71話 ラセルタ②
ラセルタは近道を知っていた。
馬がやっと通れるくらいの狭い獣道には閉口したが、おかげで一日早く、土漠の近くにたどり着くことができた。
一人であれば、ユゼフは休まない。だが、ラセルタのために何度か馬を降りた。
ささやかな休憩中、倒木に座り、寄って来た鳥たちに木の実を与える。ユゼフは食べなくても平気だ。ラセルタは隣に腰かけた。
「どうぞ」
少年は肩にかけていた包みから干し魚を取り出した。
昨晩、彼は狩ったウサギを捌いて食べていた。ユゼフが肉食しないことを知らなかったからだ。学んだ彼は非常食を出してきたのである。このような親切にユゼフは慣れていなかった。貴族社会で暮らすようになってからは特にだ。
ぎこちなく礼を言い、魚を口に入れた。
歯ごたえがあり、噛めば噛むほど味が出る。お日様の香りが鼻を抜けていった。
自然の熱によって香ばしく焼かれた塩辛い魚は、子供時代を彷彿とさせた。仕入れた魚を荷車に載せ、大声で呼び込みしながら町を歩いていたころのことを……
「君と同じくらいの妹がいる」
ユゼフは告白した。
「妹は二人いて上が十七、下が十五。実家は魚屋を営んでいる」
ラセルタは意外そうな顔でユゼフを見た。
「母と義父の結婚式は義父の実家のあるヴァルタン領で挙げられた。それが不幸の始まりで、俺の実父、領主であるエステル・ヴァルタンが母を見初めてしまったんだ。母は領主の初夜権※により結婚の当日、孕まされた」
言葉が溢れてくる。ユゼフは過去の自分を隠し、本音を抑えつけて生きてきた。
「花婿である義父は自殺未遂。三ヶ月寝たきりだったから、腹の子の父親は明らかだろう。その時、母の腹にいたのがこの俺……でも、実父の殿様は八年前まで認知しなかった。俺は十二歳まで平民として、町で暮らしていたんだよ」
ユゼフは言葉を切った。本当はこんな話はしたくない。だが、ラセルタが自分を貴人のごとく扱うから、違和感を抱かずにはいられなかったのだ。
「十二の時、兄たちが死んだ時の保険としてヴァルタン家に入った。戦争が終わり、保険の価値がなくなれば、父は俺を宦官として王家に仕えさせ、利用するつもりだった」
「……ということは、ユゼフ様は生まれながらの貴族ではないんですね。なんだか親近感が湧いてきました!」
ラセルタは人懐っこい笑みを見せた。身の上話はあまり、効果がなかったようだ。
少年は木の葉の隙間に見え隠れする青空を見上げた。
「あのね、ユゼフ様がお一人で森におられるところを見たんです。鍛錬のため、魔獣を探している最中でした。遠くにあなたの姿が見えたので木のうろへ入り、呼吸も止めて必死に気配を消しました。ほら? オレ、トカゲなんで気配を消すのは得意なんですよ」
ラセルタはそう言って、腰から生えている尻尾を揺らして見せた。
「……近づいてきたあなたは裸足でした。オレが隠れている木の近くで止まったあなたを、木漏れ日が照らし出したんです。鳥やウサギ、アライグマ、狐……森の動物がたくさん集まってきました……臆病な鹿やリスも。その様子があの、なんというか……」
ラセルタは言葉を詰まらせた。
「……まあ、いいです」
数分休むと、ユゼフたちは出発した。森を出た先には土漠が広がっている。
乾燥した低木と丈の低い尖った草。それらが所々、生えているだけであとは何もない。はるか遠くの地平線まで容易に見渡すことができた。
土漠へ入る手前で木に登り、様子を窺った。
北東に宿営地と思われる複数の天幕が見えた。王女の護衛隊が宿営した場所と同じ方角だ。
兄たちの遺体を置き去りにした宿営地跡へ行くには、カワウ兵の横を通るのが必然となる。
「どうなさいますか?」
問いかけには答えず、ユゼフは幹に体を預け、大きく深呼吸した。
