪人のごとく王城まで連れて行かれた。
光度の極まった場所に王城はあった。
ゴツゴツした素材ではなく、ツルッとしている。いうなれば、貝殻の内側。角度によって七色が見える乳白色の滑面である。球形、あるいは楕円の膨らんだ形、あるいは球形を潰した形……それら丸みを帯びた建造物がくっつき合い、いびつな山となっていた。
シレーネは球にあいた穴の一つへ入っていった。太郎に引きずられ、あとを追うイアンは違和感を覚える。
「なぁ、ここ、主殿だよな? 取り次ぎとか、ないのかよ? 友達んちみたいに、勝手に入っていいものなのか?」
「怪しげな奴なら、衛兵に取り押さえられるけど、アタシは国王の親戚だし、顔パスなんだ」
それにしても、気軽過ぎやしないか? 主国の王城だったら、主殿をたくさんの兵士が囲んでいる。衛兵とやり取りしてからでないと、中へ入ることは叶わないのだ。槍を持った守衛がチラッと見てきただけなのが引っかかった。通常時ならともかく、イアンたちのような不審者に対して無反応とは不用心だ。
見張りという見張りもおらず、魚ものびのびと泳ぎ回っている。球の中は、くつろぎの空間といったところか。人魚たちは楽しそうに談笑していた。穴が四方にあいていて、出入り自由の状態だ。これでは王城というよりか、村長の家である。
似た球体をいくつか通り抜け、王の間に到着した。ここでようやく取り次ぎが現れる。
天井からぶら下がる海藻がカーテンの役割をし、中を見えないようにしていた。チラチラ漏れる光は、王の間がさらに明るいことを示している。ここが海の底だと忘れそうになる。
取り次ぎは青魚の顔をした魚人であった。イワシかニシンかは判別が難しいところだ。
イアンはサウルの家来と紹介され、少時待たされることになった。
「しかし、王城なのに親しみやすい場所だ」
「陸とはちがって、安全だからな?」
シレーネはとぼけた顔で答える。平和ボケというやつか。
「陸の王は寝首をかかれないかと、いつでも戦々恐々としてるよ」
「不憫なことだ」
シーマなので、不憫でもなんでもないのだが。あのデブは憎まれることで、ますます元気になりそうである。命を狙われることで、心労に蝕まれることはないだろう。
──分厚い脂肪で守られてるからな? 処刑されることになっても、首を脂肪に埋めるかもしれないし。
もし、シーマの素性や過去の悪行が明るみになり、断罪されたとしても死なないような気がした。
イアンだって亀みたいに首を引っ込められたのだから、シーマにもできるはずだ。
このせこいやり方で、九死に一生を得た暁には解放される。一度執行された刑は繰り返し執行されない。シーマはうまいこと逃げおおせ、第二の人生を歩むことだろう。エデンで、のうのうと暮らしていたように。憎まれっ子世に憚る、だ。
こんなことを考えているうちに謁見許可が下りた。飛び入りにもかかわらず、数分と待たなかった。
海藻の帷をくぐり、静謐な灯火に照らされる王の間へと進む。
まず出迎えたのは、イアンの手ほどの体長の海馬たちだ。金と紅色の彼らは色合いのバランスが取れるように整列し、イアンを玉座まで導いてくれた。
すると、緩やかな階段の三段目から先を隠していた銀の旗が、クルクルッと巻かれていく。旗は四旗、縦二列に並び、玉座を隠していた。旗と思われたそれは、銀の体に赤い鰭をつけた平べったい魚であった。
左右の旗の魚が身を巻き終えると、登場した王はイアンに「名乗れ」と命じた。
イアンはひざまずき、
「サウル王の生まれ変わりに仕えるイアン・ローズと申します」
と、名乗った。まだ仕えてはないのだが、王の御前だ。多少盛ったっていいだろう。
王は筋骨隆々とした男で、下半身には八本の触手が生えていた。体格は人間になるまえの太郎と同じくらい立派だ。
天井には珊瑚のシャンデリア、壁に灯される青い炎は魔国を思い起こさせる。
金の玉座に腰掛ける王の右手に三叉の矛があるのを見て、イアンは声を上げそうになった。微光を放つフォークからは、形容しがたい力を感じる。
イアンの意識の大部分は三叉の矛に注がれ、他のことを気にする余裕がなくなった。太郎の振る舞いを見てもいなかったのである。長い白髭を撫でつける王の姿も目の端に追いやられる。太郎の挨拶が終わると、
「其の方はなぜ謝っているのだ?」
王は首をかしげ、イアンを眺めた。イアンは視線を動かし、王と目が合って初めて、問われているのが自分だと認識した。意味がわからない。
「謝っているつもりはないのですが……」
「では、なぜ膝を床につけているのだ?」
シレーネが口を挟んだ。
「イアン、立ちなよ? なんで、膝立ちになってるの?」
見たところ、太郎も立つというか直立姿勢で浮かんでいる。人間の王に対するのとは、礼儀作法が違うらしい。
「ご無礼をいたしましたっ! 人間の社会では王に対して、ひざまずくのです。謝っているわけではこざいません!」
「さようか? 楽にせよ。面も上げたままでよい。余は二本足を嫌悪したりせぬ」
王の褐色の目は笑っていた。グリゴールの目と似ている。張り詰めていた気が緩み、イアンはマスクの下で八重歯をなめた。