49話 居反りからの
はっきよーい、ノコッタ、ノコッタ、ノコッタ……
行司の威勢良い掛け声が興を添える。まえにこの言葉の意味を河童に尋ねたのだが、「なんじゃろな?」と首を傾げていた。イアンは「投げろ!」とか、「やっちまえ!」とか、威勢のいい言葉を勝手に想像する。
──ルールを覚えてないだぁ? ぶちのめすか、輪の外に出しゃあいいんだろ? かんたん、かんたん
心の中でこんなことを呟こうとも、舐めてかかるつもりはなかった。前回暴れた時、禁じ手だと何度も言われたため、ダメなことは体が覚えている。
──蹴るのと拳、頭をつかむのは、なしな。急所狙いがダメなことぐらいはわかっている。
観客がいると喜ばせたくなるのがイアンの性。派手な投げ技は自分に最も向いている。だが、今日は慎重だった。相手は冷静沈着な太郎だし、相撲でイアンは何度も負けている。
くわえて、爬虫類的な太郎の手には鋭い鉤爪があり、一度つかまると逃れるのは困難だ。逃れられたとしても皮膚は深く裂かれ、相当な苦痛を味わうことになるだろう。
──ほら、今みたいに袴をつかむのは想定内だろ? 交互に組み合うのが理想だったが、失敗した。ほんのわずか早く、太郎が懐に入ってしまった。もろ差しと言うんだったか? 両手を下手で差されている。ちょっとでも気が緩むと、出されるか投げられる。
戦士というのは一秒未満でさまざまな考えを巡らす。一瞬で消えゆく言葉だ。それも、激しい攻防が始まれば脳は停止し、本能頼みとなる。どう攻めるか守るか、だいたいのところは見合っている最中に思考を重ねている。戦うまえのにらみ合いは単なる煽り合いではなく、互いに準備をしているのだ。
組まず、掌打で戦うことも考えた。太郎との相撲は体格差のせいで、投げようとしても踏ん張られてしまうことが多い。一度、イアンが勝利した時は、バランスを崩させて押し倒したのだった。
イザベラが雷太という河童に掌打だけで勝ったのを思い出し、試してみる価値はあると思った。ケンカの際、イアンは拳を使うので掌打の経験はないが、掌の筋力には自信がある。幼いころより、木登りや岩壁登りで鍛えていた。なぜ、そんなことをしていたか? ただの遊びである。
だが、この地味な選択肢は見合った際に霧散した。
イアンの三白眼にも似た太郎の目が「組もう」と言っていたのだ。申し出を断るのは、怯懦のせいだと受け取られかねない。プライドの高いイアンは受けて立つことにした。
組んだからには、やはり投げるか。太郎のほうがイアンより一回り大きいから、投げようとするとどうしても体が反る。抜け目ない太郎はこれを好機と、押し倒そうとしてきた。
太郎はイアンに比べ、剛力である。純粋な腕力だけで勝負しては確実に負ける。相手の力を受け流す、あるいは力の軌道をずらすのは常套手段だ。相撲の場合、戦闘範囲が狭いため、受け流した力を有効活用しやすい。
イアンはいっそう反り返り、太郎を押し上げようとした。
……持ち上がらない。イアンと同じく優れた体幹を持つ太郎はビクともしない。締め付けられ、呼吸が苦しくなった。イアンの魂胆を察知した太郎は組む手に力を入れる。イアンの両足は浮かびそうになっては、持ち堪えるのを繰り返した。このままのやり方では負ける。
それでも、イアンはしつこく太郎を押し上げることに専念した。追い詰められようが、決めた方法を頑なに守った。イアンにしてはめずらしいことだ。
相撲は短い時間に勝負がつく。方針の変更は時に命取りとなる。機が熟すまでは戦術を変えるべきではない──そう判断したのである。
もつれ合い、とうとうイアンは土俵の際を踏んだ。都合のいいことに土俵は円形。踵ではなく、足の側面が俵に触れた場合、相手もかなり境界に接近している。勝利を確信した太郎が緩むその瞬間、イアンはクルリ背中を向け、曲げていた腰をピッと伸ばて太郎を押し出した。
勢いあまって、イアンも土俵の外へ転がった。土ぼこりのなか、わぁわぁ騒ぐ声が聞こえる。この時点で、勝ったか確証はなかった。
行司が軍配を上げているのを見て、勝ったのだとわかった。頭の羽毛を乱した太郎は嘴を半開きにし、悔しそうな表情をしている。