喉の奥から出すのは周囲を震わせる大音声、カラスの鳴き声だ。ラセルタは「ハッ」と息を呑んだ。
ユゼフの発する鳴き声は鋭く長く、大空を突き抜けた。
変化は待たずとも来た。闇からの使者は、万物を取り込まん勢いで迫りくる。南の空はたちまち黒くなり、カラスの大群がやって来た。
大群はあっという間に樹上のユゼフたちを取り囲んだ。黒い羽に覆われ、視界は闇となる。
暗闇の中、ラセルタが体をこわばらせていたのでユゼフは、
「怖がらなくていい」
とだけ伝え、カラスにカラスの言葉で語りかけた。
喉の奥から鳥とそっくりな鳴き声を出すのだから、人間から見れば、かなり不気味な光景だろう。
いつもだったら、人前でこんな姿はさらさない。それだけラセルタに対して、強く親愛の情を持ったのだった。
カラスたちは鳴いたり羽ばたきもせず、ユゼフの言葉に耳を傾けた。
やがて、話が終わると一斉に北東へ飛び立っていった。
「何が起こるんです?」
驚きと興奮の入り混じった口調で尋ねるラセルタにユゼフは、
「さあ、行くぞ!」
と、木から飛び降りた。馬に乗り、宿営地へと向かう。寸分の迷いなく敵陣へと疾駆させた。
馬を操りつつ、蟻のごとき兵士の動きと感情を読み取る──ユゼフは目を閉じ、耳を澄ました。
カラスたちはカワウ軍の宿営地上に真っ黒な翼を広げた。
兵士たちの頭上に青空は一片たりとも見えなくなる。知覚できるのは、雷雨が起こる寸前のような暗さとカラスの騒がしい鳴き声だけだ。
「いったい何事だ!?」
「このカラスたちは!?」
彼らは戦慄しているようだ。不規則な拍動や乱れる呼吸からわかる。カラスや黒猫が魔に属するという観念は万国共通である。不安が掻き立てられるのは当然であろう。
慌てて武器を手に取ろうとした矢先、雷雨の代わりの物が大量に降ってきた。
「うげっ! なんだ、これは!?」
「ひいいいい!!」
悲鳴はこちらまで届いた。ユゼフは目を開けて微笑んだ。早馬で移動していたから、だいぶ宿営地に近づいている。彼らの頭上に降ってきたのは……糞尿だ。
敵兵は慌てて天幕の中へ避難した。
大群の排便はなかなか終わらず、兵士たちは長いこと出られなくなってしまった。
天幕が途切れた所から綺麗に区切られ、通常通りの青空が広がっている。カラスで埋め尽くされたのは宿営地の上だけだ。
ユゼフとラセルタは悠々と糞尿が降りしきる横を通った。
天幕は白い塗料をぶちまけたかのように糞尿で汚れている。臭いも強烈だ。時間にして一時間程度、地獄は続いた。
用が済むと、カラスたちは北西へ飛び立って行った。人間たちは汚れた天幕を捨てて反対方向へ逃げていく。
そのころにはもう、ユゼフとラセルタは彼らから充分遠ざかっていた。
「愉快ですね! 糞まみれであいつら、慌てて逃げていった」
ラセルタは心底楽しそうに笑った。この少年からは邪気がまったく感じられない。レーベとは大違いだ。穢れなき笑顔はこちらまで楽しい気持ちにさせる。
「ああ、そうだな。愉快だ!」
ユゼフはそう答えてから、チチチと舌で合図し馬の足を速めた。
宿営地跡は盗賊に襲われた時のまま、時が止まっていた。
焼け焦げた天幕やボロをまとった白骨死体、地面にばら撒かれた寝具や衣類は気持ちを沈ませる。あの時、ユゼフは逃げるのに必死だった。ディアナを背負って、飛んでくる火の子を振り払い、前しか見ていなかったのである。
彼女は恐怖で体を震わせていた。背中で受けたその感触が蘇ってくる。
我儘で癇癪持ち、意地悪で高慢な彼女のそんな姿を見たのは初めてだった。囚われの身である今も、あの時ほどでないにせよ、不安と恐怖で泣いているかもしれない。そう思うと胸が締め付けられた。
「あそこだ」
