33話 お守り(サチ)
ディアナは逃げた。
そうとわかれば、こんな邪悪な城とはとっととおさらばだ。サチは微笑み、肩の上に居座るカッコゥへ手を伸ばした。
「ありがとな、カッコゥ。俺はもう行くよ」
触れられたカッコゥは脱力し、肩からずり落ちる。片手で受け止め、サチはヤシの木の下にカッコゥを寝かせた。かつての相棒には、しばらく眠っていてもらおう。あとはザカリヤへ文を送り、脱出する……
絶妙なタイミングで、鉄扉の隙間からコウモリが入ってきた。ランタンの灯りのなかでは黒さが際立つ。ザカリヤからの文だ。
グラニエの手の上でコウモリは灰色の紙片に戻った。それを開くまでの二秒ほど、サチは束の間の平穏を味わった。
ディアナとイザベラは逃げて無事だ。天はサチに味方している。緊張はしていたが、風向きが急に変わるとは思いもしない。
灰色の紙片がふたたび羽を広げた時、目に飛び込んできたのは、
“気づかれている。逃げろ”
シンプルな言葉は空気を一瞬で凍りつかせた。サチとグラニエは同時に息を呑んだ。
「マヌケめ! すべてお見通しだ!」
聞こえるのはユゼフの硬質な声。ヤシの木の方からだ。
起き上がったカッコゥが冷笑していた。黒い目は感情のない穴となり、不気味な皺が顔を歪ませる。かわいい人形が呪いの人形に変わってしまった。事態の急変にサチの脳はついていかない。
「ザカリヤとかいうアホは捕えている。アホの命が惜しくないなら、逃げてもいいぞ?」
「脅す気か?」
「脅すも何も、どのみち全員殺す気だからな? ただ、今逃げると、貴様らはおもしろいものを見逃すことになる。うちのサムが戦う気なのだ。英雄対決とやらを見たければ、来るがいい」
声はユゼフでも、しゃべり方はちがう。カッコゥはつっかえることなく、スラスラと唄うように話した。
「まさか、自らやって来るとはな? グリンデルの女王に住処を燃やされたのだろう? それで、みじめにキメラの穴蔵へ逃げ込んだ。全部、存じておる。朕の手のものが貴様らの仲間に紛れておるのだ。ディアナを助けに乗り込んでくるとは愚かな……」
シュッと空気を切り、鋭い刃が飛んだ。グラニエのダガーがカッコゥの喉の真横を過ぎ、木の幹に突き刺さる。
すんでのところで避けたカッコゥを第二刃が追撃しようとしていた。サチはグラニエの手を抑え、それを阻止した。カッコゥはキキキ……と獣らしき笑い声を立て、空中に消える。
「なぜ、止めるのです?」
「今さら、殺したところで意味はない」
「あなたは愚かにも敵を見逃し、命をかけてしもべを助けに行こうとする」
「まえにも俺のことを愚かと言ったな? ザカリヤはしもべではない。父親だ」
言っても無駄だとグラニエは大きな溜め息を吐いて、言い争いを終了させた。
不思議とサチは落ち着いていられた。追い詰められたことで冷静になれる。こういうことは以前にもあった。失敗すれば一貫の終わりの綱渡りとはちがい、すでに詰んでいるのだから気負う必要はない。
「娼婦も看護師もまえからいる者たちだ。診療所の患者のなかに曲者が紛れ込んでいたのだろう。仕方のないことさ。俺たちは常に薄氷の上を歩いている」
「ディアナ様を助けに行くべきではありませんでした」
「もともと、こちらの行動はリゲルに筒抜けだったんだ。遅かれ早かれ、こうなったさ」
勝てる自信も説得できる見込みも皆無だが、逃げるという選択肢はなかった。ザカリヤを置いては帰れない。
サチは気配を消すのをやめた。バレているのなら、こそこそ動き回る必要はない。これは王対王の対決だ。誇り高き王が、迷い込んだネズミのごとき振る舞いをすべきではない。
サチは堂々と地下の階段を上がり、城内を歩いた。自動的に灯るトーチにビクついていたなんて、笑える。凝視する魔物を尻目に回廊を抜けて、王の間へと向かった。物言いたげなしもべは、おとなしくついて来ている。
よく使う通路は毎日モップを掛けていた。トーチ台の埃を払うのも、小さなテーブルに花を生けるのも、サチの仕事だった。王の間にはピアノがあったはずだ。パレルソンの村人が修理して、弾けるようになった。サチはニーケにピアノを教え、イアンと連弾することもあった。ピアノの旋律に合わせて、イザベラが歌い……
「どうしても、思い直してくださいませんか?」
あふれる思い出に栓をしたのはグラニエだった。トーチの青い光では暖色が消え、グラニエはよくできた彫像に見える。濃い陰影は彼を美青年時代に戻したようだった。
「私が死んでいなくなるとしても、向かわれますか?」
「その時は俺も死んでいるだろう」
「命と引き換えに助けることはできるかもしれません」
「そこまでして、助けるような命でもないさ」
グラニエが立ち止まったので、サチも止まった。例によって怒られるのかと思った。
王の間へ続く回廊に敷かれた赤絨毯が血の川に見える。黒いガラスに挟まれた通路はとてつもなく圧迫感があった。
「私が今、何を考えているか? あなたの意識を無理やり奪って、ここから逃走することです。ザカリヤ様は亡くなられ、あなたは恨み言を繰り返すでしょうがね」
穏やかな声にはトゲがあり、サチは身構えた。とはいっても、体は前方を向いたまま、背後のグラニエを見ようとはしなかった。
「あなたはまだ幼い。王として立てるには未熟すぎる。想いばかり先走り、実を結ぶまでには至らない」
そんなこと、いちいち言われなくても、サチは痛いほどよくわかっている。自分が至らないせいで、物事はいつも悪いほうへ動いていく。サチが助けられたのはイアンだけだろう。そして、イアンを助けたことによって、事態はますます悪化する。
「この無情な世界で汚されず、よく生き残ってくれたものだと。だからこそ、その純潔を守りたいと思うのです」
ここに来ても、子供扱いするか。サチはいまだに、自分がグラニエの部下でいるような気がしてならなかった。護られ、教えられる立場から永遠に抜け出せないでいる。
顔を上げ、「余はサウルなり。魔王を倒すべく、転生した英雄王の生まれ変わりである」と虚勢を張ってもよかった。
しかし振り返った時、グラニエは真ん前に立っており、険が取れた顔でサチを見下ろしていた。小さな子に対するような優しい目を向けられると、何も言えなくなる。
「これを……」
グラニエは自分の首からお守りを外し、サチの首にかけた。魚を縦にした形の銀細工だ。細かい蔓草模様は鱗と見紛う。細く埋め込まれた七色はグリンデル水晶か。三日月型の穴が空いていて、笛なのだとわかった。
「姉もお揃いの物を持っていたのですよ。きっともう、どこかへ行ってしまったでしょうが」
「死ぬつもりか」
「いいえ。サウル様をお護りするつもりです」
死を覚悟するしもべを前にして、サチは回れ右をしたくなった。ザカリヤの代わりにグラニエを失うことになったら? いいや、二人ともサチを置いて逝ってしまうかもしれない。
――ジャンがいなかったら、俺一人では何もできない。自分の身すら、守れないんだ。誰かを助けるなんてことはとても……
埋め込まれたグリンデル水晶が、姉弟の邂逅を果たさせたのだろう。王のためにしか生きられない哀れな姉弟を守ってきたお守りは、今サチの手中にある。
握ると、骨まで凍ってしまいそうに冷たかった。