極度の緊張から解き放たれたイアンは戦闘後、呆けるのが常だが、今回ばかりは飛び上がって喜んだ。
「やった! やった! 俺の勝ちだから、洞窟には入らせてもらうぜ!」
肩を落とす長老に謝る太郎は哀れである。
「力が及ばず、すまなかった」
「勝負事は一回きり。これも定め」
イアンは、河童たちからブーイングを浴びるのを覚悟していた。彼らが手を叩き、健闘を称えてきたのには肩透かしをくった。戦いぶりで河童たちの心をつかんだようだ。
「目が離せない接戦であった!!」
「大技はイアンらしいな!」
「居反りから後ろもたれに転向するとは素晴らしい!!」
技の名前を言われても、本能で動くイアンにはよくわからなかった。ぎりぎりのところで向きを変え、背中で押したのが良かったらしい。
「見たか!! 俺の専門は両手剣だが、体術もできるんだからな!」
例によって、賞賛を浴びたイアンはふんぞり返った。ここにアキラとダモンがいないのは残念だ。ペットたちは目を輝かせて、イアンの勇姿に見入ったことだろう。
太郎はそんなイアンを無視して、長老にきゅうりを渡した。
「お気に召されるかわからぬが、供物をもらったので分け奉らん」
大陸ではよく食べられるが、エデンではそこまでメジャーでなかったらしい。長老の反応は微妙だった。
「ふむ……きゅうり、とな?」
「一口、かじってみるがよい」
しゃくり……こわごわ、口に入れた長老の顔が笑顔になる。
「これはうんまい! 皆のもの、食べてみよ!!」
わらわらと集まってきた河童たちは、それぞれきゅうりを手に取り、舌づつみを打った。
ガラリ、打って変わって不穏から和やかムードになる。食べ物の力は偉大だ。
†† †† ††
「しっかし、そんなに言うほど、きゅうりってウマいかぁ?」
「河童たちは、たいそう気に入った様子であった」
「自分らと同じ色だからかな?」
「里に帰ったら、我らも食そうぞ。叩いてもろみ味噌をつけても良いし、梅と和えてもよかろう」
「俺は一本漬けが食いたい」
イアンたちはこんな話をしつつ、洞窟を歩いた。呑気なものである。一年前はもうちょっと、緊張していた気がする……いや、イアンはアスターとくだらないことでやり合っていた。あの薄らハゲ親父は、イアンの赤毛を馬鹿にしてきたのである。
「どうした、イアン? なにか、ありしや?」
「あー、思い出したら、笑えてきてな? アスターのクソオヤジのことだよ」
「我は酒宴の席で数度話した程度ゆえ、アスターのことは、よくわからぬ」
「すっげぇ、口汚えジジィなの。ことあるごとに人を罵ってくるし。これから未知の異形と戦うってのに、いつもどおりで緊張感ゼロだったんだよ」
イアンは口の端を歪めた。光の札が弱々しく点灯する薄暗い洞の中、夜目も利かぬ人間がしょうもないケンカをし、刀鍛冶談義に花を咲かせていた。道行く先にたくさんの異形が待ち構えているのに、だ。イカれているとしか言いようがない。
アスターは異形たちを前にしても平然としていた。鈍感なのだろうか。
「憶測に過ぎぬが……」
太郎は慎重に言葉を選ぶ。水の滴る音が琴の音のように響く厳かな場所と、太郎の所作は釣り合っていた。
「アスターは緊張を和らげるため、いつもどおりに振る舞っていたのではあるまいか?」
言われてみれば、洞窟に入った直後、イアンは少し怖かった。外の空気とは一変して強い魔力をひしひしと感じられたし、そのわりに静まり返っていた。
アスターとバカだハゲだとやり合っているうちに、恐怖が吹っ飛んだのである。
「クソジジイめ……」
「根は優しい男なのかもしれぬ」
「いーや、ジジイに限って、それはないよ」
そうは言っても、イアンは緊急時、何度もアスターに助けられている。
──あれは俺がシーマの息子で利用価値があるからで……
初めて会った時もアスターはイアンを殺さなかった。これは、情報が知りたかったのだと思われる。
アスターが実は優しかったなんて推論は気持ち悪すぎた。憎まれ役は憎まれ役らしく、腹黒でよろしい。
会話の途中に視界が開けた。青白く光る鍾乳洞だ。