指差した先には幌馬車があった。身を隠した馬車があったのと同じ場所だ。
とっさの判断で衣装や贈答品が入っているほうの馬車へ逃げ込んだが、遺体の入っているほうを選べば安全だった。今となってはどうでもいいことだが。
あの幌馬車の中にアダムの遺体があるはずだ。近くには袈裟切りにされたベイルの遺体が残されている。
ひと月もの間、野ざらしで太陽に焼かれた遺体は水分を失い、黒ずみ、ミイラ化していた。裏切り者の悲しい末路だ。
これが、ヴァルタン邸で他の使用人たちと一緒にユゼフと食事をしていたベイルとは、到底思えなかった。
馬鹿にしたような笑みも見下した視線も、もうそこにはない。眼窩にはぽっかり大きな穴があいている。死んだ時のままの間抜け面だ。穴から虫が這い出していた。
一方、幌馬車の中は蒸し暑く、異臭が鼻をついた。日光にさらされていたベイルとは異なり、腐敗が進んだアダムの遺体は白骨化していた。
アダムが宦官になって以来、会うことはなかったから、記憶の中の彼は気弱な美少年のままだ。だから目の前にある骸骨を見ても、ユゼフはピンとこなかった。
激しい気性のイアンを兄に持ち、親の都合で宦官にされた彼の人生で心安らげる時はあったのだろうか。胸の上に組まれた骨だけの両手は今にも崩れそうで、彼の儚い人生を思い起こさせる。
ふと、手の下のキラリと光る物に気づき、ユゼフは瞬きをした。
金目の物は盗賊が奪い取ったはずだが、遺体を綿密に調べるほどの時間は残されていなかったようだ。
骨だけのアダムの手をそおっと動かすと、そこには黒ずんだ銀のお守りがあった。
メシアの剣を象ったお守りには、鍔部分にダイヤが埋め込まれている。傷はあるものの、高価な物に違いなかった。
遺体を損壊したくなかったので、ユゼフは注意深くアダムの首からお守りを外した。布で磨くと黒ずみが少し落ち、剣の裏に刻まれた名前を読み取ることができた。
『イアン』
お守りには彼の兄の名が記されていた。
間違いない。アダムが王城へ出仕する際に、イアンが渡した物だ。ユゼフは丁重に懐へしまった。
ダニエルの遺体を見つけるのは難しくなかった。
焼け焦げた兄の天幕内にあった首のない焼死体。それを布でくるみ、ラセルタと馬車の中へ運んだ。
すっかり日が暮れてしまった。馬にハーネスを取り付け、遺体の入った馬車をそのまま使うことにする。
今夜は月が出ていないから好都合だ。松明は南西方面でちらついている。カワウの兵とは接触せずに森へ戻れそうだった。
空を見上げれば、星々が月夜の晩には見られないほど明るく輝いていた。
「明かりを灯さなくても大丈夫なんですね?」
「暗闇は慣れている」
「オレも同じです」
ユゼフの新しい相棒はいつでも楽しそうで、疲れを忘れさせてくれた。
「魔の国へ行くのか?」
「ええ。もちろん!」
「……死ぬかもしれないんだぞ?」
「構いません」
ラセルタはきっぱり言い切った。頑固者め、とユゼフは苦笑する。こういうところは自分と似ている。
家来ができたことをシーマに話したら、きっと笑うだろう。人の上に立つような柄じゃない。導いてやることも、守ってやることもできやしないのに、この子はそれでもいいと言うのだ。
ユゼフは頭に被っていたターバンを取った。冷たい夜風が心地よい。
──やっぱりサチは死んでないかも
漠然とそんな気がしてくる。
アダムとダニエルの変わり果てた姿を見たからかもしれない。サチがあのような状態になっているとは、想像できなかった。
静かな土漠の夜。澄んだ空気を抜けて、星がシャランシャランと今にも降って来そうだった。メシアが生まれるのもこんな夜に違いない。
※初夜権……領主が結婚初夜に新婦と性交できる権利。




